Friday, October 16, 2009

第七章 自由・選択・責任

 私は日本人であり、市民として世界のことや人類のことを考えることが出来る。例えば今私は私が住むこの日本のある都市の生活を捨て、外国に行って生活し、そこで死ぬという選択肢もあるし、事実そういう風に私の人生が運命づけられていないとは現時点でも言い切れない。しかし恐らくそうなったとしても、私が今現在50歳の時点で日本以外の土地に足を運んだことがなかったという事実は消えてなくなるわけではないし、まして私が日本人として生まれたという事実も変わることはない。
 つまり誰しも中学生くらいになると世界平和とか国際的視野というものの存在意義に目覚めるが、しかしそのように自分を世界市民として位置づける見方自体も、既に日本人として生まれて、日本語を話すという現実を受け容れているという前提の下でであり、その事実から離れて世界平和とか国際的視野という観念だけで意志することは不可能である。
 サルトルが若い私に何やら青春のどうしようもないやるせなさの前でニヒリスティックだからこそ大人っぽい雰囲気で語りかけてきてくれたことは既に述べたが、サルトルは絶対的自由主義者であったから、当然のことながら、性別、国籍、職業、宗教といった人間に対する帰属性には全く無関心であった。だから行動あるのみなのであり、しかもその行動は自分で自分に対して責任を取ればよいのであり、他者というものは想定されていない。だから彼が不在とを言う時、明らかにそれは私にとって他者の不在以外のものではない。
 しかもサルトルは神を信じていなかった。このことは彼にとっては重要であったが、今彼のテクストを読み返してみると、そのことはテクスト的な性格という意味では極めて有神論者のテーゼに近いものが奇妙にもあることが分かる。
 例えばエックハルトは教説において次のように言う。 
  
 第二に、あなたは清き心でなくてはならない。あらゆる被造物を無にしてはじめて心は清らかなものとなるからである。第三にあなたは無から自由でなくてはならない。地獄で燃えているものは何か、と人は問うが、師たちはそろって、我慢であると答える。しかしわたしは真理に照らし、地獄で燃えているのは無であると言いたい。たとえで説明しよう。人が燃えている炭火をとってわたしの手のひらにのせたとする。もしわたしがそこで、炭火がわたしの手を焼く、とでも言おうとするならば、わたしは炭に対して不正をはたらいていることになるだろう。わたしの手を焼くものが何であるか適切に言うとしたならば、炭は、わたしの手がもってい無いあるものをそのうちにもっているからである。見よ。この「無」がわたしの手を焼くのである。もしわたしの手が、炭の本質や働きをすべてもっているとすれば、わたしの手は完全に火の本性をそなえていることになり、そうすれば、だれかが、燃える一切の火を取ってわたしの手のひらに注ぐとしたところで、わたしには何の苦痛も与えることはないであろう。同じように、神および神を見るすべての人たちは、真の浄福のうちにあって、神より離れ去った人たちがもってい無いなにものかをもつのであるから、この「無」が地獄に堕ちた魂を、我欲や何かの火といったものよりもはるかに責めさいなむのであるとわたしはいいたいのである。わたしの話すことは真実である。あなたにこの「無」がつきまとう限り、それだけはあなたは不完全なものとなる。完全であろうと思うならば、あなたがたは「無」から自由でなければならない。(「エックハルト教説集」田島照久訳、岩波文庫37~38ページより)
 
 この私にはない要素というのがサルトルの不在とか無に直結する。不在とは他者から見た他者のことではなく、あくまで自分から見た他者のことなのである。そして私ではないとは、私にはないものを持っている、私にはない性質(性格)を持っていることである。そしてそれは私という視点を見失わない限り可能である視野とその視野を射程に入れた想念のことである。そしてエックハルトはそれに惑わされず本質を見よと言っている。その点においてサルトルの他者とは無縁の自分の行動と結びつく。その意味でデカルトもサルトルもエックハルトの教説に示されたテーゼに対して遵守していることになる。
 しかしこれがレヴィナスやハンナ・アレントになると事情は少し変わってくる。
 レヴィナスはフッサールに対して多くの言及をしている。その代表的なものが「フッサール現象学の直観理論」、そして「実存の発見フッサールとハイデッガーとともに」あるいは、若い頃から晩年に至るまでの論文を集めた「歴史と不測」であり、それらを翻訳されたテクストによって我々は彼にとって他者であったフッサールやハイデッガーの思想を知ることが出来る。しかし彼のテクストでは幾分他者に対するオマージュ的意味合いの論文と、自分自身の考えを述べたものとの間にはニュアンス的な違いが横たわっている。1972年に発行された彼のテクスト「他者のユマニスム」中 同一性なしに では次のような文を彼は冒頭に掲げている。

