Sunday, November 8, 2009

書き、読み、語る・描き、見る・聴く(言葉・絵・音楽)<存在と意味第二弾>第二章 描き、見る

 現代社会では作家という職業は殆ど一部の人たちに限られていて、文章というものはコピーしたものを知り合いに読んで貰うということなら容易に出来ることだが、権威ある人の眼にとまるかどうかということになると至難の技である。
 その点絵画というものは少し事情が違う。要するに絵画というものは、殆どそれを売って食っていくだけの力量とチャンスに恵まれた人というのは限られるが、同時にさほど有名ではなくてもほどほどの発行部数を誇る作家や評論家ほども一般の人には名が知られていない。つまり超一流であると国際的名声を勝ち取っているアーティストたちにしても、その作品を直に鑑賞することをする人たちというのが既にかなり限られている。つまり作家とか評論家といった立場の人たちは、本と、印刷物の発行による流通というシステムの中で知名度があるからこそ、その中でも一部絵画の世界の人もいるが、出版界でいくら知名度があるからと言って、あるいはテレビなどに頻繁に登場するからと言って、プロフェッショナルなアートディーラーの眼にとまるとか、流通しているとかということはまた一切別の基準なのだ。本当にプロのディーラーやコレクターに人気のあるアーティストというのは一般社会的な意味ではごく一部を除いて殆ど無名である。またそれは絵画という作品形式が、印刷物とかコピーによってそのよさが了解出来る文章とは違うというところにも起因している。
 作品というのは世界で一つしかなく、どんなにメディアで露出していても、それは作品に対する宣伝とかコピーだけであって、作品自体ではない。
 さて私は文章を書く以前に既に絵を描くことを幼い頃からしていた。勿論最初の私の絵の鑑賞者は幼い私自身だったように思う。尤も私の父が絵心のある人間だったことも手伝って父は幼い私が描いた絵を喜んで見ていた記憶はある。
 しかしまず私は基本的に私自身が鑑賞するために絵を描いていた気がする。しかし何らかのきっかけで私の両親がそれらを発見し、そこに私の絵に対する他者の視線というものが加わったように記憶している。その点では文章を書く行為と絵を描く行為は、何ら変わりないものであろう。絵もまた描いた絵を自分だけが気に入ってそれを室内に飾るということはあり得ることだし、他者の視線を得て、他者による評定というものが気になりだすということも文章を書くことと何の変わりもない。
 その頃はしかしまだ私は芸術とかそういう意識など殆ど希薄であったと思う。そもそも芸術という語彙を知ったのは絵を描き始めた頃よりずっと後であった。寧ろ関心は絵本や漫画の方にあったのであり、私より芸術という語彙を先に知っていた生徒が小学校にいたりすると、羨望の眼差しで見ていた気さえする。その生徒は要するに私よりも先に社会の制度という現実を知っていたのだろう。
 つまり私たちはまず学問とかそういう権威的な意識を得る前に、話せるようになり、読み書きを覚え、絵を描くということを楽しみとして知る。それは権威とは無縁のプリミティヴな感性の仕業だったのだ。
 しかし小学校の高学年になっていくと、そして中学校に入学する頃には私たちはいっぱしに遠近法とかそういう語彙さえ習得していく。私は大学に入学するまでは殆ど図画工作と美術は学校でもトップクラスだったように思う。
 しかしそれはある意味では私自身が先生に褒められる絵というもののこつをもいつの間にか習得していたことも手伝っていただろう。そのことの抵抗として高校に入学してから美術部に入部し、二年生の時に部長となり、やがて美大受験というものを意識したデッサンをするようになっていった。しかし私の入学した鎌倉にある私立校は、先進的な意識の先生も多く、文化祭でモニュメントを作ることを部活動では盛んにしていたので、私は鎌倉の海岸に落ちている空き缶を拾い、それを繋げてモニュメントを作るという私のアイデアに他の部員たちが賛同し、スフィンクスを象った作品を文化祭の際に校門の前に設えることを率先してやった。