Friday, November 6, 2009

書き、読み、語る・描き、見る・聴く(言葉・絵・音楽)<存在と意味 第二弾>第一章 書き、読み、語る(自分の他人化から他人の自分化へ・意味について)

 私は49年と三ヶ月くらい生きていてこの文章を書いている。従って今から十年経った時この文章は丁度十年前に書いた文章ということになるだろう。その時この文章を読む私は過去の自分を他人のように感じながら読むかも知れない。つまりその時の私はあたかも私がかつて書いた文章を「書いた人」の気持ちを汲んで読もうとするだろう。その時この文章に共感するか、疑問に思うかということが、これからの私の生き方にかかっていると言っていいだろう。
 私は文章を書くのが幼い頃から好きだった。しかし最初は何か「お話」、つまりストーリーのあるものの方が好きで、成長するにつれて次第に自分の胸の内にあるものを表現するものの方の分量が増えていった気がする。
 この二つ、つまり「お話」と自分の胸の内にあるものに対する表現とは、「書かれたもの」であるには違いないし、そういう意味では共通性があるのに、幾分かの違いは横たわっているように思う。それは一体何なのか?
 エッセイや自分の考えを述べたものは総じて日記と同じように少なくともフィクションとは違う意識に読む者を向かわせる。それは「あなたも私と同じような意見があるのではないか」とか「あなたも私と同じような気持ちとか考えになることもあるのではないか」というように読む者に語っているように思わせるところがある。
 しかし「お話」とか小説であれ、小噺であれ要するにフィクションというものは少し事情が違う。つまりそこで語られた話はあくまで作者によって構成された作りものであるという了解が読む側にも既に出来上がっていて、その心の構えに対して作者はどんどん次の一手を打ち出してくるので、その際に読む人の日常生活での行動とか考えがどうであるかということはあまり大した問題ではない。そもそも日常にはない形での体験を読む者に与えるような語り口そのものが作りものだからだ。それはどんなに平凡な日常を描いていても、どこか作りもの固有の虚構感というものが付き纏っている。そして私たちは大体この「お話」、つまり物語をエッセイとか評論よりは先に読む習慣を身につける。
 エッセイや評論はそれに対して、書く者が生活してきて今も生活する中で何らかの現実の中から、それを読む者もある意味では書く者とそう変わらず似たような生活状況を持っているということを前提にして、書く者にとっての固有の状況に対する感じ取り方をしていることを告白しつつ、その報告を通して、では読む側はそのことに対してどのような考えを持つかということを問いかけるような仕方で読むように誘い込む。そしてそのことを読む者も読むという時点で皆応じることに同意しているのだ。それは一つの現実内的な設定である。
 しかし小説や戯曲をはじめ全てのフィクションは明らかにそこで提示された全体が「もう一つの現実」つまり私たち自身が実際に生活する現実そのものではなく、その私たちの現実にどういう風な形にせよ、何らかの意味で対峙するように迫るように主張されている。しかしどんなに対峙するにしても、それは必ず本当の現実とは画然として距離が設定されている。だからそれは「もう一つの現実」の設定なのである。
 だから私は自分が書いた小説を再び読み返してみる時と、エッセイや評論を読み返してみる時とではいささか違った印象を常に持つのだ。つまりそれはフィクションの場合、「ここをもっとこうしておけばよくなったのに」という形で読み進むのに対して、エッセイや評論では「これを書いた時にはこういう考えだったのか」とそう受け取って読むということである。
 これは前者が純粋な創作であるのに対し、後者がどこか現実そのものから引き出されたものであり、前者が「もう一つの現実」であるのに対し、後者が「現実の中でのある時の私」であることを意味する。つまり文章を書く時の私を、創作だと現実の時空を超えてそれ自体を一つの世界として対する「操作するという行為」に赴く私、つまり主体的な私であると読む側からそう受け取るが、非創作だと私の中にある他者を見出し、その他者と読む私は対話するそういう気持ちになるのである。それは今の自分と過去の自分という他者同士の対話であるということである。
 これは「書かれたもの」自体が前者だと客体化されており、後者だとどこかそのものに対して「今の自分」の意見を用意してしまいはするが、修正しようという気持ちにはなれないのである。一旦出した意見はそのままにしておこうというわけである。
 哲学では通常他者と呼び、それはただの他人とは意味が違う。他人とは端的に家族とか身内以外の人というニュアンスの言葉である。しかし他者とはそういう分け方ではなく、意思疎通し合える存在者ということを意味するからだと思われる。
 だから私は私の創作に対しては、読み返した時その「書かれたもの」をどうにかしようと思う。と言うのもそれはその世界として閉じた一つの他人のようなものだからである。しかし非創作において私は「書かれたもの」は他者なのであり、私はその他者と語ろうとする。勿論気持ちの上でのことである。
 このことは私以外の他人(あるいは他者)が書いた文章でもこの二つの間にそのような接し方の違いがあるという意味では変わりないように思う。
 しかしもっと重要なこととは、少なくとも自分が書いた文章を読むという行為は、何とかしたいと考える他人であれ(創作の場合)、何か語り合いたいと考える他者であれ(非創作の場合)、自分の中にある非自分性と出会うということを私はいつも自然と欲求している気がするのである。これは私が私自身の既知のものやことに対してある意味では抵抗して、私も知らない私の中にある未知のものやことを探り出したいという欲求と同じことではないかと考えている。
 通常書くという行為は一人でなされるし、読むという行為も基本的にはそうである。(かつて学生時代とかに皆で一つの文章を読んでいたが、あれは特殊な状況である)つまりここら辺が映画館や劇場で、あるいは舞台を前にして通常一人以上の人数で鑑賞することと最も大きく異なる部分である。恐らくことのことが文字にかかわるという人間の行為の本質に迫ることなのではないかと私は考えている。

