Thursday, December 3, 2009

〔言語の幻想とその力〕4、客観としての他

 フッサールが言う超越論的主観性というのも、ハイデッガーの言う現存在による配視も、ミシェル・アンリが言う限定態としての他性認識も、レヴィナスが言う贈与とか他性も共に、我々が主体とか自己といった認識を得る際に、根源的に他を客観的に認識する能力に発しているという思想性に裏打ちされている。それは対自的認識の発生根拠であり、対他的な認識も、対自によって得られた即自的な認識の発生の事後的な在り方かも知れない。さてフッサールが「論理学研究」期において示した純粋心理学的見地はどちらかと言うと、即自的認識であった。しかし即自へといきなり行くということにはある種の不自然さが伴う。フッサールは超越論的主観性においては、即自以前的な対自認識を「イデーン」期において規定した。そしてその根源的な思想には場といったものであるとか、他性ということが背後にはあったのかも知れない。事実志向性というものさえ、他を必要とするからである。そうである。主観とは客観を起源としていのである。そして客観とは同を得る以前に異を得ることであるが、根源的には異とはそれ自体で同であり、然る後、我々は自己を同であると認識する。そして異を他へと転化させるに至るというわけである。
 ヒラリー・パットナムは現象学を批判的に捉えているが、彼が言うように「生起するものとは能力である」(「理性・真理・歴史」より)という捉え方は明らかに外在主義的視点のものである。我々の意識を内在主義的に捉えたのと逆のベクトルが哲学上のスタンスとして介在している以上、パットナムの批判を受け入れ、即座にフッサールを批判するわけにもいかない。その意味では幾分ウィトゲンシュタインもまた外在主義的である。言語それ自体を使用と捉えるその遣り方は、使用する側からの発言であるよりは、寧ろ使用されている事態を俯瞰した物の見方であるからである。そこでフッサール的な前言語状態といったような根源性への認識と私というものと外延との、つまり経験し得ることの全て、目撃し、体験し得ることの全てとしての世界と私の一致というウィトゲンシュタインの認識もまた、外在主義的視点の応用として位置づけることが可能である。よって先述のように私がそのどちらを選択したらよいかを決めあぐねているという事態の回答としては、我々がフッサール的言語観を正統とするか、ウィトゲンシュタイン的言語観を正統とするかという問いそのものが不毛なものと化す、ということだけは確かなようである。これは採用される視点と問題設定の質的な相違に応じてどちらかを選択するというよりないという結論に達するのだ。
 少なくともフッサールもウィトゲンシュタインも共に哲学が外在主義的な脳科学的な解釈とか神経学的解釈として納得し得ることだけで人間が生を理解し得るとは思われないという面では全く一致している。そしてそれはハイデッガーの次の一言(「存在と時間」中公クラシックスⅡの41~42ページより)の主張を説得力あるものにしている。
<現存在の非透視性は、ひとえに、また第一次的に「自己中心的」な自己錯覚のうちにその根をもっているのではなく、それと同じくらい、世界を識別しえないことのうちにもっているのである。>
 つまりハイデッガーの言う現存在は極めて意識の自覚というのに近いものなので、現在「生」を実感している私のこの息遣い、思考の志向性といった全ては、時間論的に言えば、そういう全てとして把握し得ると思った途端に次の瞬間に移行しているようなものなので(「存在と時間」は時間という謂いは最後近くしか多く登場しないが、全編に渡って時間意識の哲学テクストである。)そういう全体的な推移の中でだけしか自己を把握出来はしないある種の曖昧さ、大まかさといったものが、我々に純粋な現存在という意識を確固たる指示を不可能にしている。それを恐らくハイデッガーは非透視性と呼ぶのであろう。透視というのは真理の直視である。真理とは純粋であり、曖昧さとか大まかさはない。そこで我々はこの真理の直視の不可能性において、それが認識上は可能であるということを我々自身が信じて哲学するわけだから、それにもかかわらず認識論上真理という名辞として指示し得るのだから、出来ない能力を名指すことそれ自体をハイデッガーが「自己錯覚」と呼ぶという風に私は解釈する。
 そしてそれはフッサールとウィトゲンシュタインを巡る言語の二つの認識の在り方から見る私たちの外在主義ならざる認識としての哲学の在り方が、今内在的に自らの心の在り様を解釈しようと欲すると我々はそれを曖昧な、大まかなものとしてしか掴みきれないことをも示しているのだ。しかしその現実の掴み切れなさとは無縁に、あるいは反比例して認識上の真理はどこまでも明快である。「そういうものとして理解する」ことが哲学の認識の在り方であるとすれば、純粋な正三角形は世界には実体論的には存在しない。しかし正三角形の定義とかその定義を通して理解し得る概念上の正三角形は常に我々が存在し続ける限り我々の理解上、つまり脳内に存在する。そして後者の概念上の純粋な正三角形こそ真理である。そして客観性というものはそういう真理として実存するものの他としての価値論的な認識に他ならない。