すると大勢の文化祭の見学者たちだけでなく、地方の新聞から全国版の新聞の記者が訪れ、とうとう夕方のニュースショーにまで取り上げられた。そのモニュメントは出来もよかったので、学園祭終了後には、材木座海岸に暫く設置されて人々の目を楽しませた。そして五大新聞のコラム(私の名前を紹介してくれた新聞もあった)や、五大週刊誌のグラビアにカラー、白黒で写真が掲載され、やがて海外でも私の高校のしたことに刺激され、特にヨーロッパでもそのスタイルの模倣が広がっていき海外の新聞でも紹介されたことは嬉しかった。つまり私たちのした空き缶アートというのは一種のブームにもなっていったようである。
 しかしある意味ではそういう風に作品を発表するということと、作った作品を何らかの形でメディアに宣伝したりすることの比重において、後者が優先されていくと、次第にうけるために作品を作るという意識になっていってしまう。これはあらゆる仕事における陥穽である。作家だけでなく画家も、他の全ての表現とか作品を提示する職業の人たちは、学者でもそうだが、勿論科学者の夢はノーベル賞を取ることだろうし、映画監督とかアクターたちの夢はアカデミー賞とかカンヌ国際映画際とかブルーリボン賞で賞を取ることだろうが、それはあくまで仕事をするための起爆剤であり、それ以上にそういうことと関係なく研究に没頭したり、作品作りに参加したりすることの方が常に大事なのであり、勿論現代社会で求められているものを模索するという意識は重要であるが、それが評価されることを期待するためだけになされるということは本末転倒である。
 一面では空き缶の仕事に対する世間一般のものの見方はマスコミによって誘導されたのだ。私が最初に思いついたのはただ廃物利用ということと、リサイクル(アイロニーとしての)ということだったし、観光地に観光客が捨てていくアンモラルに対しての批判という意識も私にはあったけれど、それをマスコミが話題化すると、モニュメントは見世物となった。別にそれはそれでいい。しかしそれはニュースの送り手の意識が話題を作るために、「話題に乗せるために作る」という意識を作家たちに発生させる。しかしそれは本末転倒であり、そういう一発当て屋たちが我も我もと発表すると、一見ムーヴメントのように見えるが、それはただのブームなのだ。そのブームをマスコミが便乗して報道してニュースと視聴率を作る。
 それは貸し画廊で発表するアマチュア画家たちが作り出す幻想(今のブーム)を利用してアートディーラーがそれを象徴するプロ作家をでっちあげるのに利用する狭い社会現象である。アンデパンダンで「アマチュア精神を売り物のプロ」がディーラーとキュレーターによって生み出されるのだ。矛盾!それは「作ったから発表する」というよりも「発表するために作る」という本末転倒を作り出す。(金メダル獲得後の石井慧の話題とかと似ている。)
 そうなると作品同士の競争ではなく、作品を発表する者同士の付き合いか、似非ブーマーのプロの乱立になる。ディーラーが価格を設定、来歴に来歴を積み重ね価格が上昇してもアーティストには何の関係もないのだ。その際クリティックが名声を煽り立てる。キュレーターはそれを権威付けるのだ。美術館へ島流し。
 哲学ではそういうの遡及的因果関係と言って、結果が原因を作るということでウリクトとかが「説明と理解」といったテクストで示している。

 ところでそういった文化祭で活躍するということと、美大受験に合格するということは全く別の能力である。私は結局二浪の末ある私立大学の人文学部の芸術学科というところに入学し、四年で卒業したが、卒業した後がかなり波乱万丈の人生だった。
 しかしこの章で私が述べたいことは、そういうことではない。要するにアーティストという職業とか社会的意識、あるいはアートとか美術(この言葉は日本にしかない。しかも美術にはアートとかアールとかクンストハーレといった英語、仏語、独語などが通常ファインアートしか含んでいないのに、この言葉には伝統工芸やデザインなども含まれている。)という文化とか制度というものと、その制度を作る我々とのことである。
