Thursday, October 29, 2009

結論になり代わるもの、あるいは言葉を巡って考えられる自由と責任②

 哲学とか思想は人生の諸場面での経験によって書かれている。故に観念的なこととか論理的なことは、そういった経験的な真理を証明するために有効なのであり、論理自体の美を追求していくと、そこで待っているのは寧ろ数学であり物理なのだ。それはまた一つの価値だが、特に孔子とかソクラテス、あるいはプラトンといった偉大な著作にどこか共通性があるとしたら、それは人生において経験する様々な責任遂行の内に忍耐とか、忍従もあるし、逆に権力の横暴や人間の欲望によるエゴイズムに対する反省もあり、従ってそういう人間存在の実存に対して何らかの作品的固定化を我々が望む時、良心の側からの要請に従ってやんわりと示されるエロスが介在しているからこそ、そこにアナロジーを発見するのではないだろうか?つまり孔子もソクラテスもプラトンも生きた人間だったのである。

 しかしその親和力が親しんだものを大切にする一方、知らないものに対しても敬意を抱くという心理を介在させる時、そこに思い遣りという感情が生まれる。(第十三章参照)親しい者同士には固有のエゴが相互に発揮される。それは親子とか兄弟を見ても分かる。だからこそ「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があるのだ。思い遣りはだから責任と容易に結びつく。そして責任の最たるものとしてやはり私たちには言葉がある。言語活動、言語行為と色々な呼び方が学問上ではされてきたが、言葉を他者と共有し、意志を示す時にそれを利用することが、直接社会機能となっている。だからたとえ本当はただ朝寝坊をしてしまっただけの場合でも、「実は今日電車が少し遅れました」と遅刻の言い訳をすることが建前上だけでも要求されるのだ。だから説明責任とは言葉を換えれば人間が思考本能的に携えている辻褄合わせ的納得に根拠がある。
 自由とは責任の遂行をする中で得る報奨であると我々は受け取っていることについて最も大きく扱った哲学者はヘーゲルだろう。
 ヘーゲルの「諸権力はむしろ、ただ概念の諸契機としてだけ区別されていなければならない」(「法の哲学Ⅱ」中第三部 倫理中§ニ七ニ、290ページより)という一説は明らかに概念の心情、愛、霊感に対する責任論的優位を示している。それは国家秩序希求の心理が私たち主体にあるという主張である。つまり一方で我々は心情や愛を内的には至上の価値としながらも、外的にはそれが行動によって示されなくてはならないことは家庭生活においても、隣人、あるいは同僚との関係においても当然のこととして知っている。つまり人間は心情とか愛を行動に置換することでその内的意志を他者に示すという当然の真理をヘーゲルは言っている。つまり本論で考えられていることを適用して考えれば、ヘーゲルは言葉の仕組みとしての概念という理を、「伝えるべき内容」=徳 にすることに粉骨するあまり忘却してきたことに対して覚醒の意図を持って読者に突きつけているのだ。
「それゆえ肝腎なことは、諸権力の諸規定が即自的には統一的全体である以上、それらの諸規定がすべて現実に顕現した姿においても概念の全体をなさねばならないことである」(同書同中、290ページより)
 ここでヘーゲルは心情、情緒、人治主義からの翻弄を何よりも訴えたと言える。その意味ではプラトンのイデア論の忠実な実践者としてヘーゲルを位置づけることも可能である。先の引用は
 「ふつう三権といえば立法権、執行権、司法権のことが語られるが第一のものは普遍性に、第二のものは特殊性に照応するのに対し、司法権は概念の第三の契機ではない。というのは権力の個別性はこれらの圏外にあるからである。」
と続く。ヘーゲルは同書をそのまま踏襲すれば、「国家の終局目的をカントの考えるごとく判決という形式的正義の実現にあるのではなく、普遍と特殊との真実の一体化にあると考えた」(同書292ページより)。
 ヘーゲルはここでフランス革命に懐疑的な立場を貫き、君主制をよしとした。