 つまり客観的な認識を持つことそれ自体が正三角形という概念上でしか存在し得ないものをあたかも存在するものとして認識し、それを基準に三角形に近い存在物を認識しているのが私たちである。それは客観的に他を認識することを通して、知らず知らずの内に我々は本来持つ我々の能力として他を、そこに真理を見るための方策として利用しているのである。他は真理を持つために見るということにしなければ、一々固有性や個別性という異だけに捕らわれていたら、一切の処理、つまりちょっとだけ見たものをやり過ごすということは出来ない。全部の事物を我々は過度の関心を持って臨むことなど出来はしない。そこでやり過ごすためにこそ、その事物をすぐに取るに足らないものとして忘却対象として位置づけるためにこそ、例えば都会で電車で乗った時に見たひとたちの顔は、それから仕事上、友人関係として必要な識別性においてではない限り、一々全員の顔を記憶に留めておく必要もない。そこで我々は電車に乗った時に人の顔は、それがどんなに魅力的な異性であっても、誰か知人に似ていても、そういう魅力的な人、似た人がいたということだけを頭に留め、後は忘れるように脳が指令を出しているのであろう。そういうものはすぐに忘れるものである。だからこそ他として自己認識以前的に立ち現れる客観的な基準の認識は、ちょうど今述べた「魅力的な人」、「誰それに似た人」というカテゴリーの名札を付与して留めおくだけで、あとは全部忘れようとするのだ。
 しかしここで一つの問題が浮上してきた。それは他者というものの存在が我々をして意思伝達せしめる誘因作用として位置づけられるなら、他性というものが即ち他者の存在を自覚、意識して初めて客観的な認識を得ることの必要性に迫られるということになる。なぜなら他者がいないのなら、我々は殊更事物を客観的に存在するものとして位置付け、「あの男性」とか「あの車」という風に陳述する必要などないであろうからである。客観としての他は存在する事物も人間も全てひっくるめて他者の存在を必要とするし、またそれなしには認識上の必要性には迫られない。(とは言え、一人で孤島に暮らしている人間でも、規則正しい生活パターンを身に付けることが可能なように<コリン・マッギンの「ウィトゲンシュタインの言語論」勁草書房刊の最後部を参照されたし。>客観的認識それ自体は他者との意思伝達なしにも可能であろう。しかし少なくとも、他者との接触を一度でも持ったことのある人間は、対自己的にも客観的なる他という認識を持つことが出来るが、生後間もなく人間社会から隔離された状況の人間(それは生物学的なホモ・サピエンスでしかなく、少なくとも言語活動による理性的人間のあるべき像ではないであろう。)、昔アベロンの野生児というケースがあったが、そういう者は恐らく客観的認識としての他を心的には感じることは出来ても、他者にそれこそ客観的に説明する能力がない。(それは動物も同じことである。)そういうものの場合、我々は客観的認識とは呼ばず、ただ主観的な記憶という風に呼ぼう。(尤もフッサールはこの客観的認識それ自体をも全体的な主旨から逸脱する可能性があるので省略しようと思う。関心のある方は西研著「哲学的思考」<副題、フッサール現象学の核心>を参照されたし。要するにフッサールはあくまで言語を取り巻く状況から考えているのであり、ウィトゲンシュタインは言語内で思考することを問題としているのである。その意味でフッサールは言語を外在的に、ウィトゲンシュタインは言語を内在的に捉えていると言える。)
 しかしここで問題となることの内で最も重要なこととは、他者の存在が誘引する客観的認識の説明責任的必要性が、他者を他者一般として、例えば親しい友人でも「これこれこういう性格の人間的なタイプ」のように叙述する可能性をも含めたカテゴリー化された認識を人間にも採用するのである。そして我々が概して社会生活において偽装する、例えば若い年齢のアナウンサーが昔活躍した政治家が死去した時に、あたかも自分もその政治家に存在をよく知っているかのように振舞う(実際に政治に詳しいアナウンサーなら可能であるが、もしそうではなくてもニュース原稿を読む際に「あの」、「例の」という風にあたかも知っているかの如く原稿を読み上げる職務上の責務を帯びている場合、我々はその原稿を読む際にアナウンサーになった誰しもが恐らく他者一般(例えばニュースで「お年寄りの方にはご存知でらっしゃるでしょうが」というような陳述は、老人一般に対しても、若いのにその人のことを知っている人に対しても失礼になるので、そういうニュース原稿作成者なら原稿は書かないであろう。つまり何十年代に活躍したとかいう風に表現するに留めるであろう。)を想定して発語しているのだろうし、またニュース原稿作成者も、そういう視聴者一般を想定している(全体的に他者一般を指示している)のであろうと思われる。
 ここに来て本論はこの職務上の偽装的とも受け取れる「ふりをする」ことの哲学に突入せねばならない。次章ではそれを扱おう。

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