Thursday, November 26, 2009

〔言語の幻想とその力〕2、真理相対主義と信仰の問題

 私たちは相互の存在を他者として、それは同一共同体の成員として、知人として、友人として、家族として認可し合い、それを手掛かりに意思伝達し合う。意思伝達することそれ自体が他者を相互に意思伝達し合える相手として認可している証拠であるし、そうすることでその相互認可を確認し合っているというわけである。しかし相互理解、例えば今山の頂上にいる二人の人間が私が指す方向に鉄塔が見えるか否かということが「うん。私にも見える。」と相互確認し合えるばかりではなく、もっとメタ対象的な話題において、本当に他者が私が述べた意味内容を理解してくれているのだろうか、という疑問、あるいは私が述べる真理の意味作用を私同様に今こうやって私と発語を交わす他者は理解してくれいるのだろうかという疑問は常に私たちについて回るのである。相互に誤解に基づいて了解し合っているだけの場合も、それはいつもではないのだが、確かに存在するからである。
 しかし全ての発語において他者の自己との絶対的な意味内容了解の一致を確認し合っている暇は我々には残念ながらないのである。だからある程度の相互了解を得ることが出来れば、それ以上のものは相互に求め合わず我々は次の話題へと移行してゆこうと相互に了解し合っているのである。すると我々はこうここで一つの結論を見出すことが出来る。それは相互了解というものは絶対的な真理了解の相互一致ではなく、相対的な了解、それが酷くずれ込んでいるのではない限り、よしとしようという妥協主義的な観点による相互了解であるということが出来る。
 ただここで重要なこととは、要するにある重要な一致点さえ把握し合えれば、その一致点は実は話題模索と同様その場その時毎に模索し合うのだが、その一致点の了解をベースに我々は話題を展開し、移行すること出来る、ということである。
 例えばそれは話題とかその話題の設定という状況論的なことから、語られる意味内容的な面まで広く適合され得る真理である。
 「我々誰しも未来は予測し得ないものなのだ。」とか「我々は最早過去へは戻れないのだ。」という真理を、発語においてはもっと感慨を交えた形で我々はしばしば他者へと語る。それは無常観的な意見陳述とも言える。しかしその発語の意味内容的な真理はほぼ相互に話者同士に了解一致を得ることは可能であっても、意味作用的な例証性において、つまりそういう例として自己内部で想像する様は個人毎に大きく異なっているであろう。私がイメージする赤いというイメージとあなたがイメージする赤いというイメージがほぼ同一の色合いを指示しているという了解一致が見られても尚、その指示されたものを通して我々が得る意味は微妙にずれ込んでいると言える。それは赤いリンゴを幼い頃から沢山見てきた人とそうではない人の抱く赤いリンゴのイメージが微妙にずれ込んでいるようにである。
 しかしにもかかわらず我々は「赤いリンゴ」と言うと、その時誰しもこれこれこういうイメージものである、という了解一致を心的に設定しようとする。それをベースに「赤いリンゴ」という名詞を使用した発語の文脈を理解しようとする。そして我々は誰しもその「赤いリンゴ」という謂いを利用した会話において相互に同じことを指示して語っているのだ、と信じて疑わない。もし疑うとしたら会話は円滑に進行しないであろう。我々はある真理を語る時、それを了解し合えるという事態が、同じ意味内容を了解し合っているのだという信念と同時に、ある程度我々が抱くその意味作用的な例証性においてずれがあることを知りながら同時に、それは大幅にずれ込んでいるわけではないとい信念を持って発語しているのである。会話しているのである。このことは極めて重要である。なぜなら我々が語る真理が了解一致という面では極めて相対的なものでしかないと相互に薄々知りながら、それが酷くずれ込んでいる筈はないという確固たる信念を同時に保有しているからである。このようなことは家族とか親しい友人とかのレヴェルではなく、敵対する人間同士でさえあり得る事態である。
 例えばどんなに敵対していたり、嫌いな人間が話す意味内容においても、「赤いリンゴ」という指示がある程度信頼し合えるという事実は極めて言語活動において奇跡的事態であるとは言えまいか?