 恐らくヘーゲルは理想的代表者にして、象徴でもある君主というものを、私の言葉で言い換えれば偶像として認可することによって個々の特殊的意志をより制御し得ると考えたのだろう。その意味ではヘーゲルには内的革命論者的部分は皆無であり、偉大なる保守主義者である。そして言語活動において主軸をなす概念の優位性の主張において、彼は言語が理想的権威による訓示という性格を帯びていることを誰よりも自覚的だったと思う。つまり言語と偶像化作用を一致したものとして捉えることで、社会を安定したものとして維持出来ると考えたのだとすれば、現代社会でメディアに頻繁に登場する人気タレントやコメンテーターたちのメッセージをより親和力のあるものとして受け取る時、私たちは無意識のエロスに対する要求をごく自然な形(これが意外と難しい)での許容範囲内で授受しているという私の主張からヘーゲルはただこちこちの頭の固い哲学者なのではなくよりエロス的次元で生の実存を考えていたことも示している。事実彼は多く婚姻や性生活に対する言及をしており、羞恥という概念も何度も登場する。(同書第三部 倫理中第一章家族 
より) 
 つまり女子中学生が本音の部分では言いたいとも感じる「女の幸せが欲しい」ということ(心情)を無意識の言葉の仕組み(概念)として、しかし実際にはやんわりと建前的な配慮を踏襲して先生や目上の人たちに自らの将来の願望を伝えようと選択された「伝えるべき内容」(認可されたエロス=言葉の偶像化)に存する本質は曝け出さない形での強烈な自己主張でもあるということがヘーゲルが「法の哲学」で目指したことかも知れない。
 ヘーゲルがこの晩年の大著「法の哲学」中第三章 倫理中国家で主張していることは、国家自体が一つの意志を持ち、それが成立する基盤として個=主体の内発的要求(ニーチェ的権力への意志とも無縁ではない形で)があり、君主(ヘーゲルは共和制を否定し、立憲君主制をよしとした)による特殊的意志と個々の存在者の特殊的意志とが巧く均衡を維持している内はよいが、一度各権力が私物化されると、解体(内から)と崩壊(外から)を招く危ういものであり、その意味では個が危ういものであるのと同じであることである。
 しかしこれはとどのつまり国家であれ、個の存在者であれ、それを一つの統一体として見た場合、内的関係としての思考・想像の自由と言う時の自由はしかし、外的関係としての自由、つまり責任の遂行の報奨として我々が受け取っていることの微細な分析であるとも言える。
 ヘーゲルは「法の哲学」中同箇所でマルチン・ルターの意志を汲んで国家と宗教の分離をよしとした。(「法の哲学Ⅱ」中280ページより)つまり外的関係としての理と内的関係とを明確に分離したのだ。しかしそのことはヘーゲルが国家を蔑ろにしていたのでは決してなく、人民の良心によって国家が秩序あるものとしてあることを彼は望んだのだ。つまり国家が宗教を基礎とするのあれば、彼は理性的本性に基づかねばならないと言っている(同書273ページより)が、それは一つの理想として言っているのだ。つまり彼は宗教そのものが統治者として失格だとしている(同書276ページより)が、それは信心が良心を使い何事も規定されず主観的感情が立法者となると全ての法が反故にされることをもって、信心を外的関係に適用することの危険性を主張する。要するにこれは責任の信心や良心との分化の主張である。そこにヘーゲルの近代的性格が読み取れる。これはプラトンの「国家」以来西欧形而上学が考え続けてきた問題の一つの帰結である。
 ヘーゲルは言葉の仕組みに本当は内在するのに「伝えるべき内容」の陰で黙殺されるレアな信心=羞恥の対象=差別の契機を重々知っていたのだ。
 しかしこの考え方で行くと、責任論の重圧に人間が屈してしまうこともある。そこで現代精神分析等では内的外的な二分論、つまり主客からの脱却が試みられてきたと言うことが出来よう。土居健夫氏、和田秀樹氏、小浜逸郎氏等に共通しているスタンスとは共存、依存、甘え、自愛を基礎として私たちの存在が成立することである。今度はこの観点からその出自と、思想的背景を、言葉の仕組みと「伝えるべき内容」の二分論をベースに考えてみよう。
 
 写真の出現が絵画に存在理由を問うたように、テレビの出現が映画に存在理由を問うた。インターネットはテレビに影響を与えたのだろうか?私は第一章から使用してきたマスコミとは新聞、テレビを基本として言ってきた。しかし「究極のワンフレーズ力」たるテレビも、インターネット出現以降は確固たる存在理由を剥奪されてきたとも言える。皆一日に一回テレビは見る。しかしテレビをもっとよくしようと思う人は少ない。何故ならテレビがつまらなければネットやブログを利用すればいいと思うからだ。言語の歴史からすれば歴史の風雪に耐えてきた言説の数々は当然過ぎるほどの真理・論理だけなのだろう。しかしそれは同時に風雪に耐え切れず掻き消された数多くの無数の言説も常に飛び交っていたという厳然たる事実へと私たちの意識を向かわせる。実はインターネット以降のメッセージの在り方は、風雪に耐える言説自体に対する不信ではないか?
