Sunday, November 1, 2009

結論になり代わるもの、あるいは言葉を巡って考えられる自由と責任③

 東浩紀氏は大塚英志氏との対談集「リアルのゆくえ」(講談社学術文庫)で次のように受け答えている。(終章2008年―秋葉原事件のあとで)

大塚 少なくともあなたは本を書いているんだから、本が届く範囲の中でやっていくべきなんだって、ぼくはずっと言ってるわけ。それからネットの上の言葉も含めて、あなたが発信できるツールの中で、あなたはあなたの言葉の中で、そういったものに対してコミットしていっているわけでしょう。
東 いや、それはやるわけです。その限りでは信じているとも言える。けれども、真剣に内省するとふと空しくなるのも事実です。評論や思想の言葉が行なっているのは、もともと心の強い読者の、その強さを高めているだけではないか。最初から心が弱く、承認を求めて陰々減々となっているひとを、本だけで変えることがあるのか。

ないだろう。もし哲学テクストを読み極度に感化され犯罪にまで走る者がいたとしても、それは哲学の本質に対する理解からではなく、そのテクストがたまたま示した「伝えるべき内容」を信じ込んでしまった結果でしかない。自分の書いた文章がどのように受け取られるかについて、東氏はそれなりの野心を前提にしている。しかしサルトルはその野心すら実存の中に封じ込め、要するにそれは終ぞ実現し得ないという地点でテクストの在り方を考えたと言える。サルトルは孤独に強かったのだ。(第七章参照)
 野心とは孤独を悟られることに対する恐怖(羞恥に根差す恐怖)が孤独を隠蔽するための便利な逃避的孤独解消法である。それは孤独に奮闘するという意味では孤独の味方であるが、それがある程度実現されると尊敬心を集めるという意味では孤独対処法でもある。
 野心はそもそも相互にぶつかり合うことを前提するので、必然的にかなり孤独を隠蔽する用意周到な手法ということになる。野心同士がぶつかり合えば、より野心の正体は見極め難くなる。
 しかしその陰で野心を発揮し得ない成員が固有の引き篭もり状態を保有する。しかしその中でも何らかの対外的な希望を抱く者はオタク化し、固有の関心領域にのめり込む。しかし一旦そうやって関心領域を設定すると、オタク同士でオタク度を巡る競争意識が生じ、やがてオタク純度を巡るエリート層が形成されていく。各オタク固有の野心の誕生である。
 2チャンネルオタクは各種差別的発言や言説の自由を謳歌し、アンチ・ヒーロー志向(朦朧会見として世界中で知られたある大臣に対して理性論的には否定しても、内心で贔屓感情を抱くこともあるかも知れないし、その場合2チャンネルに書き込むことにしようと思い立ったりする。付記 中川昭一氏のご冥福をお祈りする。河口)、マイナー・アイドル志向を性格として保有し、その中でも傑出したオタクは権威を持つようになる。2チャンネルは他の一切の権威に対する無関心を決め込み、身体論的、文化論的差別論を自由に発信することで、ある種のリビドーの捌け口として利用される。
 オタク固有の本願ぼこりは一切の横の連帯、協調を相互に拒否し、排除し合うことだ。そこには未来に対する明るい希望の奨揚は禁物である。保守安泰志向、ネクラ志向である。そもそも全ての記述が公的には表明される必要がないという前提が各オタク間の交流を最初から途絶させている。しかしそれは恐らく結社内に固有の秘密とも少々違うだろう。秘密には小さな権力に対する憧れがあるが、オタク内にそれが希薄だ。オタクは権力よりは権威を望む。
 引き篭もりにはオタクをオタクとして誇る意欲、つまり内的野心にまで至らない未消化で非充足的気分がある。AVオタク、マイナー・タレントオタクetcにさえなれない。
 勿論オタク対象全ては伝達手段という前提の上で展開される「伝えるべく内容」のヴァリアントである。しかし言葉の仕組みに着眼すれば、野心の正体、羞恥の本質や構造に対する理解のために分析を求められる。しかしそれは追究すればするほど極度の心的負担が個に圧し掛かる。つまり言葉の仕組みに対する着眼によって我々は一方で益々グローバリズム、国際スタンダードの容認へ、他方「伝えるべき内容」の追求は益々オタク的孤立化や相互不干渉化へと促進される。
 要するに全てのオタクはそのオタク内でのみ通用する私的言語の特権的利用を巡る互助会的性格の非連帯的屯に加担している。それは知る人ぞ知るいい味の店から、地方都市内に在住しているアーティストだけが集うギャラリーに至るまで様々である。
 アダルト・サイトサーフィン愛好家も、自殺サイトも今後も一切なくなることはないだろう。しかしそのこと自体を憂えることに然程意味はない。寧ろオタクが屯出来る場を何らかの形で見出そうとする心理が表向きの公的顔とは全く別な形で裏的なものとして示す必要が一般社会の中で暗黙の内に強制力として個に求められていること自体が問題なのだ。
 ウォルター・リップマンは1922年刊行の「世論」において、エリート指導者たちさえその対話の内実はたまたま寄り合った街灯の下の人々とそう変わりないという出だしで論を進めている。それは要するに言葉の強制力に対する自覚から来るものである。しかしリップマンの言説をヘーゲルは既に予感するべく次のように言述している。

