Friday, November 20, 2009

〔言語の幻想とその力〕1、言語活動_あるいは不在のメタ対象へのかかわり

 私は先月まだ紅葉になってはいない秋口に、箱根にバスで日帰り旅行をした。しかし残念なことにはその日は午前中からずっと雲行きがよくなくて、結局正午過ぎには酷い雨に見舞われ、山の風景は全体的に霧と靄に包まれ、晴天であるならくっきりと認められる富士山や箱根の山の輪郭を見ることが出来ず全体的に悪天候の旅行となったのだった。しかし裏を返せば、その日の旅行の収穫は、実はある私の私小説形式の小説作品の導入部の描写に必要な取材旅行だったのだが、かえって晴天であるが故に心の陰影を感じさせない風景とは異なった、要するに例えば悪天候から次第に快復してゆき、太陽の光線が曇り空から斜めに射してゆく光と影のドラマを私に齎してくれた気さえするのだ。それは絶好の天候にはないある倦怠感の齎す心的様相を哲学的に私に与えてくれたのである。
 だから我々はこう言えるのだ。健康の意味がいったん健康を崩した時に自覚出来るように、悪条件下において初めて我々は条件の良好さの有難みというものが明確化するのである。健康状態の悪化は健康の美の有難さを寧ろ健康状態の時には覚醒しないような深遠なレヴェルで我々を釘付けにする。それは深層心理の自分では普段は気付かないある種の健康的鈍感さによって忘却された事象からの覚醒を伴って立ち現れると言っても過言ではない。
 ハイデッガーの道具的存在者が有用である内は、健康な状態の身体同様「死」は意識されない。しかしいったん私たちはその道具が機能しなくなると途端に物としての存在感、ある意味では役に立たないが故の鬱陶しさが立ち現れるのである。病の身体が死を意識させるようにカントの言う物自体とは、実は我々が物を見るだけではなく、他者の眼差しのように物自体もまた我々を眼差していることの覚醒であり、それは私たちもまた死んでゆき、物自体へと同化してゆくことを連想させる。
 死への連想は生の有限性、生の中での出会い(人、職、住処)の可能性の有限性へと我々を思念させる。この有限性への認識ことが、無限性を生む。この思念の意思伝達が言語活動である。有限性に対する認識が無限な想像の可能性を我々に齎す。例えば今研究室の机の前にいる学者は、あるいはオフィスにいる会社員は自分の世界の中での位置を地理的にも社会的にも認識し得る。どこどこの国のどこどこの町、どこどこのビルの一室にいると自分を世界の一部として認識出来る。しかしそれ以外のつまり彼がいる場所以外の別の場所のことを想像することが可能である。それは自分の存在を中心にすれば有限な事態が立ち現れるが、他者とか自分の知らない地域にもまた人々が住み、仕事を自分のようにしているということを想像することが可能な意味で、その想像対象は無限に可能である。そういう自分の想像対象設定の無限性という認識においてまず我々は日常的に無限という観念を自らのものにすることが思念上可能なのである。
 言語活動の大半は現前的知覚対象外の要するにメタ対象を対象としたものである。それは不在への言及に他ならない。このメタ対象へと志向した発語(想像、類推、仮定、想起)行為の反復は生の時間の経済への認識と期を一にする。つまり時間の経済と有限性の認識が無限性へと思念上展開されるわけだが、そのように現出させる価値としての無限こそ東洋哲学の無、空にも関係してくる。ハイデッガーの言う(「存在と時間」)適所性とは、行為としては意義、物としては存在理由というように位置づけられる。実はこれは存在論の認識論と一元化された(ミシェル・アンリ的に言えば)目的と手段の因果論的見方に端を発する。
 キルケゴールは「哲学的断片」で、教師とは真理を教える人であり、それは即ち神であるとした。(ということは、我々はその生徒であることになる。)私たちの自然科学的、数学的認識も全て実は客観的であるとしながら、そのこと自体で一つの信念である。あるに過ぎないと言えばニヒリズムに直結するし、信念を支える信念と言えば無限後退へと我々を誘うことになる。信念の一つの典型的なものの一つは、不可知のものの無限性と可知のものの有限性である。そこで私たちの祖先は不可知のもののない完璧な存在を神として設定する。ということは神設定とは不可知領域の存在の真理に対する認知という信念に他ならない。ある思念の言語化、あるいは言語化のための思念とは即ち思念の断念に他ならない。しかしこの見方はフッサール的ではあるが、ウィトゲンシュタイン的ではない。フッサールは言語を言語たらしめる何らかの心的作用を認めたが、ウィトゲンシュタインはそのようなものに対して懐疑的であった。そこにこの二人の天才哲学者の思想を受け継ぐ意志を巡って、大きな分岐点を後世に齎したと思う。実は私はこのことに関してまだ自分でも決着がついていないのである。しかしそれは後に詳述しよう。