 万人に向けて開かれていてもそれを万人が見るわけではないと誰もが知っている。個々のユーザーはメッセージを自分なりにチョイスしている。だから公とか一般性という言葉が常に自分なりの判断と遊離してきていて、それは益々開いていくだろう。つまり第一章で述べたようにそもそもマスコミの在り方自体に責任を我々が求めないことが、逆に斜に構えてマスコミの作り出す言説に対応するというスタンスを各個人に植え付け、ネットやブログの利用の仕方自体も益々オタク化していく。オタク的選択と、公とは幻想であるという二極分離を象徴するものは2ちゃんねるだが、そこで展開する文章はメール(携帯電話もパソコンも)による遣り取りも影響を与えている。そして誹謗、中傷、差別の全てにパターン化した傾向がある。それは正規のルートでは発表出来ないような性質のものが氾濫していて、その氾濫は恐らくこれからもなくならないだろう。そしてここに精神分析的な意味での依存と甘えや自愛があるように思われる。責任を回避するために無記名で臨むこともその一つだ。その考え方はポストモダン以降の論客や思想家、哲学者たちが私たちの立つ時代は固有なのだと考えていたように、哲学史そのものを無効化するような時代の在り方を象徴している。その意味でニーチェを多くの論客が手本としたことは必然的だったし、ミシェル・フーコーのバイオポリティックスはまさにその正統なる系譜と言っていいだろう。
 我々は他者に接する時身構えるし、その構え自体を作るものがある種の公に対するステレオタイプである。「こうしておけば間違いない」ことが「伝えるべき内容」の選択を真意からかけ離れたものにする。言葉の仕組みは実は言いたいことを言うことにあるのではなく、言いたいことを理解して貰うように「言うべきこと」に置き換えることにある。これが「伝えるべき内容」として完成する時には言いたいことはどうでもよくなっている。真意を伝えることは真意を「公意」に置き換えることなのだ。私たちは公私を往来する。
 自愛の心理は全ての存在者が持っている。しかしその自愛を真意として実践するとしたら、全ての隣人や他者と共存して生活することが困難になる。「今日は俺は誰とも会いたくない」時には会わなければいいのであり、そういう時に敢えて会って「今日は会いたくはない」と伝えることには意味がない。しかし社会はそれを求めるのではないかと個が脅迫観念を抱くのが一つの「構え」に他ならない。
 だから巧い人づき合いの人間なら「構え」を持続する必要がないように常に配慮するだろう。「私はオタクです」と宣言する必要のないように生活全体を持っていく。だから言葉の仕組みとは言葉が必要な時以外は言葉を作る努力を発動させないように温存しておきましょうということでもあるのだ。
 
 必要な時以外は言葉を安易に使わず保留しておこうという心がけは個人には適用出来るが、マスコミはそうはいかない。絶えず言葉を発信し続けなければならないからだ。「究極のワンフレーズ力」という言葉はかつて宰相の下で直接中央政治にかかわった竹中氏による謂いであることは説得力があるが、それは同時にかなり危険なことでもある。人気があるという意味ではヒトラーはまさにその典型だった。
 アレントは「責任と判断」で「良心に無制限の自由を認めると、組織的な共同体は滅亡してしまう」という謂いにおいてヘーゲルの視点をナチスに対する抵抗へと置換させることで利用しているが、権力に対する服従が積極的な一つの支持であると認識することで、「集団的な無実のようなものはありません。罪と無実の概念は個人に適用されなければ意味をなさないのです。」(38ページより)という考えで補強している。彼女はアイヒマン処刑についてマルチン・ブーバーが「ドイツの多くの若者の感じている罪の感情を消滅させる役割をはたす」(同ページより)と表明したことを批判し、ナチスに利用された若者たちが大人たちと等しい行動力と判断力を持ち得ず、罪を彼らが感じているとすれば、青年たちが間違い、混乱し、知的なゲームを演じているかいずれかだと考える。(尤も実際には狂ったふりをしてナチスへの協力を逃れた青年もいたかも知れないが)この考えにおいて、ブーバーはプラトン的系譜から、アレントはアリストテレス的系譜から考えている、つまりブーバーは純粋哲学的思惟を応用し、アレントは哲学外的可能性を哲学から探っているのだ。しかし哲学者が哲学外的思惟に赴く時、そこには哲学者が生きて、社会で生活するという現実と実存に纏わるモラルの問題へと突き落とす。例のアレントの遺作もそういう主旨のものだった。