(前略)世論は、尊重にも、軽蔑にも値する。軽蔑に値するのは、その具体的な意識と外に現われた姿からみてのことである。尊重に値するのは、その本質的基礎からみてのことである。だがこの基礎は、多かれ少なかれ曇らされて、右の具体的なもののなかにただ映現するだけである。世論は外に現われた姿においては、この基礎を明別する基準をもっていないし、また実体的な面を明確な知へとおのれのうちで高める能力をもっていないから、世論に従属しないことが、偉大にして理性的なものへと至る〔現実のおいても学においても〕第一の形式的条件なのである。だがこの偉大にして理性的なものの側では、世論がやがて自分を是認してくれて、世論のもつもろもろの先入見のなかの一つにしてくれるであろうと確信しているわけである。(第三部 倫理 中 第三章 国家 中 c 立法権、中公クラシックスⅡ、§三一八、392ページより)

 言葉は人間の真意を作るものであり、本音を吐くためのものではない。世論とは一つの本音であり建設的ではないことも多い。だからヘーゲルが言っているように本質的基礎を見据えることが可能か否かはまさに「伝えるべき内容」の選別に本質があるのではなく、言葉のどこに力があるかを、言葉を示すことによって伝えるものであるなら、それは言葉を語ることが語られる状況において、どう作用するかを予め心得ているか否か、つまり責任論に帰着する。言葉の影響力を考慮して語ることはそれ自体権力の行使以外のものではない。その事実はブログや2チャンネルの書き込みを通りすがりとして無記名で行なうことの通常な日本人の利用の仕方に可能性を生む。

 通常社会では年配者は年少者に対して苦悩があっても真意を告げないものと我々はしている。しかし例えば経済的問題といった実利的なこと以外でも、例えば性の問題にしても年配者の方が年少者よりも容易に克服しているとばかりは言えない。否寧ろ年配になればなるほど顕在化していくこともあり得る。しかしそれはなかなか同世代の人以外には話し難い。しかし同世代の人々は既に自分の身体に関する問題にかかりきりになりそれどころではない。そこで自分の年齢を告げずにどこかのブログに悩み事を書き込んだとしよう。その書き込みに対して中学生や高校生が極めて適切な人生相談の回答を寄せたとしよう。例えばその書き込みが老人によるものであった場合、その老人は通常の直に人と接するコミュニケーションでは若輩者たちに真意を告げることを躊躇する場合があるにせよ、回答を寄せる中学生や高校生も自分がさも大人の振りをして回答し、その回答に相談者が溜飲を下げたとすればそれは瓢箪から出た駒と言えないだろうか?つまり相手の顔が見えないからこそそこには真実を容易に語り合えるチャンスもあるのである。
 だから人間の想像力を規制しないという意味では愚痴や戯言を言い合う場を封鎖すべきではない。例えば2チャンネルの書き込みだって「僕はあんなものしたくはない」ともし人に告げるようなら、いっそ自分も書き込み参加した方がよい。つまり本当は興味があるからそういうサイトを検索しているのだから。無理に自分の欲求を押し込めるくらいなら、どんなに低俗な書き込みだってした方がいい。つまり低俗な書き込みをすること自体が精神を荒廃させると決め付けるなら、その考え方こそ短絡的である。
 ヘーゲルは「法の哲学」の中で次のように言っている。(第三部 倫理 中 第三章 国家 中 c 立法権、中公クラシックスⅡ、390~391ページより)
 
  追加
〔言論の自由〕現代世界の原理はつぎのことを要求する。すなわち各人が承認するようにと要求されていることは、それが正当なものであることが各人に示されなければならないと。だがその上なお各人は、そのことについて、ぜひとも共に語り、提言したいと望む。とはいえ各人は、自分の責めを果たしてしまえば、つまりそのことについて言うべきことを言ってしまえば、自分の主観性を満足させるわけであって、そのあとでは彼は多くのことを我慢するのである。
 フランスでは言論の自由は、黙っていることよりも、なんといってもはるかに危険が少ないと思われた。なぜなら黙っていることは、世人はことがらに対する不服を胸のうちにしまっているのではなかろうか、という懸念を起こさせるが、小理屈であろうとも、自由に喋ることのうちには、一面、捌け口と満足が含まれており、これによってことがらは、とにかくいっそう容易にはかどることができるからである。