 そもそもある絵を見て気に入るということそれ自体は、誰それにいいと言われたからそういう気持ちになるということとは無縁のことである。例えば教科書に載っていたから、その絵が素晴らしいのだろうというのは学芸員になろうと思っている人とか、美術の専門家になりたいと思っている人にとってはある程度当然のことであるが、少なくともそれ以外の人々にとってそういう見方は通常のものではない。教養としてある寺院の宝物に眼がゆくということのようにも絵に対して一般庶民が接しているようには少なくとも私の目には映らない。
 そのことは、ある意味ではどんな権威者がこれこそが素晴らしいと思っても、自分の感性ではこちらの作品の方に惹かれるという意識だけがわざわざ美術館で高い入場料を支払い絵画を鑑賞するモティヴェーションなのである。
 しかもこれこれこういう傾向の絵画が好きだということさえ、実は概して成り立たない。つまりシュールレアリスムの絵画の中でもこれは好きだが、これはあまり好きになれないというような、フランドル絵画でも、バルビゾン派のものでも、印象派でも、キュビスムでもフォービスムでも、あるいは一人の画家、例えばレンブラントでもセザンヌでもこれは好きだが、これはあまり好きではないという判断しか成り立たない。それは何故だろうか?
 私は高校生の時に美術部の顧問の先生が力にある方で、丸木先生のお宅とか、高田博厚先生のお宅とかにお邪魔したこともあったが、顧問の先生とは関係なく当時一大ブームを巻き起こしつつあった池田満寿夫氏にも会いに行ったことがある。その時氏に私は「高校生で美大受験を目指している者なのですが、何か一言仰って頂けませんか?」と尋ねたところ、氏は、「好きなことをやる、そして習っている先生に小さな影響を受けないようにね」と言って下さったことが印象に残っている。氏はその後芥川賞を受賞し、映画制作、恋愛と話題を振りまき、1997年に死去するまで第一線で活躍された。
 私は氏の小説も好きだった。マルチアーティストという呼び方が定着したことの功労者でもあったのが氏である。それ以外では安部公房氏や荒木経惟氏、糸井重里氏などがこの範疇で語られてきているし、北野武氏もまさにそうであろう。
 問題なのは池田氏が私に言って下さった一言である。習っている先生に小さな影響を受けないでいるということは、社会が制度として私たちに教養とか教育という名で囁きかけてくる一切を雑音として処理するくらいの持ち前の反体制的感性とでも言うべきものがアーティストには必要であるということである。その意味では岡本太郎氏も、棟方志功氏も皆反逆者でもあった。しかし彼らは皆同時に日本の伝統美ということにも拘った気がする。
 しかしそれは制度としてアートというものが一方であり、それに対して制度に随順するのではなく作り変えるという意気込みとしてある感性と、アートに対する意志の問題である。だからそれは政治家や起業家に求められているものと同じような要するにプロ的な見識の問題である。そういう意味では私がかかわった高校美術部での空き缶アートもまた、私は社会におけるアートの位置づけに対して批判してはみたものの、今になって思い出してみると何らかの形で発表という形式(画家が貸し画廊で自腹を切って個展をしたり、ディーラーと組んで企画画廊で個展をしたりといったことから、絵画を商品として取り扱うこと)とか、社会における現代アート(そもそも画廊のシステムに対する抵抗から育まれた歴史的経緯がある)の地位とかそういう意識が当時皆無であったとは言えない。
 しかし本章で問題にしたいのは、もっと人間に基本的なこととしての、絵を描くとはどういうことかとか、絵を前にして佇むということは一体どういうことなのかということなのである。しかも先にも述べたが、それは制度外的な感性、つまり市場価値とかそういう価値基準で見るのはアートディーラーなどビジネスマンたちの立場であり、鑑賞者とか、絵画を投機の対象とするようなタイプのコレクター以外の人たちにとって絵画とかアート全般はあくまで個人の感性の問題である。ではこの個人の感性とは一体どういうものなのだろうか?