 コンディヤックは「人間認識起源論」において無言劇というギリシャ文化を注目しているが、それは哲学が言葉を通して全てを理解しようとする試みの歴史である以上当然である。それは人間が言葉とは無縁の経験があったとしても、それは他者‐自己による人間性確立の中心には位置しないという信念がある。しかしそのことはオタク文化の現代社会の浸透とも無縁ではないし、ある私が最近読んだ対談を思い出せる。東浩紀氏と大塚英志氏は対談「リアルのゆくえ」で相互にオタクに対する全く異なったアプローチを試みている。
 この対談は大きく分けた二つの時期に行なわれている。最初が2001、2002年、そして次が2007、2008年である。そして最後の年のものは例の秋葉原事件後に行なわれている。2002年(第二章)で東氏は「理念や言語が社会を大きく動かす時代は終っていて、都市計画や情報システムのようなインフラの構造がダイレクトに人々を管理する時代になっている、というものなんですね」(119ページより)と言うが、ここで東氏は論壇や文壇のことを言語という一語で代表させているのであり、記述→印刷・出版→本の読書という形だけで言語行為が行なわれるのではないという主張をしている。しかし都市計画も情報管理も、批評的言語でも、文学でもないがやはり一つの厳然たる言語であり、設計図も口頭での指示といった全ては社会ゲームとして我々の言語的営み以外のものではない。情報工学言語、建築学言語、政治言語である。これより少し前の箇所で東氏は非人称的で工学的権力の作動(116ページ、氏は監視カメラを特に挙げて考えているが、これは大屋雄裕氏の「自由とは何か」(ちくま新書)での考察とも関係してくる。大屋氏はしかし老人の孤独死をネガティヴなだけではなく一つの選択肢としても捉えている。)を現代社会の危機的状況として捉え(まさに第六章36ページのレヴィナスの危惧そのものである)「ぼくの問題意識はまさに、権力者の意志から離れたところで、エンジニアの善意と市民の不安が組み合わさったところに自縄自爆の権力が生まれてしまうというところにある」と述べているし、それは説得力がある。しかし東氏は便利への極度の恐怖が支配しているようにも私には思えてしまう。(私は監視カメラに対しては肯定的ではないが)
 この対談で興味深いのは東氏がミームとしてのオタク文化を、大塚氏が個々のクオリアの感じ方としてのオタクを捉えている。(大塚氏はおたくと平仮名に拘っている。)しかし119ページの指摘と矛盾する形でここでも東氏は言語の本質論、つまり個々のクオリアの捨象、後退という性格に着目する。要するに氏は言葉にしか興味がないのである。そのことは氏の「ライトノベルの文体にしても、よく言われる批判は「行間を読むことができない」ことです。なんらかの現実を描こうとしているんだけれど、言葉がそれに追いつけないという不可能性の雰囲気。作者はなにかを伝えようとしているんだけれども、この言葉では言えなかったんだろうな、という苦闘の跡が行間ですね。だからそれがライトノベルにはないのは当然で、彼らはマンガやアニメの無意識のデータベースから描写を取ってきているのだから、文章は現実そのものなんですよ。この変化がいいのか悪いのかと言ったら、小説読みとしてはそれは悪いと言いたくなる。(中略)そこでは一度達成された豊かさが失われているのだから」(第二章 2002年‐言葉の変容中、165~166ページより)という発言からも頷ける。しかし内容的にはここで東氏が言われていることは、文学や批評言語の伝統的コードに対する盲目の信頼ではないだろうか?