 これは君主論心得的側面もある言述だが、社会機能論的にも、各個人の精神衛生論としても読むことが可能である。必要悪としての欲望の捌け口としてメディアを利用するその仕方を封鎖してはいけない。つまり正常とか異常とか、上品とか下品とかいうようなことと全く無縁に精神の荒廃とは訪れる。それは創造的で価値ある行為や優れた人格にも突如訪れるものである。そして精神の荒廃は寧ろ欲望の捌け口を悪と捉え、全ての欲求解消手段を封鎖することからくることも少なからずあるだろう。
 私は引用を最初殆どしないように本論を書こうと思い立った。しかし意外と多くそれをしてしまった。しかしこれはよく考えてみると、言語を偶像化する例としてそれはそれで意味がある。しかしかつてそれらの言葉を残した偉人たちも幾つかの啓示的な偶像化された言葉を常に脳裏に潜ませ自分の言葉を探ったのだ。それは「伝えるべき内容」だったかも知れないが、言葉の仕組みにまで意識を向かわせつつそうしていた筈だ。
 私たちは各メディアに対して自分を巡る他者各個人に対して異なった真意を持ち、その都度真意を書き換えているように接する。オタクはその中でも特定の関心領域に釘付けになる。しかし全てのメディアや伝達手段に対しそれぞれの利用仕方が規格化されたら管理社会の呪縛に降参したことになる。あるメディアや伝達手段の自分なりに固有の利用の仕方に執着を全くしない(オタク化を用意周到に回避する)なら、真にメディアや伝達手段の往来の意味を理解することなど出来ないのではないか?
  言葉の仕組みを問うのは哲学だとすれば、こういう情報は新聞やテレビから採る、しかしそこでは自分の意見をそう容易には伝えることが出来ないから、ブログで何か書き込み、そこでも容易に言えないことは2チャンネルでと考えて、個々の状況に応じてメディアの選択を我々は行なう。その時確かに我々の意識は「伝えるべき内容」へと向かっている。他者間依存や自愛を考えると確かに言葉の仕組みへの問いという哲学は背景へと退く。しかし「伝えるべき内容」は私的問題であり、そこで伝えられたことが記述として残された時、そこに成立した意味の世界は言葉の仕組みに則った「語られたこと」だけである。「語られたこと」の意味が正当に伝わらなかったことは誰しも経験している。しかし誤解を受けてしまった発言も時間がたつと、「今この映像を見れば」、「今この文章を読むと」正しいと判定されることもある。
 傍から見ていて幸福そうなエリート夫婦があったとしよう。しかしあまり愛情はないとしよう。夫は大学教授であるが、そうなったのは妻の父親が今勤務する大学の有力教授であったために政略結婚して妻も学者である立場をも利用しようとした自分にも責任がある。しかしそれがどこかで負い目となり、家庭はあまり居心地のよいものでないばかりか、妻の方も彼より教授職という意味では先輩なので多忙であり、講義終了後に直帰しても妻と二人の時間を過ごすことが出来ないために帰り道にあるバーに立ち寄るようになりそこのホステスと親しくなる、そういうような感じで私たちは新聞やテレビという正妻以外にネット、ブログ、携帯、2チャンネルを利用し始めたのだった。つまりそれらのメディア、伝達手段間の往来は一度は慣れたが次第に居心地の悪くなっていった家庭というような事情が個々のメディア毎にあったのだ。その往来を促進する理由こそがトラフィック・モメントである。送り手から受け渡されたメッセージを受け取る受け手であり大衆である我々購読者、視聴者、ユーザーたちは往来をこれらかも頻繁に繰り返し続けていくだろう。その往来を自分なりに人生の時間に意味づけるのはしかしやはり言語以外にはない。それは各メディアが他のメディアとの相関でどう捉えるかという観点において自分なりに言語行為の一環として位置づけているからだ。そしてそのトラフィック・モメントの位置づけ作用はメディアや伝達手段という存在自体の存在理由に対する自分なりの意味解釈に帰着する。それは言語が私にとってではなく私たちにとって意味があるとされる視点から見た場合、他者の死は「私たち」をいささかも変えはしないものの、私(自分)には何かを語りかけるような意味で偶像化された語彙や表現(最近では空気を読めないとかYKなど)を一方に確認し(合理論的に)、他方では私にとって偶像とは何なのか、醜態を晒す朦朧会見に出席した大臣に対する密かなエールかも知れない。私秘的な偶像として意味を受け取る自由が内心にはある。醜態を醜態として晒すマスコミ(の生贄模索性)に対する予防線としての内心である。
 要するに私たちは個としてより私秘的存在として意味の世界へ舞い降りるために、この意味はこのメディア、あの意味はあのメディアでと往来を繰り返す。私たちはまるで日本に中に東京があり横浜があり、大阪があり、名古屋があり、京都や札幌があるように文字があり、記号があり、デザインがあると考える。それらを往来させるものは意味という往来を作るモメント(契機)である。そして至るところに待ち構えているモメント間の相関を把握しようと思う時、言葉の仕組みが立ち上がる。それは責任という名の言葉の権力行使に対する落とし前である。往来の契機となるものは個人の中の責任という意識であり、それが自由を保障する。
 メディア間、伝達手段間の往来は、言葉の仕組みの多様を私たちに教える。例えば伝統的な語彙や表現は携帯メールや2チャンネルの言辞と相補的である。しかしそれは私たちがそのように望む以前に言葉の力を信じることから個として既に他者に向き合っている証拠である。つまり各メディア・伝達手段に私たちが固有の「伝えるべき内容」を嗅ぎ取っているという事実がある一方、脳科学ではマイケル・ガザニガが指摘しているように責任感は確認し得ないが、それはそうだろう。何故なら責任とは既に言語行為をすることの内に潜んでいるからである。そして我々はその言語‐責任の網の目からしか自由を自覚することが出来ない。
 私たちのトラフィック・モメントは言葉の仕組みを考える時にのみその存在を私たちに示す。私たちは往来をやめることはない。私たちが存在と存在者の間の往来によって全て理解されること自体が意味あることであると感じ続ける限り。(了)

