Monday, November 30, 2009

〔言語の幻想とその力〕3、死と言語

 言語活動は発語行為、発話意志を伴った音声的な意思伝達によって成立している。しかしそれらを心的本質で支えているのは、とりもなおさずコミュニケーション信仰という心理であり、それを真理であると信じることである。真理とは信じるからこそ真理なのだ。言語行為とは発語によってその意味を得るが、発語される瞬間まで脳によって我々は思惟とか思念とか整理することを怠ってはいない。発語されることで整理が一応つくように我々はもっていっているのである。しかし何度も触れたように発語されることでその文章を巡る思念を脇へ押しやり、別の思念を浮上させるような意味では明らかに思念というものを発語することで、その思念によって充満される停滞を防いでいるのだ。それは思念に対する探求の断念である。断念された思念はしかし完全に消え去っているわけではない。それらはもう一度どこかで浮上するようにいつの待機しているのだ。
 伝えたいことというのは伝えたくはないことの表明として伝えられる。そして伝えたいことのみを伝えることを通して伝えたくはないことを触れないようにすることでコミュニケーションの信仰に敬虔であることが証明される。
 作家が文章を書くのは何を書くべきか一言で言い表せないからである。作家は書くことで自分の書きたいことを発見してゆくのだ。画家が描きたいテーマが予めあるのではない。描きたいから描くのだが、描きながらテーマを発見してゆくのだ。予め決まりきったテーマが言い表すことが出来るのなら彼らは長い小説を、エッセイを、時間をかけて絵を描くことを止めて演説したり、人を説得したりした教育したりした方がずっとよい。
 小説もエッセイも、要するに散文というのは一言で言い表せないことを長く連続する文章で表すのだ。詩も基本的にはそうである。短歌や俳句は一句一句では簡潔であるが、その句の連続においては何をテーマとすると一言で言い表せないからこそ、創作の連鎖が日常化しているのだ。
 今さっき思い浮かんだ実にいいアイデアは書きとめておかなければすぐに忘れてしまう。その場に何か書くことが出来るもの、ボールペンとかを置いておかないと、あとで「しまった。何を思いついたんだったっけな?」と思い悩むことになる。後悔することになる。しかし一度思いついたいいアイデアは再び何らかの形でまた思い浮かぶ。その時それは確信になる。しかし何度もいいアイデアを忘れている内に、我々はそういう後悔を重ねるとそのまま人生が終わってしまうのではないかと不安に襲われる。後悔と不安が人生において死を観念上隣接させている瞬間である。ゲームが終了しない内に何か不測の事態によって進行が阻まれないように願うのは人間のごく自然な心理である。ゲームを中断させられることは後悔が残る。どうせ死ぬのなら何かゲームが終了した後の方がずっといいに決まっている。ゲームの途中であることは他者から邪魔されたくはない、触れて欲しくない瞬間の連続である。触れて欲しくはない瞬間というものは「疑問の渦中にいる」ことである。
 棋士たちが一手を考えあぐねて最終的にある一手をさす時、彼らは躊躇を断念しただけではなく、疑問を断念したのである。決心とは躊躇の断念であると同時に疑問に対する断念である。つまり決心することで理解したのである。あるいは理解したということにしたのである。後は成功してもよし、失敗してもよしという思念に任せたのである。
 理解とは疑問の死である。死は解き明かされてはいない現象であるが、死を今次の瞬間に可能性として抱える人にとって疑問は邪魔なものであろう。疑問を持つことというのは、生きてゆく上で未来への自己の存在可能性の確信そのものなのである。自分が疑問に取り組める内は死は観念上においては遠い。次の瞬間に死を可能性として引き受ける人間には理解が必要であるのかも知れない。しかし死を論じるということはある意味では生を引き受けている瞬間の連続を持っている人の特権である。だから疑問は生の証拠である。疑問を解消されることというのは一面では小さな死である。性的エクスタシーの感受と理解によって溜飲を下げることにはある共通性がある。疑問の断念という事態とは小さな死、生の瞬間の詠嘆的な純粋反省への出発である。理解することはほっとすることであり、しまった書き留めておけばよかったという後悔と対極にある。しかし後悔はある意味では生の只中にあることであり、巧くゆかなかったこと自体を反省することを強いる試行錯誤であるが、それは死に対しては遠いということをも意味するのだ。しかしほっとすることはそれ自体で死に隣接している。性的エクスタシーがそうであるような意味で。
