Tuesday, October 20, 2009

第九章 書くことの起源と葬列の順位

 フリーターよりもニートは更に格下であると考えている人が大勢いるかどうかは定かではないが、少なくともフリーターはその日の稼ぎ自体がどうにかこうにか何とかなるという式の生活である以上、働く意志だけはあるわけだから、まあニートよりはずっとましと考えておられるなら、そうでもないとだけは言える。
 要するにニートとは働いていない上に、学業も修めていないし、就職予備軍として訓練を受けてもいないという定義だそうだから、始末に終えないようだが、思考・想像だけは自由なのだから、空想したりする時間だけはたっぷりあるというわけだ。しかしフリーターとなると、その日食えることは食えるが、日常生活自体に疑問を何ら抱いていないという場合であるなら、それはそれで向上心がないわけだから、ニートより将来の可能性はないかも知れない。尤も本当に今しているフリーターの業務が自分に向いていると思えるのなら、それもまたいいかも知れないが。
 ニートに話を限ろう。何とかネット配信にかかるだけの金は捻出し得ることを条件に考えてみよう。もしそういったことに該当する人が、読者の中にもおられて、今日一日中ネットサーフィンしていたのなら、その日に見たブログとかホームページとかネット上でのデザインとか興味を惹かれたものとか、要するに気になったものだけでもいいから書き留めるのだ。つまりネットであったことを日記にするのだ。そう語られるタイプの人はまずブログさえ拵えていないだろうから、ブログを拵える余裕のある者は何も言うことなどない。しかしブログは書いて出す以上、それ相当の何らかの反響を得ることを、いい意味でも悪い意味でも覚悟しなくてはならないが、自分で日記をつけるだけであるなら、そうでもないし、第一もっと自由気侭に何かを書き留めることが出来るというものだ。
 あるいは古代の人々にとって書くという行為はそういうことだったのかも知れないし、あるいは一握りの人だけが書くという行為をしていたのかも知れない。しかし私が問題にしたいのは、そういうことではなく、もっと書くことの起源とは一体何だったのかということなのである。

 マスコミはニュースを報道する時ある一つの重大な前提を彼らが設定して報道していることそのことは誰にも告げない。それはマスコミがそれを報道するサイドにとって、対象となり得る視聴者とはそのニュースであれ、何であれ安全地帯にいてゆっくりとした状況でそれを受信していることである。
 今現在何か差し迫った状況にある人にとってゆっくりテレビの画面を見ることも、文字を読むことも出来ない。尤もどこかに監禁されている状態ででも、私たちは監禁された部屋にあるテーブルに置かれたその日の新聞の文字を拾い読みすることくらいなら出来る。
 でもそのような状況というのはあくまで特殊であり、そういう状態では安心して文字を読むことなど出来はしない。要するに報道されるニュースというものは緊迫した状況を伝えていても、それが国民全体の関心事項であっても、そのニュース等を受信するサイドはゆるりとそれを鑑賞するように見ることが出来ることを暗黙の前提にしている。つまり火事のニュースや交通事故のニュースも、そのことによって病院に運ばれている最中にそのニュースを見ることなど出来ないことは、要するにマスコミは歴史について言及したとしても、その時あった大ニュースを報じていたとしても、それは安全地帯にいる人に対して「あなたはでもこのニュースをゆっくり見ることが出来てよかったですね、お互い災難にこれからも遭わないように気をつけましょうね。」という挨拶としてそれらの報道が機能していることを我々も重々承知しているのだ。
 これは報道全般が私たちの日頃の関心事項に沿った形での好奇心を充足するための道具として機能している証拠である。つまりそのようなものとして全ての情報は、それを摂取するサイドが好奇心を抱くようなものとして拵えられた作為であるという機能的な存在理由は、古来からそうであったのではないかと私は思う。
 文字を読むことは、文字を読ませたいという心理によって拵えられた執筆者の術策に嵌ることを意味する。しかし術策に他人を嵌り込ませるという意識は、何らかの形で他者に対する思い遣りが前提されている。つまり他者を向こうから主体的に巻き込むことの内に、既に巻き込まれる側からすれば、巻き込もうとする立場の人から親切を得るという意識にさせられていることだから、必然的にまず他者に対する思い遣りと、それを受け取るという最低限の人間関係的な儀礼が存在していなくてはならないだろう。それは声を出して何か喚くことだけとっても、そういうことをするのが人類の発話行為の起源であったとして、その行為を相手にただ唸り返して非難するような目つきではなかったことだけが、その後言語行為を人間がすることになった最低限の条件である筈だ。つまりある成員がそういう習慣のなかった時期に、偶然的にか意志的にかはともかく、取り敢えず何か感情とか、相手に対して知らせたいことを唸ることによって遂行し得たからこそ、その後私たちは言語行為によって意思疎通し合うという歴史を持つことが出来たのだ。
 私たちが歌を歌う方が言語行為をするよりも先であったことを人類学者たちは考えているようだが、書く行為も、それが文字のように正確なものではないのなら、かなり言語行為定着以前的にあった可能性も考えられよう。それは絵のような形象を描き、それを指示し合うという性格のものだったかも知れない。
 しかし相手を自分の術中に嵌めることは、ただ音声を発することでも成り立つことは既に述べたが、そこには他者存在を自分はあなたを通して容認しているのだという表明ともなっているその発声行為の理由づけそのものが他者に向けて発声することにあるのなら、そこには他者‐自己の間で感情的交流、つまり思い遣りが、心的に用意されていることを意味する。
 スティーヴ・ジョーンズは次のように「遺伝子=生∣老∣病∣死の設計図」(河田学訳、白揚社刊)において述べている。