参考文献
「論語」金谷治訳注 岩波文庫
プラトン「国家(下)」藤沢令夫訳 岩波文庫
「エックハルト説教集」田島照久訳 岩波文庫
ホッブス「リヴァアサン2」水田洋訳 岩波文庫
デカルト「省察/情念論」井上庄七・森啓・野田又夫訳 中公クラシックス
コンディヤック「人間認識起源論(下)」古茂田宏訳 岩波文庫
カント
ヘーゲル「法の哲学Ⅱ」藤野渉・赤沢正敏訳 中公クラシックス
ニーチェ「力への意志」
フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」細谷恒夫・木田元訳 中央公論新社刊
ルドウィヒ・ウィトゲンシュタイン「ウィトゲンシュタイン全集 哲学探究」藤本隆志訳
大修館書店刊
マルチン・ハイデッガー「存在と時間」原佑・渡邊二郎訳 中公クラシックス
「形而上学入門」川原栄峰訳 平凡社ライブラリー
マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
ウォルター・リップマン「世論(上)」掛川トミ子訳 岩波文庫
ベンヤミン「パサージュ論 第三巻」今村仁司・三島憲一訳 岩波書店刊
モーリス・メルロ・ポンティ「知覚の現象学」
ジョン・ラングショー・オースティン「言語と行為」坂本百大訳 大修館書店刊
レヴィナス「他者のユマニスム」小林康夫訳 書肆風の薔薇刊
土居健夫「「甘え」の構造」弘文社刊
ハンナ・アレント「責任と判断」ジェローム・コーエン編 中山元訳 筑摩書房刊
ジル・ドゥルーズ「ニーチェ」湯浅博雄訳 ちくま学芸文庫
スラヴォイ・ジジェク「幻想の感染」松浦俊輔訳 青土社刊
リチャード・ドーキンス「延長された表現型」日高敏隆・遠藤彰・遠藤知二訳 紀伊国屋書店刊
スティーヴ・ジョーンズ「遺伝子=生∣老∣病∣死の設計図」河田学訳、白揚社刊
ヒューバート・ドレイファス「インターネットについて 哲学的考察」石原孝ニ訳 産業図書刊
ダニエル・デネット「自由は進化する」山形浩生訳 NTT出版刊
ニコラス・ハンフリー「赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由」柴田裕之訳 紀伊国屋
マイケル・S・ガザニガ「脳のなかの倫理 脳倫理学序説」横山あゆみ訳 紀伊国屋書店刊
中島義道「哲学者のいない国」洋泉社刊
永井均「なぜ意識は実在しないのか」岩波書店刊
梅田望夫「ウェブ進化論‐本当の大変化はこれから始まる」ちくま新書
大塚英志+東浩紀「リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか」講談社現代新書
大屋雄裕「自由とは何か」ちくま新書
池谷裕二+木村俊介「ゆらぐ脳」文藝春秋社刊
和田秀樹「<自己愛>と<依存>の精神分析コフート心理学入門」、「壊れた心をどう治すかコフート心理学入門Ⅱ」PHP新書

 付記 今回で「トラフィック・モメント」タイトル論文は終了しますが、当ブログ自体は同一タイトルのままで、別の論文「書き、読み、語る・描き、見る・聴く」(短論文)と「言語の幻想とその力」(中論文)を引き続き掲載更新いたしますが、数日休暇を取らせて頂きます。(河口ミカル)

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