 ここで整理しておこう。我々は次にあげるような一連の了解一致の信念を抱いて発語に臨んでいると言うことは可能である。

① 私の語る「赤いリンゴ」が彼(女)が理解している「赤いリンゴ」と了解一致している筈だ、という信念を持っている。(指示性の一致)
② 私が語る「赤いリンゴ」を通した発語内容が彼(女)がその発語を通して理解している意味内容と、真理条件的な意味合いで了解一致している筈だ、という信念を持っている。(意味内容の一致)
③ 私が①、②を通して得た了解一致の観念を私と語る彼(女)も私同様了解しているという信念を持っている(信念保持の一致)
④ 私が語る「赤いリンゴ」を通した発語の意味内容を通して一致した了解の下で想像される意味作用の様相が酷くずれ込んでいるということはあり得ないであろうという信念を持っている(意味作用的想像の一致)

 ここで我々が上記のように持つ信念というものは、真理の相対主義でありながら、同時に了解可能性の絶対主義、つまり信仰であると言うことも可能である。つまり相対的な一致をしか掴み得ないのにもかかわらず、どこか一点では絶対的に理解し合える筈だという確信によって我々は言語行為を続行しているのである。それは真理相対主義を克服し、ニヒリズムに埋没することなく、最低限の理解は如何なる相手であろうとも得られる筈であるというコミュニケーションの意義に対する信仰があると言い換えることも可能である。
 そこで一つの結論をここで示そうと思う。真理了解の一致という面では我々はその履行を全面的にはなし得ない、そういう意味では言語は一種の幻想である。しかしその幻想性をも含めた力、つまり何ごとかは必ず伝達し得るのだという確たる信念が我々にはある。それを言語の力を通したコミュニケーション信仰と呼ぼう。
 我々はどういう相手をどういう話題を設定しても尚、何らかの理解を得ることが出来る。それはある意味ではその場、その都度の判断によって理解を得ているのであり、デヴィッドソン的な当座の判断である。だから何か理解するべき規範があるのではなく、ケース毎に存在する理解一致点を見出しているのだ。
 ウィトゲンシュタインはフッサールが認めていた前言語状態としての心的様相に対しては殆ど関心を持ってはいなかった。寧ろそういうものの存在に対して懐疑的であったと言えよう。しかしその両者はどこからどこまでを言語的思考と捉えるかという観点によって異なったタイプの哲学スタンスとなっているだけであり、当のフッサールが言語と無縁な思考というものを想定していたのかというと私は多少疑問に思う。
 だが少なくともウィトゲンシュタインは言語的思考を介在させずには思念出来ない思考というものの在り方と我々が日常無意識の内に採用するルール(それは文法といった形式的なことから使用という実践的な意味へと彼の哲学では移行してゆくのだが)に対して着眼して関心を注いだと言うことが出来る。しかし彼以降の哲学者たち、例えばデヴィッドソン、デリダ、サールといった人々は状況判断における普遍言語という思考能力を前提として論じてきている。それはサピアとかウオーフによる言語相対論というものがそれ以前の命題として考えられていたからであって、この論において私が言うところの相対的ではあるが、それでも尚その都度の理解点を得ることが絶対に可能である、あるいはそのように信じて発語しているような意味で、彼らは言語相対論以降の進化状況として彼らの哲学を作ったのだと今我々には言えると思う。
 何かを語ることは、その語られる対象に対して洞察したり、意味内容の探求自体に対する断念に他ならない。発語行為としての他者獲得という事態には、認識というものが不可欠であるように思われる。それは共同体的認識、社会認識の出発点である。勿論人間は言語習得以前的な他者に対する出会いはあるであろうが、いったん言語習得された(それは他者の意思疎通的対象性に対する理解の後のことである)後我々は他者を発語行為対象として認識するようになる。それから後の他者は従って自己にとって原初的意識となる。しかしフッサールは恐らくそれ以前に原意識というものを考えているようである。しかしフッサール的原意識というものは、デリダが言う原エクリチュールという概念(それは普遍言語認識的な捉え方である。「グラマトロジーについて」より)を能力として発現させる場に近いものであると考えられる。それは恐らくハイデッガーが現存在と呼んだ知覚主体の意識問題とどこかで一致した地点であるように思われる。