 それは端的にある絵に対しては、ある作品に対しては共感し得るも、別のある絵や作品に対してはそういう気持ちになれないということに尽きる。そしてそれは専門家筋の見解ともずれ込むことも多い。それは好きなタイプの小説とか、好きなタイプの映画とか音楽とも大いに通じるところがある。今これこれこういう風なタイプの映画が流行っていると言われるが、私は頑迷に全く異なったタイプのこういう映画が好きだということでも象徴されるように、それらの選択眼というものは、その人間の日常的な人間関係とか、仕事の態度とか、仕事の時間以外の過ごし方とか、要するに全くその人に固有の生活や時間の使い方に大いに関係がある。それは要するに人生に対する思想が形作るとも言えるのだ。
 しかしその人固有だからと言って、似たようなタイプの他人というものは、多く世間では存在する。そしてそういった他人の中でも何人かは波長が合う仲間として話相手となったり、一緒に旅行する相手となったりすることだろう。つまりそこにも共感という作用が密接にかかわっている。そして大勢としてはこれこれこう言われているが、私は断じて別の仕方で仕事以外の時間を過ごすとか、旅行をするとか、要するに私たちは、そのようにどこか世間一般と外れていることを自分の生活上で発見すると、そのことに賛同してくれる仲間に自慢したくなるものだ。しかもその趣味があまり体裁がよくなかったり途轍もなく悪趣味でもなかったりしない限り、つまり自分でも我ながら教養と学識に裏打ちされていると自負している場合には、益々他一般の仕方を軽蔑し、その自分にとって優位に思われる仕方を採用することに固執し、その固執に共感し得る仲間が切実なものとなっていく。
 ここには幾分社会制度にささやかながら抵抗する意図というギャンブル的感性というものも介在している。アートとは少なくとも法ではない。それは法に従順である人間ですら感性で接することを望むものだ。科学と宗教との協調が美術史には介在しているが、少なくとも遠近法確立以前的には視覚芸術の秩序化はされていなかったから、現代アートと中世美術との境界はスタイルとそれを受容する一般鑑賞者の間にはあまり明確なものではない。勿論作られたモティヴェーションは全く違うと言ってもよいのに、ではそういったモティヴェーションに対する意識もツアイトガイスト(時代精神)によって誘引されているのだとしたら、一体本当にアーティストに自由など存在するのだろうか?
 しかしそれを敏感に感じ取っているのが鑑賞者たちなのである。
 つまり一枚の絵というものの私たちにとっての存在理由というものも、実は常に世間一般の価値観に対して自己の価値観というものを構築する欲求と関係があると言えそうではないだろうか?
 恐らく幼児が絵を描く時アートとかそういう意識はない。しかもそのように無心で描くことの価値に目覚めるのは、あくまで制度としてのアートとか、美術史ということを知識として知った後のことである。このこともまた極めて重要である。しかしそのことに目覚めた段階では既に私たちは巧く描こうとか質感とか、実在感とか、要するにアートの教養レヴェルの技巧とか鑑識眼に毒されているのだ。つまり失った後に初めて知る価値という奴なのである。
 つまり別に職業ではなくても、文章の巧い人というのはいるし、絵の得意な人というのもいる。しかし少なくとも多くのプロフェッショナルたちが過去から現在まで無数の仕事をしてきたその歴史において、文学とかアートというのも成立している。どんな日曜科学者でもガリレオ・ガリレイやアイザック・ニュートンのことを知っている。それと同じようにプロフェッショナルという意識にある人たちや、そのようにその時代でも、後世からも評価されている人たちは、少なくとも幼児が絵を描くその楽しさと無邪気さとは一体何なのかということに対する哲学的洞察においては皆優れていただろうと思う。つまりその問いかけそれ自体の真剣さそのものが作品を伴って美術史に残っているわけである。