 ある政治家が国民に向けて説得力ある演説をし終えることは、彼の力説する政論を伝達させるという意味では履行されたのであり、従って彼は高い支持率とか選挙結果での勝利ということに対してほっとするであろう。成功というものはその成功へ向けて努力したり、苦労したり、真剣に考えたりした行為の連鎖の一応の死以外の何物でもない。次の行為へと移行するための死である。ある職務から離れること、辞任することは次の職務に就くために必要な社会的な死である。売れていた商品の売り上げが落ちることとは、その商品で信用を得ていた社の社会からの認知の死である。ある流行していた社会潮流が変化して前の常識が通用しなくなることとは、前の潮流の死を意味する。ある法律が時代遅れとなることもまたその法律の死である。かつて有名であった文化人が全盛期のようには活躍出来なくなることはその文化人の社会的な死を意味する。ほっと一息つくこととは従って生の時間での死なのである。
 それに対して新たな職務に邁進し始めることとはその人間の職業における新たな責務の誕生である。我々は自己の内においても、新たな責務を獲得することで古い責務を死へと追いやるのである。その意味では死とは生の時間においても至るところで経験しているのだ。反省的意識とは言ってみれば関心的思考(志向性)から見れば、あるいは行為の只中から見れば死を意味する。だからこそ言語活動においても多分に我々は息継ぎをしながら、その休息において死を巧みに挿入していると言えるのだ。何かを定義したり、断定的に語ったり、判断したりすることは迷うことにおける死である。躊躇することにおける死である。休憩しないでずっと仕事し続けることとはゆとりを持ってことに当たることにおける死である。死とは生を活気付ける意味での変数なのである。
 あるロック・グループのメンバー・チェンジとはマンネリ化した音楽スタイルの死を意味するし、同時にそのグループに宿る新たなスタイルの誕生を意味する。何かが誕生することにおいて、何かを我々は死に追いやるのである。それは意図的な場合もあれば、自動的な場合もあるであろうけれど。
 我々は生において死を効果的に挿入している。呼気と吸気の間で我々はほんの一瞬何もしない死を挿入している。英語と日本語のバイリンガルは、日本語から英語、英語から日本語へとシフトする時、何語をも介在させないような瞬間を挿入している。ポリグロット(多言語使用者)においても同様であろう。何から何かへとシフトさせる時、我々はどちらでもない一瞬を挿入しているのだ。その瞬間我々は無生物化し、無国籍化しているのだ。そのような転換がなされる際の一瞬には如何なる脳内のカテゴリー思考にも属さない、如何なる明白なクオリアをも有さない状態が現出する。それを生の中での一個の死と捉えるなら、我々が感じる、我々がそこで我々自身の生を捉え得る場である生は、それ自体で死をあらゆる行為と行為の継ぎ目に介在させていることとなる。
 我々は我々の生活において、あるいはもっと大きなスパンである人生において出会うものを糧にその都度自らにおいて形成されたカテゴリーの体系というものの性質を少しずつ変化させてきている。ソシュールは言語が実体ではなく、形態であるとしたが、その謂いに従えば我々は例えばリンゴに関しても、人間に関しても同様に自分が新たに出会う対象を今までに見た全対象にその都度付け加えながら、リンゴという概念に纏わる自分のリンゴ観、人間という概念に纏わる自分の人間観、それはリンゴに関する自分にとっての意味、人間に関する自分にとっての意味というものを内的に形成し直す。形態は絶えず変化し続ける。しかし同時にユングが言ったような意味での集合的無意識という心的作用によって我々は極端に逸脱した個的な意味に支配されることなしに、生活してゆこうと配慮する。その意味では如何なる特殊な対象と出会おうと、例えば極端に大きなリンゴを目にすれば、それを奇形であるとか異常であると判断しようとする。あるいは極端に邪悪な人間に出会えば、その人間を異例なケースであると判断しようとする。