 もし私が私について責任をとるのでないとしたら、いった誰が私についての責任をとるのだろうか。しかし、もし私が私についてしか責任をとらないのだとしたら-果たして私はそれでもなお私であるだろうか。『バビロンのタルムード』アポト書六a

 この一節はかなりレヴィナスの思想を理解する上で役立っている。要するに 責任=他者に対する意識 をまずここで楔として打ち込んでいるわけだ。
 レヴィナスはその「他者のユマニスム」(小林康夫訳、 書肆風の薔薇 刊)において責任について多く触れている。その箇所を抜粋引用して彼が考えた責任というものを把握しておこう。

 A(前略)<自我>であることは、ちょうど創造の建築のすべてが、私の肩にのっかっているかのように、責任から逃れることができないことを意味している。(80ページより)

 B 言いえないものの言表不可能性は、言われたことのうちには現われることができないという、その無・能力によって記述される以前に、なによりも他の人々に対する責任の起源以前性によって、あらゆる自由な参加・契約に先立つ責任によって記述されるのである。(中略)感受性を通して、主体はみずからの責任を負うのだが、しかしまたみずからの逃亡・脱落の痕跡を留めることなしに、その責任を逸れることは不可能である。主体は志向性である前に責任である。(122~123ページより)

 C プラトンはわれわれに、太陽をそれ自体の場処において見つめようとする眼が必要とする長期間について語っていた。しかし太陽はけっして眼差しを逃れはしない。聖書の不可視なるものは、存在の彼方における<善>のイデアである。責任を負わされていること、それには始まりがない。しかしそれはなんらかの永続性、みずからを永遠であると主張するような(そして、おそらく、《悪無限》を与える外挿法であるような)永続性という意見ではなく、引き受けることができるような現在への換位不可能性という意味なのである。それは、ただ純粋に否定的であるのではないような概念である。それは自由の限界を超えた責任、すなわち他の人々に対する責任である。その責任は、みずからに対して現在を、そして表象〔再現前〕を拒む過去の痕跡、記憶の届かない過去の痕跡なのである。解約不可能性であり、忌避不能であり、委譲不能であり、かつある選択へと遡ることもできない責任へのこの義務は、それが<善>によるものであるからこそ、結局ひとつの選択にぶつかることになるような力ではないのである。(128~129ページより)

 D 自由に先立つ純粋な受動性は責任である。しかし、私の自由にはなにも負っていない責任、それは他の人々に対する私の責任である。私が傍観者として留まることもできたであろうところにおいて、私は責任があるのであり、さらに語るものであるのである。もはやなにも演劇ではない。もはや劇はゲームではない。すべては厳粛なのである。(129~130ページより)

 E 主体と<善>との無始源的な結び付き‐それは、なんらかの資格で選択における主体に対して現前しているような原理の仮定として結ばれることができない結び付きであり、そうではなくて、主体が意志であったことがないうちに結ばれた無始源的な結び付きなのであるが‐、それは責任という《聖なる本能》や《利他的ないし寛容な本性》、また《自然な善意》などによる構成なのではない。そうではなくて、それは、ある外部へと連結するのである。そして盟約のこの外部性は、まさしく、エロスにも熱狂(それは占有するものと占有されるものとの差異が消えてしまうような占有である)にも無関係であった人々に対する責任が要求する努力のうちに保持されている。だが、それにはまた、盟約をたやすく破ることができるという誘惑があるのでなければならない。すなわち、無責任性というエロスの魅力であり、それは《みずからの兄弟の番人ではない》者の自由によって制限さてしまった責任を通して、ゲームの絶対的な自由という<悪>を予感しているのである。そして、そこから、<善>への従属の真っ只中において、無責任性へと誘いかけ、みずからの責任に対して責任がある主体におけるエゴイズムの蓋然性、すなわち服従する意志のなかにおける<自我>の誕生そのものが由来するのである。(131~132ページより)