 豊かな国では、家族に何人が生き残れるかという点での家族間の違いは小さくなっている。これは自然選択が働く余地が小さいことを意味するが、一万年前は、生存競争が実際に大きな意味をもっていた。洞窟の墓で見つかった骸骨を調べると、二十歳になるまでに生き延びることができた人間はほとんどいなかったことがわかる。もしも古代における出生率が現在部族生活を送っている人々の出生率に近かったとすれば、女性は一人当たり約八人の子供を生み、その大部分が若くして死んでいったことになる。人類の進化の歴史の一〇分の九に当たる期間は、社会は村の学校さながら幼児やティーンエイジャーがその大半を占め、それを数少ない大人の生存者たちがうるさがる、といった具合だったのだ。人が死ぬといえば、そのほとんどすべてが次の世代に遺伝子を残す期待がもてたはずの若い人の死亡であったから、これは潜在的に自然選択の原材料になっていたはずである。今日では状況は一変している。イギリスでは新生児100人中九人までが十五歳まで生き延び、幼少期に死亡(かつてはこれが自然選択の形態としては主流だった)を通して働いていた自然選択はほとんどなくなってしまったのである。(第十六章 ユートピアの進化中、354~355ページより)

 つまり私たちの祖先の大半は、このような社会状況の中で、若い死者を葬礼する必要性があった。すると、必然的に死者を弔う立場は、多くが若年者であったろう。しかし社会そのものの運営はやはり年配者による采配が主だっただろうから、当然葬礼において、葬列の順位は、年配者が死者の時には、家族以外では年功序列のようなものがあったとしても、若年者が死者の時には、若年者同士親交の深かった者が葬列で最優先されるというような思い遣りが年配者によって施されたかも知れないと私は考えている。すると年配者によるあまり長く先まで生きられない可能性の大きい、自分よりも若い人たちに対する意識そのものが思い遣りの萌芽であるのなら、若年者同士の葬列において「若い人には若い人だけにさせてあげる」という意識から、必然的に同年の親友を失った若年の葬列者に対して「一人でいたいだろうから、そっとしておいてあげる」という意識を生じさせたとしても不思議ではない。つまり社会全体の責任論的な立場上での優先順位とは別個の思い遣りという良心的発現こそが、一人でいさせてあげるという、社会秩序外的なプライヴァシーの確保を生み、引いては言語活動において、音声を顕現させるだけのものから、一人で読むという行為、つまりプライヴェートな時間を成員に賦与するという意識を育んだと見ても強ち間違いではないだろう。
 ニートや引き篭もりの起源とは、実はエクリチュールに対する受け取りという行為に既に萌芽としては顕現していたのである。労働は肉体労働を基準として私たちはともすれば考え勝ちであるが、実際文字にかかわる仕事というものは本来的にはフリーター的性格よりはずっとニート、引き篭もり的性格のものである。しかし世の中は認められた才能の人々、作家や評論家、あるいはコメンテーターといった文化人に対してはそのようなレッテルを貼ることをせず、賞賛し、片や引き篭もりタイプの人々や、ニートに対しては冷たい視線を送る。そしてフリーターに対してはまだ身体を動かすだけまともであると捉えるのだ。しかし人間は肉体労働に関してさえ、実際には他者から伝達された要望に受け答える形で身体を動かし、それはそれで既に言語行為の一環なのだ。そのどちらが尊いというような価値判断が成立するとしたら、それは死者に対して私が他人の中では一番親しかったのだと葬列を巡って争うのに似ている。それは個人的な経験に根差す偏見でしかない。肉体労働も尊ければ、頭脳労働も尊いとしかいいようがない。小中学校や、高校、大学、果ては会社や学者の世界等でも顕在化しているいじめとか派閥争いの発端となっているのは、全てこの個人的経験に根差すある種の自己本位の偏見以外のものではない。そこにあるのは、端的に論争とか対話が完全に不在な思考停止状態以外のものではない。つまり情緒主体の行為意志決定論なのである。