 断念という概念を二度ほど採用してきたが、実はこれは非常に重要なのである。というのも言語発語行為も、陳述、品詞使用も全て、語化というものは実相的にはそのものをカテゴライズすること以外の何物でもない。というのも「赤いリンゴ」という発話は、「赤黒いリンゴ」とか「カーマインのリンゴ」とか「赤いバラ科植物の果実としてのリンゴ」といった無数の形容と無数の指示の方法の中から一つのその場に適切な陳述の選択採用以外の何物でもなく、例えばリンゴ生産者間の会話なのか、植物学者間の会話なのか、日常的食料の買い物での会話なのかというような各状況に応じた陳述の体裁の選択採用に依拠した決定事項であるからである。それは陳述するその瞬間に他のあらゆる適切な陳述可能性を断念していることを意味するのだ。一つの叙述を成立させているのは紛れもなく、この他の<表現、形容>可能性の探求の断念なのだ。
 それは陳述内容、陳述形式、陳述体裁の選択だけに限らない。信じる内容、信じる対象といった日常的な判断の基礎となる全てに言い得ることである。そしてそのことは日常会話とか意思疎通の全てにも当て嵌まるのである。例えば厳密な了解一致がなされなくても、概ね理解出来れば我々は発語行為をどんどん先へと進行させる。これは一応全てを了解し合えたということをそれ自体は一種の幻想なのであるが、そういうこととして先へと進めるのである。これがなければ会話とか発話といったものは一切の進行を阻まれる。例えばある話者が「先週の日曜日秩父に出掛けた。」という内容を別の話者に告げる時、「よく秩父には行くんですか?」とか「日曜日はよくどこかへ出掛けるんですか?」とかその陳述を巡る話者固有の事情を一々全部了解しなければその先に会話が続かない場合、我々はその陳述を発端としたあらゆる陳述の主旨にはいつまでたっても進めない。つまり我々は一つの陳述の発話文章を、一応理解し、そういう内容の設定を前提としてその先を聞くことを望むのである。そういった会話とか発話といった全ての発語行為が拠って立つ前提というものは「そういうものとして聞く」というマナー、「そういう設定の下で理解する」という心的な了解が成立しているのである。これは一つのコミュニケーション信仰の実例である。
 ある陳述を話者が別の話者に行う時、その陳述は大抵、申し述べる話者の知っていて、聞かされる話者が知らないことを中心に展開される。そうした情報獲得の有無が発語行為を初めて意味あるものにする。私が見たもの、聞いたもの、感じたものの全てを誰もが了解し得るのなら私は誰にも何も語る必要はない。そしてもう一つ大事なこととは、そういう風に私だけが知る事実を私が申し述べることを私にとってのもう一人の話者が聞くことで何らかのメリットをそのもう一人の話者が認識し得るだろうという目測を私が持つことが出来る限りにおいて私は発語行為において陳述することを思い立ち、意志するということである。従って誰か他者が私に何かを申し述べるとすれば、その他者もまた私が誰か他者を陳述申し述べに対する聞き役として選択しているような意味で、私を聞き役として選択しているのだということを私は知ることになるのだ。
 しかしその陳述の意味内容そのものは、私が体験した何らかの事実によって成立しているが、その事実を聞かされた人は誰であっても、皆自分なりにその事実を内的に想像しているだけであり、その想像的絵図そのものは私が見たり、聞いたりしたものの様相とはかなりずれているであろう。要するに話者が心的に抱く過去事実に対する報告に関する限り、我々は話者の心的な様相というものは彼固有のもので、その事実に対する陳述の意味作用そのものは、報告者の内的、心的様相とは必ずずれていること、その陳述において話者である私は見たり聞いたりした当人であるが、その当人(私)のその事実に対する感受と思惑如何とは何の関係もなく、それを聞く者は私の言うことを自分勝手に想像することが許されている、そういうことを前提として、あるいはそうでなければ事実を陳述され聞かされて、そのことを想像することは出来ないというディレンマによって初めて成立しているということである。