 私は私を一人の人間として社会人として意識する時、私以外の他人とか他者の存在を前提している。しかし私は四六時中他人や他者と私の時間を、あるいは私の存在する空間を共有しているわけではない。この一人でいる時間・空間ということが文章、つまり「書かれたもの」を読むという行為の基本にはあり、そしてその読む行為を前提として書くということは成立している。この二つのことは文字という記号を通した人間のコミュニケーションの極めて重要な本質である。
 人間は一人でいる時には何らかの意味で、他者と接していた時空間での自分というものを反省している。(ここで言う反省とは、哲学的な意味での反省である)つまり自分一人でいる状況自体が、そうではない自分以外の誰かと共にいるという状況と対になって自覚されているということだ。
 すると我々は自分のことを他人から見たような気持ちになって考えるということは、他人あるいは他者が自分に対して抱いたと自分が考える印象を想像して考えることである。つまりそうしながら自分自身が自分のことを考える時、自分を他人化している。(哲学で言うところの対自<ヘーゲル・サルトルがしきりに言っていた>と言うが)これは一つの客観的な自己内設定である。そして重要なことは、そういう設定は恐らく自分以外の誰でもするであろうとどこかで我々は信じて疑わないことである。
 それは恐らくそうでなかったなら、私は他人を一個の他者として認識し得ないだろうと思うからである。つまりそう信じることによって自分を他人化することが無意味ではないと思うことが出来るわけだ。 
 しかし私たちは自分で書いた文章のことを、その文章を書いた背後の事情と共に誰よりも熟知していることが逆に、「それは所詮私自身のごく限られた経験と主観に基づくものでしかない」という気持ちになり不安となることもある。この時私たちは何らかの意味で対話することが可能な他者の存在を求めている。だからこそ「書かれたもの」を誰かの目に通して貰いたいという欲求を持つのだ。それは何か誰かに相談したくて他者と話す機会を得ようとするのと同じことである。そしてそのことは他者固有の「自分の他人化の仕方」を知りたいという欲求も含まれるだろう。対話とはとどのつまり他者固有の「他人化の仕方」の提示に対する私の仕方との間の突合せのことである。
 文章を書くということは、創作する文章(小説やその他のフィクション)であれ、非創作的文章(エッセイ、評論、論文その他のノンフィクション)であれ、前者の他人のような世界の自由操作性、後者の対他的な対話双方とも、何らかの意味において意図的他人化、つまり自分のことを他人のように見るその見方自体、その観察するような態度のことであり、まず自分に何よりも読ませようすることである。つまり自分で自分を他人のように見るその見方自体を、ある文章を書いた時点よりは未来のある時点の自分が読むように仕向け、あるいは示そうとまず私たちは何かを書く時必ずそのように画策している。デリダが差延と呼んだ概念の内には恐らくこのようなことも含まれていたと私は思う。
 つまり文章というものを一つの記録と捉えると明らかに現在の記録者が未来の記録閲覧者を前提にしていると言える。これは誰も自分以外の人が記録したことを閲覧してくれなくても自分一人だけは最低限例外であるということを知ってそうしている、という意味では、書くことの基本に既に自分の他人化があると言える。何故なら未来の自分にとって過去の自分によって書かれた文章を読むということは、即ち過去の自分を他人化することであるからである。
 人類史的に捉えれば、恐らく文字が文字としての意味を持つに至った瞬間とは、文字を書いた者が、それをその者以外の別の誰かが目に留まるような形でそれを示して、その者の意図がもう一人に伝わるという事実によってであろうと想像される。しかしそれ以前にまずその最初の文字を書いた者が仮に他の誰かによって文字が読まれることがなかったにしても、それを書いた自分だけは例外であるということを知っていたという事実があったことだけは確かではないだろうか?
 つまり最初の文字記録者は、その文字記録の事実が他の誰かによって知られなくても、少なくとも自分だけは例外であるということに対する認知において、自分の他人化ということを図らずも実践していたことを意味する。ここで書くことにおける自分の他人化について明確な定義を与えておこう。