 ならば制度に対する抵抗という精神的な図式もまた、制度とは一体何なのかという問いかけに他ならない。私は前章において意味とは自‐他という関係そのものが作り、そういった関係が存在するということと、その存在に対する確認こそが意味であると言った。そういう意味では制度と制度に抵抗するということは一対のものであるし、プロフェッショナルということとアマチュアリズムということも一対のものである。
 世の中のロックシーンというものを作っているのは、プロフェッショナルと彼らに対するCDの購買層であるファンたちばかりではなく、親父バンドのような要するにアマチュアたちもまた、彼らと共に作ってきているものなのだ。そういう意味では私は生活のたしにするために売った絵もあったし、空き缶アートのような売るために作品を描くということに対する抵抗的な行為も多くしてきたが、それは今年亡くなられた偉大な漫画家である赤塚不二夫氏が、ギャグということや、笑いという要素を追求していくことが、食うためである職業という意識からだけではなく、要するに生き方なのであるという哲学から、ギャグや笑いを追求していくと、次第に死というものの影がちらついてくるというような感覚はどこか理解出来る気がしたのである。
 デズモンド・モリスはロックバンドなどが現代で受けていることの理由の一つとして胎盤にいた頃から我々が母親の心臓の音を聞いていたということと関連付けているが、そのことと、絵を描くことというのはどう関係があるのだろうか?そこまで追求すると脳科学者による視覚野と聴覚野、あるいは側頭葉による言語的認識とか、要するにそこから考えていかなくてはならなくなる。しかし少なくともそちらの専門家ではない私でもある程度推測出来ることとは、何らかの原風景(私が言うのは、赤ん坊の時に最初に目に飛び込んできたものや、もっとそれ以前のまだ目が開いていない時の瞼が閉じた状態での原視覚)というものがどの画家にもあるように、幼児にもあるということである。しかも私たちの体内には古代の人類や、それ以前のエポックにおける我々人類の祖先のDNAもあるわけである。つまりかつて洞窟で壁画を描いていた人々も、何らかの形で第一絵画発明者と、その者以外の第二絵画鑑賞者(作者以外の第一鑑賞者)が存在したわけである。そしてその二者の存在が絵画を成立させたということは前章での文字や文書と同じである。規約とか、制度として定着する以前には、文字や文書同様、絵もまた起源的な自‐他の関係があった筈である。
 哲学では絵画を一種の記号であるとする考えから、言語の一つであるする考え、あるいは通常の言語とは全く性格の異なったものであるとする見方が錯綜していて、そこら辺はメルロ・ポンティーでさえそう明確に定義づけているようには思えない。
 しかしそれ以上に本章で問題となることとは、私たちは言語を既に通常、第一発声者や第二発声者たちのようには把握していないということである。つまりあらゆる社会機能維持のための言語活動そのものが、制度的な呪縛、端的には社会的地位や、社会階層や職業という社会機能維持という目的のために手段化されているということと、そのことに対する一服の清涼剤として絵画というアートを鑑賞するというスタンスが制度的な駒の一つとして定着しているような気が私にはするのである。そこでこの社会制度的な意味での言語と絵画とかアートとの関係ということに絞って残りの紙面では考えてみたい。
 とは言ってもそう深刻に考えようと言うのではない。もっと日常的なこととしてなのだ。社会制度とはあらゆる存在者を社会的地位という形で呪縛する。自己欺瞞という虚妄的な物語を受容して生きるのが、社会人の姿だ。つまりある大地主とか、政治家とか、寺院の大僧正とか、そういった人たちは土地の管理とか、その土地を巡る地元や政財界の人々との繋がりと、絆を守るために奔走し、ゆっくりと秋の空や紅葉を見て回る暇などない。しかし私のように暇な人間にとって秩父に行った時椋神社(秩父事件の徒の結集した地として高名である。)まで歩いたその日は小春日和で、快晴だったので心地いい日差しの秋の空と美しい紅葉が私を包んだ。それはつい最近神川町の城峯公園から、神流湖畔を歩いていた午後もそうだった。しかしその素晴らしい色彩に包まれた午後、私以外その時間には誰も歩いていなかった。