ということは、もし我々が客観的に他人の脳を開いてどういうことを想像しているかを確認し得ることが出来るのなら、自分が話す相手に想像して欲しかったことと、随分異なった様相で理解しているということを必ずそこに目撃するであろうということである。しかし実際上そういうことは不可能である。従って我々はそれをしたくてもせずに、ただ相手もまた自分が感受した事実に対する受け取り方と同様のものを受け取っているに違いないというある種の、確認に対する断念を携えて、つまりそれ以上了解一致を確認することを断念しながら、会話を、陳述の応報を続行しているということである。このことはコミュニケーション信仰があればこそ、その会話の続行を意味あるものにするが、よく考えてみるとかなり絶望的に我々が常に誤解によってのみ理解し合っているという現実をまざまざと見せつける。ここに本論の表題である言葉の幻想ということが浮上してくるのだ。
 それは真理が如何なる異なった意味作用の下で展開しても尚、その真理をある別の意味作用の下で陳述した話者の感受如何とは何の関係もなく、誰でも自分勝手な別個の、全く印象の異なった意味作用を連想しながら他者の陳述を受け取って(聞いて理解して)よい、またそういう齟齬を前提しなければ我々は何も他者には陳述することが出来ないという、要するに完全なる了解一致はなし得ないが、尚何らかの完全なる一致は得られる筈だという了解一致の幻想性を前提しつつ、かつその齟齬を常に伴った陳述応報の連鎖それ自体においては、どんなに齟齬をきたしつつも全体的なこととしては意思伝達することの意義を信じて疑わない、言葉の力を我々は認可しつつ、信仰を持って生活してもいるのである。
 そしてその事実を我々が認めるということは真理が相対的であることと、そういう相対性そのものを前提とするなら相互理解、つまり了解一致というものそのものは絶対的に可能であるという信仰を我々が決して見捨てることはないという一事を物語っている。
 真理とはしかしキルケゴール的に言えば決して誤謬のないものであるわけだから、それが相対的であるという思惟は少し矛盾するということになりはしないか、という疑問に対しては、真理の持つある意味作用の志向性というものは一元的であり、各自において異なった心的な具体的顕現(想像の仕方)があっても、尚その顕現された様相の部分的なもの同士の連関においては話者が伝える陳述に介在する真理は、どれも共通したものである筈であり、だからこそそれを真理と呼ぶに相応しいと言えるのだ。というのももしそれが真理と呼ぶに相応しくないとすれば、その陳述は意味作用の態をなさないこととなり、その陳述しようと発声されたものを巡って理解不能の声が聞かれることとなろう。つまり真理相対説とは、真理が相対的であるのでははく、その真理へと至る道筋の多様を許容するものであり、多様な様相においても尚一切の多様に漲る共通した性格こそ、真理と呼ぶものに相応しく、その真理が認識出来ない発話は、了解一致の幻想も、理解へ至る道筋も聞く者にとって見出されはしないであろうということである。よって真理とは意味内容であるよりは、ある特定の意味内容を通した多様な様相における了解へと至る道筋において共通する志向性(理解への志向性でもある。)の目指す先であると言えよう。それは異なった様相という道筋を許容し、了解一致の幻想に対する信頼、つまりコミュニケーションへの信頼という信仰心によって支えられている。
 ところで我々はそういう他者との間での信頼をコミュニケーション信仰によって確たるものとしているが、実は我々はそうしながらも自らの時間を自分で左右することが出来ない。我々の生の時間はある日突然絶たれる。死の到来である。
 死は生物学的にもなかなかその正体が掴めないもののようである。進化論的には死は多細胞生物による進化上の獲得形質であるらしいという考えが、細胞分裂の限界とかアポトーシスと呼ばれるものによって説明されてきている。次節ではその死を巡る我々の言語活動において介在させる信仰の問題について考えてみよう。

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