 <書く>自分の他人化=〔<書く>自分(現在の)に対する未来の自分(他人)から見た過去の自分(他人)〕ということの創出、あるいは設定
 
 これを今度は過去の自分の文章を読む今の自分を基準にすると、

 自分の他人化=〔<書いた>自分(過去の)という他人と接する今の自分〕ということの創出、あるいは設定

 すると、今の自分による未来の自分に対する他人化とは、未来の自分による今の自分に対する他人化と等しいということになる。
 
 ∴ 今の自分による未来の自分に対する他人化=未来(その時になってみれば今)の自分による今の自分(その時になってみれば過去)に対する他人化

 しかしここで自分以外の読者を得るとしよう。すると、その他者は端的にその文章を書いた自分による他者の自分化ということになる。その他者が過去の自分の文章をあたかも今の自分が読むように自分の文章を読むわけだからである。
 私たちはあらゆる歴史上の人物も、現今に活躍する人たちの考えも、全て過去の文章を通して知る。それはその文章を書いた人たちにとってみれば、何らかの事実や考えを文章にしてそれを通して私が知ることによって私という他者を自分化することに成功したことを意味しよう。そして私は文章を書く時その成功事例(という事実)を最初は必ず一つだけは知っていたことを意味しよう。
 つまり人類で初めて文字を書いてそれを自分以外の誰かに読ませることに成功をした人その最初の一例を除いて全ての文字記録者は、何らかの意味で過去の成功例を一回は眼にして文字記録に取り掛かったということを意味する。そしてこの例外なき事実は極めて重要である。何故ならそれこそが我々のコミュニケーションにとって最も重要なる本質だからである。だから逆に人類で最初の文字記録者の孤独も恐らくその文字を未来の自分が最初の他者となって読むことだけなら出来るということを知っていて、そのことで自分の孤独を癒していたということは想像されよう。

 しかしそのことは文字に対してなら適用出来ても、発話ということとなるといささか事情が違うかも知れない。と言うのも音声を通して何かを告げることとは、少なくとも文字が発明されてからは、その文字を私たちが音声化しているということとなるが、文字発明以前的には既成の文字を音声的に発するということが出来なかった筈であり、人類で最初の音声発声者とは、まず最低限一人の他者、つまりその発せられる音声を聴いてくれる者というのを必要とした、そしてそういう他者がいたということを意味している。
 そして文字が発明される以前に既にある音声を発し、それを誰かが聞き取るということの内に、意味というものが発生することとなったと考えられる。つまりそれは、音声自体が意味を持つと言うよりは、寧ろ音声を発することで、その発声者の存在をもう一人に誇示するということにおいて意味があるという意味でである。つまりある者が別の者に発声するということそれ自体が、自‐他という関係を構築し、発声される「書かれない文字」そのものが、内的な意味を持っていたということでもある。
 つまり文字がない段階でも既に発声者がそれを聞く側を作るということ自体に「書かれない文字」という想念を文字発明以降の私たちが想像することはたやすいが、そうであるよりは、自‐他の関係そのものが、文字的なものを誘引するような内的な(精神的なと言ってもよい)関係をその者たちに与えたであろうということである。デリダが原エクリチュールと呼んだものとはこのことだったのだろう。
 つまり意味とは、それが文字を通してではなくても、発せられ、それを聞いて貰うということ自体で、発生しているからである。それはそうすることで、内的に意味を持つ。つまり相手に対する自分の存在感の誇示ということによって相手から自分へ向けて何かが発せられるということで自分の存在感に対する相手の容認を確認出来るからだ。それは相互に存在感を示し合うという真意を確認するという下地が出来上がっていることを意味するし、それこそが意味の発生なのである。
 内的に相互の存在を一人になった時にも想起し得るように記憶する、そして相手の存在を存在として理解するということが文字以前的な原エクリチュールであろう。
 つまりここで意味についても定義しておこう。