 クロード・レヴィ・ストロースは哲学畑から文化人類学へと転向した人物であるが、彼の「悲しき熱帯」は、そこで彼が言うようにルソーの考え方に影響を受けているが、私が想像するに、カントの「判断力批判」に垣間見られる自然に対する崇高の観念とそれらが調合された思念に裏打ちされているように感じられる。非文明化された南米の部族を訪問することで、得られる彼の人類学的な論理と倫理は、彼が属する西欧社会もまたかつては非文明化された形態を有しており、その残滓は至るところに、一見我々はそれを文明化されて信じて疑わない仕来りの中にこそ潜んでいるという価値転換を喚起させる主旨によって彩られている。彼は文明化された西欧流の生活様式の土地から徐々に非文明化された土地へと訪問し、やがて旅を終えると今度は逆に非文明化された土地から西欧流の社会へと帰還してゆくその際の訪問者としての心理的変化について微細に叙述している。そのある種社会的発展段階における異種のカテゴリーからカテゴリーへの移行段階においては、少なからぬ隙間的な空白、西欧流でもなければ、完全に非文明化されたものでもないような中途半端、あるいは双方から見捨てられた土地を目撃しているようであるが、そのようなことは我々の日常でもしばしば経験し得ることではなかろうか?
 大きいリンゴを見て、リンゴの一般性とかリンゴ一般の観念を形成してきた自分の原体験的な先入観を一挙に打ち砕くようなその大きなリンゴとの邂逅も、それ以上のカテゴリー認識をも打ち砕く邂逅の前では一挙に印象の薄いものと化すであろう。そのような意味で一つの出会いによる一般概念の脆弱さへの認識とは、その邂逅する対象、現象の大きさ、あるいはその時々に我々が抱く印象の強度に応じて明確化してゆくであろう。だから凄いものとの出会いはそれ以前における印象的な出会いを陳腐化する。「あれは今考えると大したことでなかった。」という風に。そのようにその都度書き換えられる全体的なリンゴに対する印象、人間に対する印象、つまりリンゴ観、人間観は、しかしある時期を過ぎれば固定化させてゆこうとする我々の意志(よほどショッキングな出会いさえなければ)、例えば親しい友人とか大切な財産とかがある程度固定化されてゆくように自分に中では少しずつ如何なる鮮烈な出会いがあろうともこれ以上変化させたくはない、という観念も我々には一方ではある。この観念の固定化というものはある意味では変化に対する離別という死である。しかしその死を受け入れることで寧ろ変化し続けることの中では得られない別のレヴェルでの出会い、例えばある出会った対象に対して、それが事物であれ、住居であれ、住む土地であれ、交際する人間であれ、それとの係わり合いを深めてゆこうとする意志、まさにそれが生という現実を受け入れ、直視することなのだが、それを得る。人生とはそういう深い出会いを受け入れて固定化させて生活するということではないだろうか?
 その意味ではあるリンゴ観による、人間観による言語活動において、我々が使用する一個一個の概念に対する設定基準というものは、変化しつつ不動点をどこかで求めてもいるのだ。それは言語という幻想(了解一致に対する)と死を巧みに配列させて利用しようとする知恵ではないだろうか?それは死してこの世からおさらばする成員に対しても鎮魂の情を傾けながら、彼(女)の人生全体を客観的に位置づけて生き残った我々自身の財産とすることによって死を有効に意味付けることにも似てはいないだろうか?

 カントの「判断力批判」は神の観念を通して壮大な風景を目の前にした人間の心理を描出して崇高なる形容的定義をしている。
 神とは人間の能力(身体的なことを通した物理作用としての)の限界とその卑小さ(カント活躍時代には未だ宇宙開発も核兵器もなかったのだが)に対する人間の欠落感を埋めるものとして作用していた。もし人間による地球規模の自然荒廃とか戦争破壊が起こったとしても尚人間の醜さという観点から人間の卑小さは物理的能力の拡大に伴って増大してゆくであろう。ともあれ神とは一種の観念としての幻想以外の何物でもない。それは人間の能力の限界を遥かに超え得る完全無欠性への希求である。それを幻想と呼ばずして何と呼ぼうか?