 取り敢えずそのことに対する結論は先送りすることにして、今はフッサール的観点を採用して考えよう。思念を伝達するために音声的発生において表出することで、それ以上その思念に留まることを断念しているのである。ある特定の思念への「居留まり」とは思考の停滞を招聘するからである。不在のメタ対象への言及は無限に対する有限化という自己欺瞞であると言ってよい。というのも何かを話題にすることそのものが。実はそれを目の前にしていても尚、知覚されたことについての表明であってさえ、知覚されたことそれ自体に対する言及である。まして今不在の対象に対して話題にすることとは、その対象に対する過去の知識、情報、その対象に対する考え、感情的な思念といったものが入り混じる。それは最早不在対象全体に対する捉え方の表明でもあるのである。
 もともと語り尽くせない不在のメタ対象とは生の時間において知覚対象と不在対象(想起を誘引する対象としての)の有限性と想起的仕方の無限性への幻想(実際はそれとて生の時間が有限である以上、人間にとっての話題構成上の対象の全ても有限であるが、出会いそれ自体の可能性は無限であるとも捉えられる。)である。人間は未来の不確定性へと向けて無限の未来可能性の前で佇んでいる。哲学とは恐らく我々が意図的に作る不在のメタ対象間の言語的連鎖以外の何物でもない。
 批評がメタ言語であるなら、哲学はメタ対象間の連関、例えば先述の有限と無限といったもの同士の相関性への言及である。自己意識の所在である身体の有限性、生の時間の有限性(時間的な)が逆にそれを超える空間的延長、時間的延長というロック流の認識の彼方に無限を設定する、ということである。
 哲学に登場する概念はその殆どが抽象名詞である。抽象名詞とはメタ対象の自覚的な言語化である。私が見るリンゴは何百あろうと何千あろうと生きている内には世界に存在する全部のリンゴの、あるいは世界に存在した、これから存在するであろう全部のリンゴ(少なくともリンゴが絶滅しない限り)のほんの一部でしかない。あるいは私が出会う人々もまた勿論人類のある極めて極少に限定された一部の人々でしかないだろう。そのように私たちは限られた時間で限られたもの、人とのみ接する。しかしそれら特定の人々によって私たちはリンゴと言い、人と言う。別にそれらがリンゴ全体を、あるいは人全体を代表しているわけではなく、ただリンゴというカテゴリー、人というカテゴリーを通して、ある特定の存在物を認識しているということだ。そのカテゴリーを通した特定の事物や対象の認識それ自体が抽象名詞化された一般名詞の使用を巡る心的様相と言ってもよいであろう。メタ対象とは言ってみれば、概念の根源的な在り方である。
 しかし一般名詞におけるメタ対象は、具体的像が心に浮かぶ。それに対してメタ対象的自覚(メタ対象としての自覚)を持つ言語は、メタ対象間の関係概念であるが故に、具体的像とは異なり、抽象的関係像を、その概念を理解するために現出させざるを得ない。よってそれらは明らかにそのもの自体は、不在なのである対象間の連関という私たちが対象に付与する認識に他ならないのだ。それはウィトゲンシュタイン風に言えば私たちの言語ゲームを円滑にするためのものなのである。そしてここでも問題となることとは、ある対象の属するグループを概念(あるリンゴならリンゴという風に)とするのなら、あるいはその概念間の関係性そのものを全ての事例で確認することが不可能である(全てのリンゴの色彩、形状を確認することは我々には出来ない。)し、全てのリンゴとミカンの柔らかさを確認することは出来ないが、大体においてミカンはリンゴよりは柔らかいものであるということ、リンゴはどれも皆赤や黄、黄緑に近い色であり、青や黒といったものはないであろうとか、どんなに柔らかいリンゴでも、それは何らかの理由でそういう状態に今なっているだけであり、本来ミカンよりも柔らかいリンゴはないであろうという信念を私たちは持つ。つまり判断の質量として我々は信念というものを持つのだ。ある信念は別の信念と隣接しおり、その信念同士は連携プレーをしている場合もあれば、無関係の場合もあろう。しかし少なくとも一つの判断というものは恐らく幾つかの複数の信念が交差してなされると考えることが出来る。フッサールは自然科学的認識もまたその科学的なデータは信頼に足るものであるという信念によって支えられていると考えたのである。しかしそのような認識に至るまでの西欧哲学においては哲学的な思考の自律以前の神学的な認識との隣接、そこから離脱しようと欲すればするほどその残滓が堆積するというようなニュアンスも出てくる。 
 例えばハイデッガーが世界内部的道具存在者と言う時、自分を神の力の容器とルッター派が捉え、自分を神の道具とカルヴィニズムが捉えたというマックス・ヴェーバーの認識(「プロテスタンティズムと資本主義精神」より)は、前者を神秘的な感情の培養へと赴かしめ、後者を禁欲的な行動原理へと赴かしめることとなると思われる必然性においては、より後者の捉え方を喚起する思考原理であるとは言えまいか?