意味=ある存在者(私)が別の存在者(他者)に音声を発する(文字を示す)ことに対する相互の了解=自分の他人化を通した他者の自分化に対する試みそれ自体の存在感の獲得

 最初の音声発声者の発声事実に対する記憶が次の音声発声者(つまり最初の音声発声者の音声に対する受信者)に介在し、やがて次から次へと音声発声行為は全成員に定着していくだろう。この過程で全ての音声発声者たち(全成員)は人類最初の音声発声者の孤独、つまり自分の他人化のファーストトライアルという認識事実を潜在的には了解していることだろう。これは要するに全音声発声者が人類最初の音声発声者の孤独を発話する際に追体験しているということである。
 私は最初発話を文字記録とは違うとしながらも、結局これをも自分の他人化であるとした。しかしこれは第一発声者が第二発声者を存在として求めるという事実そのものが、第一発声者にとって自分をその第二発声者にとっての他者にするという決断において、これもやはりもう一つの自分の他人化だと理解しているからである。しかしそれは恐らく第一発声者が最初に第二発声者となるべき存在に発声した時には、無自覚でたまたま第二発声者が自分に対して発声し返してきた時点で、初めて明確に行為として自覚されたことなのだろうとも想像されるのだ。
 意味とは要するに、意味を確認し合う最低限の他者を必要とするということから発生する。そして相互の存在確認こそが最初の意味だったのだ。(これは綾小路きみまろの漫談ネタである「あんたー!あんたー!」「何だよあんたあんたってうるさいな、何なんだよ」「ただ呼んでみただけ、返事してくれればそれでいいのよ」にも通じるものである。)
 何故そう考えるかと言うと、それは仮にたった一人だけで勝手に理解していることがあり、それを誰にも告げずにいるということは、それだけで私的言語でしかないからである。(哲学者ウィトゲンシュタインが考えた概念である。)そしてそれは第一文字記録者にも言えることである。
 すると意味発生以前的には無意味な発声のトライアルが偶発的に行われる必要があったということとなる。つまり意味とは第一発声者のこのトライアルを第二発声者が無碍にはしていなかったという事実によってのみ初めて発生したということになる(私たちは第二発声者にも感謝の念を捧げなくてはならない)。
 つまり纏めると、第一発声者にとっての他者が第二発声者となったという事実こそが、あるいはある他人が第二発声者となったが故に第一発声者にとって彼(女)が他者になったという事実こそが発声=意味という発声の意味化を齎したということになるのだ。それは要するに、自分の他人化というファーストトライアルが結果的に特定の他人の自分化という他者創出を齎したことに起因することになるのである。ここで再び定義しておこう。

意味の発生の瞬間=第一発声者の(恐らく)無自覚な自分の他人化が、ある
他人を第二発声者、つまり他者とすることによって、その他人への自分化を齎した瞬間

自分にとっての意味=自分の他人化と他人の自分化との一致=他人の他者化と自分を他者にとって他者とするような自分に対する他者化、つまり自己化の一致

∴ 意味=自分の自己化と他者の自己化とが自分にとってと他者にとって可能となるということ(自分を離れた超越的視点による判断)

 要するに意味とは、自分と他人を自己と他者として認識し得るという事実そのもののことなのである。それは自分や他人を存在論的(レヴェル)で捉えるということなのだ。
 だから書くという行為は既に上の事実を踏襲していることとなる。勿論第一記録者による最初の文字記録において、それは無自覚で偶発的突発的な行為であった可能性も大きいと私は思うのだが。

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