 F 《悪》の乗り越え難い両義性こそがその本質なのだ。誘惑するものであり、容易である悪には、おそらくは、端緒‐以前の歴史‐以前の隷属を断ち切ること、手前にあるものを無化すること、けっして主体が、契約したわけではないものを拒絶することはできない。罪は罪として、つまりみずからの意に反して、責任の拒否に対する責任としてみずからを示す。(133ページより)

 G 誰も‐様々な宗教を約束する者たちでさえも‐、死からその槍先を取り除いたと言い張るほど偽善者ではない。しかしわれわれば、死に同意しないわけにはいかないような責任を持つことができるのである。<他人>は私の意にかかわらず、私に係わるのである。(135ページより)

 H 人間の人間性、主観性、それは他者に対する責任であり、極限的な傷つきやすさである。自己への回帰は、絶えざる迂路となる。意識と選択の以前に‐被造物が、現在と表象のうちに集摂し、みずからを本質とする前に‐人間は人間に近づくのである。責任によって、人間は本質をずたずたに引き裂くのである。それは、責任を引き受けたり、責任から逃れたりするような主体、自由な同一性として構成された主体ではない。そうではなくて、それは主体の、無制限の‐というのも約束によって測られないからだが‐責任、責任の引き受けも拒否もともに、そこに送り返されるような責任のうちでの他人への非‐無差異〔非‐無関心〕の主観性である。それは他者たちに対する責任であり、それが引き裂く主観性の《感動した蔵腑》のなかで、その他者たちの方へと再帰の運動はそらされるのである。(160~161ページより)

 I ある種の固体として、あるいは存在論の領域に位置づけられた‐存在者として理解された人間、あらゆる実体と同様に存在のうちに執拗に持続する人間は、人間の現実の目標として確立するようないかなる特権も持ってはいない。だが、また実体の自存力あるいは内的な同一性よりもっと古い責任から出発して、人間を考えねばならない。すなわち、つねに外へと呼び出しつつ、まさにこうした内面性をかき乱す責任から出発してである。自己の意図に反してすべての人の位置に身を置き、その非‐交換可能性そのものを通してすべての他者の人質であり、すべての他者は、まさしく他なるものであり、自我は同じ種には属してはいないのである。なぜならば、私は私に対する彼らの責任についてすら、最終的には、そしてはじめから、私は責任があるからである。そしてこの補足的な責任を通してこそ、主観性は∧自我∨Moi ではなく、自我〔私〕moiであるのである。(162~163ページより)

 J みずから閉じこもることができず‐置き換えに至るまで‐すべての他者に対して責任があるような主観性の理念、その結果として、私とは別の人を守ることとして了解されるような人間の守りという理念が、今日、人間主義の危機と呼ばれることの中心にある。この危機は《文芸》Direは<言われたこと>Ditへと連れ戻され、みずからの条件と連携するようになり、そのコンテクストとともに構造をなして、言うこととしてその若さを失ってしまっているような固定化された責任を拒絶しているのである。この若さとは、コンテクストの断絶であり、裁断する言葉、ニーチェ的な言葉、予言的な言葉、存在のなかに位格(ステータス)を持たず、しかし恣意性も持たず、というのは誠実さから出たものであり、言い換えれば、他人に魂の状態として感じられたものではなく、自己の自己自身において意味するものであり、灰に覆われた澳火のように(だが突然に、生ける松明として燃え上がるのだが)燃え尽くさせる主体の主観性であるこの無制限の責任‐他者たちによって被られた残酷さと不幸とに身を焼く傷であるこの責任によってこそ、その残酷さ、その不幸そのものと同じくらいにわれわれの時代は特徴づけられるのである。(164~165ページより)
 