 しかし文字を読むという行為に内在する一人で行うことは、私たちが成年に達するまで行ってきた教育機関における朗読とか、英文読解とかで行う集団による同一テクスト、同一言説への追体験とは異なった、つまり目的論的には明らかに「一人でいる」=「一人でいさせられる」=「一人にしてあげる」という「ほっといてあげる」型の社会成員に与えられた権利と相互に気遣う思い遣りに端を発しているとは言えないだろうか?いや学校でもそれを集団で行うのは、あくまでいつかは一人で全て執り行うことが可能になるような教育者からの配慮によるものである。
 しかし本来一人でいることを与えられた時間と空間での文字を読むという行為の定着は勿論最初は公示のような表示性からスタートしたかも知れないが、それとて各自勝手にその文字を目に留めるという性格のものである。そしてこの公権力による公示に内在する通達性ということが、エクリチュールにおいても「一人にさせてあげる」と「公認された文字を通達する」という二つの性格を同時に帯びさせることになっていたことが、この言語偶像化論の骨子である。
 つまり文字を一人で読解することの内には、必然的に「一人にさせてあげる」も「完全に一人で生活しているわけではない」、つまり文字を読む側に文字を受け渡す文字を記す側の立場、つまり「一人でいる今のあなたは本当は一人ではない」という発令としてその通達を読む側が意識し、そこに「一人でいることは、皆で生活することの一部である」という意識を生じさせる。つまりそれは国家を論じたヘーゲルの「法の哲学」の視点でもあるところの主体的、内発的な要求によって、一人で生活することをたとえ選んだとしても、それは、皆で社会秩序を構成することに供せられるのだという認識を通してエクリチュールに接する側の者がそれを発する者(それは概して権力者である)に同化しようとすることとなるのだ。ここに葬列の順位から発生した思い遣りは実は用意周到に人間の無意識が書くことが権威的な行為であり、読むことがその権威を容認する行為であること、すなわち葬列の順位がたとえ年長者よりも先であったとしても、それはその権利に与かった若年者にとっては一時的な年長者からの配慮でしかないという意味合いで必然的に権力機構の一部に自ら率先して組み込まれることを望み臨むことだからである。
 要するにただ酒ほど高価なものはないという喩え通りなのである。この見解は幾分スラヴォイ・ジジェク的である。しかし人間はある意味では制度を受容する仕方、そして欺瞞的な正義を仮面のようにつけて生きていくという決意の中からしか真の自由を発想することは出来ない。だから当然思い遣りも、権力を滞りなく遂行したい権力者の側からの配慮以外の何物でもないことを、非権力者の側もよく心得ていて、その同意の中で非権力者には非権力者なりの安寧を求めて、同意しやすいタイプの権力者を選ぶことの自由を少なくとも現代では保持しているように見える。勿論それは比較的最近の歴史においてである。
 しかし昔はそもそも権力とはいつか知らぬ内に誰かの手によってどんどん持ちまわされていたことかも知れない。しかし少なくとも言語行為が常習化していった頃の人類は、思い遣りという名の言語的な制度を恐らく私的な時間とか、私的な空間を権力者が非権力者に与えることによって何らかの形で自分の権力に逆らうことを未然に防止するような措置として人類が利用していたのではないかとだけは想像し得る気が私にはするのだ。そして一旦言語のそのような仕組み的思い遣りが組み込まれれば、言葉の仕組みに対してそれがいいとか悪いとかもう問うことをしなくなるのが人間だったのだろう。勿論書くことそのものも一般の市民がするようになるのに時間がかかったというのが歴史の実情であろう。しかし少なくとも書くという行為は、一人でして、一人で読まれることを前提としていることの方が多かっただろう。公示とはその前提の上で成立していたことだ。
 ほんの一握りの人によって書かれ、読まれていたにしても、それが一人で書かれ、一人で読まれることの内に既に思い遣りという制度が言語記述行為においても組み込まれていたことだけを本章では強調しておきたい。

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