Tuesday, December 8, 2009

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二章 意識とは 記述と構え によって作られている

 意識は先験的に私たちに付与されているわけではない。それは寧ろア・ポステリオリに私たち自身の意味(私たちが私たちに付与した)→人格、人格→意味 という連関によって先験的であるように思い込んでいるに過ぎない。意味は体験的記憶に伴う感情であり、その傾向性が人格を理性的方向付けとの兼ね合いにおいてその都度決定している。
 記述とはその都度の私たちの判断そのものの傾向性こそが、個々の対象への構えとして構成させている。
 ここに次に図式が成立する。

  →
意味 記憶
  ←↓ ↑
  →
記述 判断
  ←↰↓ ↑→構え
↳ 傾向性

 これら個々のトラフィック・モメントも又、傾向性そのものと理性的判断、あるいはその都度の決心に依存している、と言える。
 尚前章で私が示した図式の↓はあくまで概念上での展開可能性として示しているのであり、因果的時間系列ではない。それはある部分では常に同時的であるとも言い得るし、ある部分ではある事象に対して後天的にそう認識し得るということである。
 尚人格について言えば、それは他との相関性において自においても決定するし、また記憶内容の概略的事実以外のエピソードに纏わる意味は刻々と変更させていっている。そういう意味では全ての心的決定はその都度の偶像崇拝的逃避(本ブログ「トラフィック・モメント」を参照されたし)、つまり自において他に責任転嫁的に委ねておけばよいという判断に基づいて、こればかりは他一般という偶像には委ねられないというもののみを自における対象化すべきもの、つまり関心事項とする。
 要するにここで重要なこととは、端的に我々は常に意識が全ての行動、意志決定の出発点であるように思い勝ちであるが、それは一種のそう思いたいこととしてであり、内実的には我々にとって意図(ここでは図式に登場しないが、記述が行動と結びつく時には登場する)こそが全てを決しているのであり、そこには目的と期待、願望といったものがある。しかしそれは覚醒しているという意味では確かに意識ではあるが、覚醒していることと意識とを通常我々は形而上的には違うものとして考えている。つまり意識とは意志と覚醒とが結びついている時のことを言う。すると意識とは本質的に後発的な複合化された概念ということになる。そこで私は複合化される以前的なものとしては記述と判断、傾向性そしてそれらの相関性を軸とした構えを意図の根源と考え、構えが行動へと移される時に意図となって明白化、顕在化される、と捉えるのだ。
 だからこそ本章を 意識とは 記述と構え によって作られている としたのである。

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