 なぜそのような心的様相へとハイデッガーが至ったかということについては西研が述べている(「哲学的思考」より)ように戦争の勃発による心的な不安要因が考えられるであろう。しかし人間は本来的に言語行為によって不安(それは未来に対するものであると同時に無限性へと向けられている。)を払拭するように生を生きているのだ。とすると我々がメタ対象という不在性へと依拠しながら言語行為を執り行うこと自体もまた、不安の払拭という意味を持っていることになる。それをここで無限の有限化と規定しておこう。
 熊野純彦はハイデッガーが「私」から「存在」への志向、レヴィナスを「存在」から「私」への志向という風に捉えている。(「レヴィナス入門」より)しかしこの両者のベクトルの対照性は、実は我々の認識の多義性にもよるのである。例えばハイデッガーが「遠ざかりの奪取」と言うこととは、存在者を対自的にも対他的にも世界の只中に取り残された孤立者、言ってみれば空間内における疎外者として位置づけることを意味する。しかしこの思念そのものはカントが世界の始まりと終わりに関してそのことの有無を巡るアンチノミーとして「純粋理性批判」で提出した考え、つまり「背進」という認識にも通じることなのだ。ある領域の設定はその領域外の存在を前提するし、その領域と領域外全体を包括する世界を前提する。そして世界とは限界あるものと捉えても、限界のない無限と捉えても、尚双方とも共通して言えることとは、要するに何かが設定されれば、必ずその先には何かがある、その先にも何かがあらねばならない、あるいはその先には何もないということはそのものの存在を不可能ならしめるという思念が不可避的に立ちはだかっているということである。
 そこで再び有限性という事態は、それ自体無限性を前提していることになる、という思念が持ち上がる。あるいはこう言ってもよい。無限というものを理解するために有限を我々は持ち出しているのだ、と。
 言語行為は不在のメタ対象に対する言及行為であるということは述べた。しかしそれは我々が世界を前にして、あるいは世界の中で位置する、存在する、世界を設定する我々自身による世界認識の思念的な表出として、意識的、無意識的とにかかわらず、他者と自己の社会的関係、あるいは他者と自己の心的思念の共有の確認として行われると捉えることも可能である。ハイデッガーは自己と他者という思念よりは世界の中での存在者を考えた。しかしレヴィナスはある意味では他者を自己の壁、それは対他的な意味、つまり対外的な意味でも、対自的な意味、つまり内向的な意味でも自己にとって立ちはだかる壁として位置づけている。それは自己と他者を分かつ記号として、存在自体の、あるいは消去不可能な、そして侵害不可能な対象としての顔として現出するものとしての他者である。するとハイデッガーは有限性から無限性へと、そしてレヴィナスは無限性から有限性へとベクトルを位置付けていることとなる。その時この二つのベクトルにおいてメタ対象性とはどのようなものになるのであろうか?
 空間の中の、とりわけ世界として認識された空間の中で立たされる存在者としての実存請負い型話者というものをまず考えてみよう。それは自然の中で自然と対峙する姿勢であれ、一体化する姿勢であれ、それらは皆自然と人間という二元論的な認識である。話者が私を超えて現存在の具現化された実体として発語行為をなすのであれば、それは音韻的な、極めて身体運動、身体生理学的な行為として言語活動を設定することが可能である。しかし存在から私へと志向する場合、我々は他者を壁として、ある意味では平坦ではないものであるし、かつ自己の意志ではどうにもならないものとして認識するわけだから、発語行為それ自体はあくまで共通の話題を探るという観点から考えられることとなろう。
 話題というものについてちょっと考えてみよう。話題とは認識し得る事物、現象つまり対象、そしてそれは存在するものと存在し得ないものとによって設定され得る対象間の、つまり対象とメタ対象との相関的な関連図式、あるいは自己と他者の関心領域に適合するような関連図式である。話題は予め設定されているわけではなく、当座の共通関心領域として認識されるわけであるが、実はこの共通関心領域が話題を通して認識出来るということ自体が自己と他者が共通の対象とメタ対象間の関連図式の了解事項が設定されているということとなる。デヴィッドソンはそれらをア・プリオリなカテゴリーではなく、寧ろその場、その時に当座の認知として獲得してゆくものであるとしているが、実はそのこと自体、つまりそのように当座の意味と理解の獲得をなし得る能力をこそア・プリオリと認めてもよいのではないだろうか?それは要するに他者理解をなそうとする意志と、自己と他者の壁と溝の克服を旨とする意思伝達の意志である。つまり意志とは発語行為発現の能力を滞りなく履行させる当のものなのである。ここで纏めておこう。