 文学は言葉の仕組みから考えていくものだし、批評は文学についてのものであれば文学の言葉の仕組みについて「伝えるべき内容」を考えるが、その伝えるべき内容の仕組みについて考えなくてはならない。そもそも文学も批評も前段階の伝統的コードを破壊し、豊かさの定義を再編することに全ての目論見がある。つまり豊かさを失った豊かさを前提にして考えることが文学であり批評である筈だからだ。文学が言葉の仕組みから作り変える意図以外のものではないことと、批評は文学やマスコミの言説に対するメタ言語であるがそれでも、メタ言語の仕組みを作り変える意図以外のものではない意味では東氏はここで「豊かさ」を従来通りの「伝えるべき内容」から考えている。(第二章参照)
 私はこの対談で大塚氏共々双方の立場を理解することが出来る。ただ言葉には感覚的個別性を蹴散らすくらいのパワーがあり、それ自体の問題が考えていくべきことだ。つまり言葉で表現出来なさを言葉で決着つけようとするか、漫画や絵画、イラストやデザインで表現するかは個々の選択であり、つまり固定化した様式と似た言語のミームとしてのオタクを主に係わるか、感覚オタクとして生きるかの違いである。(桜というタイトルは既に日本人にとって偶像化されたミームである。J‐ポップで何曲同一タイトルの曲があるか数えてみればよい。)
 東氏は対談相手に理で攻めるので、どうしても相手は情で応酬せざるを得なくなる。感覚論的には氏はオタクではない。オタクはオタクを客観的には見られない。かく言う私もある部分ではかなりオタクなので同様だ。しかしオタクを考えるなら、オタクを分析する必要があるのでオタク外的に生きねばならない。そもそも分析オタクは分析を論に役立てることが出来ないが、論を論として纏めるのには分析も必要であり、分析オタク外的でなくてはならない。その点東氏は成功している。理念的オタクになることに成功している。
 現代人に何故2チャンネルが必要でブログ、ホームページ、新聞、テレビと親和的私秘性と公とされるものが共存するかと言うと、2チャンネル的私と幻想かも知れない公(「伝えるべき内容」を作らせるもの)との間の往復の中に意味や理があると私たちが殆ど本能的に感じ取っているからだ。オタクは特別な人を指すのではない。引き篭もりもニートと呼ばれる人たちもそうだ。全ての人たちが少なからずオタクで少なからず別のタイプのオタクや引き篭もりやニートを差別する。つまりオタクを否定する人たちとは別種のオタクでしかない。そして意味は私にも公にもない。その往復の中にある。自由は恐らくその意味を見出す思索と往復する行動の中でのみ見出され得る。勿論レヴィナスの言うように自由は責任を先験的に伴っている。(自由は責任が生むほんの一つの現象である)
 孔子が言う徳や仁はこの意味が理として作用する集積による一つの成果であろう。礼は理を守る一つの形式的所作、法として明文化される以前の「構え」である。映画「おくりびと」に代表される表現上での死を巡る思索もここに存する。カテゴリーは概念として時代毎に少しずつ変わる。しかし意味はそれとは少し違う。それは概念の相対性と違い、一つのメッセージに内在する公‐私の往復の中に見出されるものだからだ。
 2チャンネル的世界はその世界なりに一般化された偶像を作る。概念の偶像化は一つの時代の趨勢である。趨勢たる思潮が概念を変化させる。権力は思潮に乗る者に付帯する。しかし自由はニーチェに啓発されたドゥルーズが哲学者は真に反時代的たるという主張と同じようにそういう関係の中にはない。
 

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