つまり200X年の11月X日の午後はここ二三年ずっと私がその風景たちを独占していたのだ。これはあらゆる制度的な社会的地位という規制の物語を生き、それを運命と諦めている人たちよりは一層幸福であるとその時思った。と言うのも私たちは広い土地の所有者にはなれないものの、素晴らしい景色、素晴らしい自然の光景を眼にすることだけは一切自由である。これはある意味で牢獄に繋がれた過去の政治犯たちが、薄明かりの中で僅かに天井に近い辺りに設えられた明かり取りからだけ光が零れ落ちるその牢獄内で、その牢獄の周囲に広がる田園や森を想像するしかないような状況でさえ、彼らはその光景を想像することと、僅かな光が差し込むその牢獄内の光景を知覚し、その内部の視覚像を、様々な角度から全く異なったような空間として認識することの自由だけはどんな時の権力者も剥奪することさえ出来ない(私は近藤勇と土方歳三が今生の別れとなって流山の建物に行ったことがあるが、この建造物もまさに上部にだけ光を取る小さな窓が僅かに開いているそんな作りだった。ここで二人は隠れていたのだ。)ことにも繋がるが、つまりそれよりは、ずっと最初から自由である我々は、自然の光景全体をいつでも見て楽しむことが出来、その山や寺社、公園を土地所有することは出来ないにしても、それを見ることはそこの土地管理者よりもよりリラックスした気分で出来るということだけは言える。そのリラックスした気分だけが絵画を制作する気分へと持ち込むのだ。
 そういった気分はまさに生きることそのものがアートに接するようなものである。まさに見ることの自由ということは、一方で人々を惹きつける政治的権力(政治家だけの特権ではなく、官僚、経済界でもそうなのであるが)を一切諦めることからしか掴め得ない。
 社会的地位に伴う責任という語彙は、実は社会制度的な意味では管理責任という名で言い換えられる。しかし管理ということの内にはゆっくりとした、ゆったりとした気分で自然の光景に接している暇を与えてはくれない。それは自分に対しても管理する人々に対してもそうなのだ。それは管理ということにおいて、鑑賞するような気持ちでその広大な土地、雄大な自然を眺め入る暇を与えてはくれないのである。これは言語が価値の固定化に直結しているということとも関係がある。
 人間が本質的に自由なのは、社会的地位に伴う説明責任とか管理責任という名における言語による実存者に対する世間的な価値固定化(価値そのものもまた既に実在者の決意において固定化されている)によって行動を制約されることを引き受けてでも経済力とか社会的影響力において自由であるのか(そうすることが出来てもどんな権力も人の心までは支配出来ない)、そういう影響力や地位においては不自由でも知覚や想像において自由であるのかというこの二者択一を迫られているとは言えないだろうか?(そうなると赤ん坊はこの世界で他のどんなタイプの成員たちよりも自由ということも言えることになる。)
 だから少なくともアートにおいて自由であるということは、政治的権力を放棄するということであるよりは、寧ろそれを持つことが出来ないということ、あるいはそれを持つことが比較的自由であったり、能力的に可能であったりすることがその者にアートの自由を得る資格を与えないということではないのか?(これは瀬戸内寂聴氏がテレビの対談で語っていたことでもある)それは端的にアートの創造性というものが社会的責任ということの自由とは定義が違うということも意味しているのだ。
 しかし哲学者は世界を斜交いに見る。これは自由でいることとも少し違う。メルロ・ポンティーの次の言葉がよくそのことを示している。
「哲学はある種の知ではない。哲学は一切の知の源泉を私たちに忘却させまいとする警戒心なのである。」(「言語の現象学」木田元・滝浦静雄・竹内芳郎訳、みすず書房刊、261ページより)
 この謂いをアートにも適用するとこうなる。
「アートはある種の自由ではない。アートは一切の制度の源泉を私たちに忘却させまいとする冒険心なのである。」

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