 ジジェクの言葉を借りれば「幻想とは、自分の欲望の行き詰まりを、個々人独特のやり方で隠蔽するための方便である」(「斜めから見る」293ページより)とするなら、人間は欲望を実現すればするほど神に対する恩恵心を忘れる者であるのかも知れない。しかし我々は不滅の存在ではない。これだけはどうにもならない。この死というものの不可解さを前にすると、どこか神という永遠性、完全無比性に依拠するような心持になる。マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の倫理」によれば、プロテスタンティズムとはカトリックが心情倫理的脆弱さによって原則ある生き方を弱められたことへの反省的気運によって仕事の責務、つまり労働への意欲という、言わば責任倫理遂行によって信仰を守り社会全体を安定へと導く装置として(それも一種の人生の固定化の社会版と捉えることも可能である。)機能してきたという側面があるようだ。つまり社会的責務、職務遂行というある種の神との契約性が、その報酬として賃金を得るという倫理循環の下では、日本人にある固有の「金は卑しいもの」という観念はない。西欧社会においては労働とは神への奉仕であり、労賃は神からの賜り物なのだから。しかしそういう日本人も言語が神からの恩寵であるという観念ならば、受け入れることが出来るのではないだろうか?
 カントの捉える風景の壮大さを前にした敬虔な感情と、ヴェーバー解釈の労働の持つ人間と神との契約という側面は、我々の言語活動が類推、仮定、想像といった思惟が言語的思考のあるプロトタイプとして能力として備わっており、そこにはいつかは死する人間が神のようにはなれないも、神のように少なくとも思念上では無限性や永遠を想定し得るということを自ら知っており、その思念に憩いを見出しているということを考慮に入れると、どこかで密接に関連し合っているように思われる。
 それは義務(神との契約としての労働)と権利(思念的内容の自由)の存在を思わせる。カント的思念は恐らくそういった契約的履行という義務に対する権利としての思念の自由が生み出した尊崇の念(雄大な自然を前にしてそこに神の偉大さを知る。)ではないだろうか?それは権利だけでも義務だけでもあり得ない心理ではないだろうか?
 我々が言語の幻想とその力を実感し得るのは、人間の能力の有限性の中で無限を感じることの自由を神から授けられたのだ、と認識し得る時なのか知れない。

 ジジェクによると幻想として位置する中心を我々人間は求め、というよりも不可避的にそのような個人の価値を見出し、それは私秘的なものであり、他者によって踏み込まれたくはないものであり、そういう位置にこそ神も、偶像も存在可能性を得るということのようだ。その中心の幻想の周囲をぐるぐると回り続けることこそ主体というものの在り様であると彼は考える。そしてそれを価値論的に、とは言えその意識は殆ど無意識の作用なのであるが、他者と意思疎通する時に相互に尊重すべき領域として認識し合うことに中に人間関係の基本的な形を認めている。それと似たことを熊野純彦が「レヴィナス入門」でも述べている。そしてヘンリー・ステーテンは「ウィトゲンシュタインとデリダ」において、この二人の哲学の巨人の共通性として差延ということに帰している。その差こそ、実はソシュールが述べた言語の恣意性、そして自己と他者のドラマを介した他性認識の根源的な事態なのである。ある意味では事物に対して注がれるカント的な物自体の発想もまた、物自体の移ろいやすさとか不可解さを紛らわすためにこそ、再びジジェク流に言えば、無価値であることそのものに耐えられないことを忌避しながら、そこに善とか悪とかの判断を持つようにするのが人間であるということである。その意味ではハイデッガーが言う道具的存在者といったような認識は、無意味、無価値、無目的というような事態の忌避こそが全エネルギーの源泉であるということになる。そして恐らく死に隣接した人間は言語をそのための道具として利用しながら死への恐怖を紛らわせているのかも知れない。

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