①空間内存在者としての発語行為→音韻的、音声発語的行為の生理物理的観点

②私という存在、つまり自己と他者の壁を通した発語行為→共通関心領域の模索、話題設定という観点

 前者をハイデッガー的認識として、後者をレヴィナス的認識とすることもまた可能であるが、前者は常に後者を後者は常に前者を必要とするのである。その意味では前者を対自的、後者を即自的な言語活動への認識と考えてみてもあながち間違いではない。
 また①を構造主義的なアプローチに見られるラングとしての言語、そして②を分析哲学、言語哲学(日常言語学派以降の)のアプローチに見られる真理条件的な言語への解釈において顕著に確認され得る成果と見ても間違いではない。しかし言語行為にはそういった顕現された発話内容と作用、つまり音声的に他者に語りかける意味作用と、その意味作用を通して伝達される意味内容という面以外のものも伝える。それはレヴィナスが触れている(「存在の彼方へ」より)のだが、語ることというのは語らないことを語るということである。それは可知が不可知をも顕現するような意味で、言語活動そのものが語り得ることが語り得ぬことをも語るという、可能、不可能ばかりではなく、語りたい(伝えたい)ことを語る(伝える)ことというのは語りたくはない(伝えたくはない)ことを語らない(伝えない)ことの表明でもある、ということであるし、そういう真意の表明であると同時にそういう真意を認可し合う形でなされる、つまりそういう前提を持った意志伝達であるということをも意味するのである。だからここで言うメタ対象ということとは、対象という明示されたもの以外の不在への言であるという言語活動の諸相が実は、メタ対象というものを通して自己と共に語る他者が語り得ることを相互に選択し合うということの了解と認可においてこそ初めて信頼を得ることが出来るということの実践でもあるのである。ここら辺の主張はごく僅かではあるが、フッサールにおいてもなされていたし、サールなども大きく取り上げている。
 だが私たちが今しっかりと確認しなければならないことというのは、言語活動というものがそういう了解と認可という面でなされているということの事実において、我々がそういう形で言語活動がなされること自体に意味がある、あるいは言語そのものにそれを誘引させる力がると信じているということが大きな問題として浮上してくるのである。
 それは言語行為そのものが、そのことによって真実が伝達され得るのだという楽観的な観測の下で執り行われる行為であるという我々自身の認識が、「そうである。我々のなす言語行為は真実を伝える。」と信じることが、真に真実であると信じつつ、幻想ではないかという懐疑をも捨てきれないところにある。このアンヴィヴァレンツの正体こそ今問わねばならないことなのである。
 そのことへの問いというものが、実は我々が見ることの出来るものが物自体ではないという現象認識と同様、我々が語ることが真理であるとは限らないという懐疑論の出所であるし、また相対主義的な心理主義の出所であると言えるのだ。あるいは自己と他者の相互理解、あるいは自己と他者の相互理解の意味内容的な一致が履行し得るのか否かという懐疑の出所でもあるのである。それは人間相互の愛というものが、相互に信じ合うことを基本としながらも、その愛の内実が微妙にずれ込んでいるということに対する直観と、そういう直観を持つことそれ自体をニヒリスティックに捉える必要があるのか、それともそうではないのかという面での論議もまた要求されているのである。

 

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