 Aはニュートンの有名な言葉を使った比喩だと考えられるが、自我論の基本に責任を考えている。Bは前半が責任が「伝えるべき内容」を決めることを、後半が人間の所与(生来)の責任は<善>以前的だという主張だ。Cは最初は責任とは始まりがない=終わりがない、つまり所与の能力であること、後半はヘーゲル批判的な考えの下で自由は責任の中のほんの一部の領域のものだということ、責任の他性認識性、そして現在と表象に対する無意識的記憶(痕跡)の優位性の主張であり、責任の<善>(善悪の)選択以前性、Dは前半はやはり自由が責任という広大な領野の一部であること、(後半は次の段落以降で説明)Eは生を楽しむことの出来ない差別された人々への配慮を伴ったモラル論的責任の無差別的要求が前半で語られ、後半は「それにはまた」から「予感している」までは付与された自由選択を通して私利を克服する主張となっており(最後の文章はJの後に説明)、Fは最初の文が神への契約外のことの実存者の無縁、次の文は罪の責任への帰属を言い、Gは死への恐怖の克服を誰もなしていていないこと、死を超えた魂の永続への信仰をも含む責任に対する主張と他性自体はそれとは無縁の実存であることを述べ、Hは生物学的自然(本質)への人間の抵抗と、責任は意識的(定立)なことであり、それは責任に対して拒否も受容も無関心ではいられない主観性を生むことの他性に関する運命を言っている。Iは前半がハイデッガー的歴史認識、そして責任=自‐他の内面性との無縁、後半が自‐他の断絶があるにもかかわらず他者の私に対する態度をも含めた責任の範囲の拡張を言っている。問題はJである。どうもレヴィナスは他者存在が現代ではシステム論的に責任に対する無制限の要求を個に齎す偶像化について言っているように私には思えるのだ。これは理のある人に備わる徳が理を離れて一人歩きする他者に対する偶像意識が高じることで、責任の範囲を責任を持てない他者にも無限に要求するエゴイズムであり、それはEの最後の「そこから、<善>への従属の真っ只中において、無責任性へと誘いかけ、みずからの責任に対して責任がある主体におけるエゴイズムの蓋然性、すなわち服従する意志のなかにおける∧自我∨の誕生そのものが由来する」とかかわる。つまりEの<善>への従属の真っ只中とはまさに「伝えるべき内容」の欺瞞のことであり、それさえ果たしておれば後は何を考えてもいいという内的責任の放棄に対する揶揄が後に続き、主体が特定の他者を尊崇する(エゴイスティックに)ことで偶像化する中で、ニーチェ的権力への意志となって顕現する中で服従の意図が自我を生むということを現代的状況で示していると取れば、これはJと共にメディア社会に対する批判と解釈することが可能である。Eで言う「ゲームの絶対的な自由という<悪>を予感している」とは次の段落で述べるDのゲームと重なり、人生という実が社会ゲーム(ニ段落目で説明)という虚に同化してしまうこと(偶像化された存在と身近の人との境界が曖昧化してしまう)の現代的状況を述べているものと思われる。(後日掲載の結論を後日参照されたし)
 彼がDの「もはや何も演劇ではない。もはや劇はゲームではない。すべては厳粛なのである」と述べる時、彼にとって私たちの生活自体が劇であり、劇化することなしには生活し得ないことを告白しながら、同時にその劇は既に演劇ではない、つまりあらゆる虚構を虚構として認知することを前提としたゲームではないことを主張している。これは私たちが生活する現実を言語ゲームと呼んだウィトゲンシュタインのテーゼと真っ向から対立する。
 私は元来言語ゲームとウィトゲンシュタインが呼んだものとは、その言語習得をして以来私たちが考えていくという習慣を自然と身に着けていくことからすれば、そしてその言語とは他者、通常は家族を基本とする家庭環境において親密度とか、自分にとって身近なものから、そうではないものへと意識が拡張されていくに従って、道具とか非道具とかいったハイデッガー的なヴィジョンの獲得と共に認識と把握と理解の度合いを深めていく一つのプロセスによって解明し得ると思ってきたし、基本的には今もそうだ。そしてそのプロセスのことを私は社会ゲームと呼び、それは実際の社会でも、家族内でも、ペットのような動物と接している時にも実践されていると考えている。
 しかしこのゲームという言葉による指定は、レヴィナスが考えたDで主張されたゲーム性の排除という考えとは矛盾しないと思う。何故ならレヴィナスは劇化を、ゲーム的なものより以上の実存であると事実的に認識していたからである。
 確かにウィトゲンシュタインの中期に考えていた言語ゲームは社会全体から見た個という考え方ではないし、そうかと言って他者を常に必要とすることは当然であるとしても、レヴィナスのように他者に対する責任において考えられてはいない。しかし彼の考えた後期の私的言語にはその責任は濃厚に関係してくる。そして私的言語のことを言う時にも彼は言語ゲームという概念をそのまま使っている。つまりウィトゲンシュタインが私的言語ゲームによって考えていたのだが、レヴィナスが「私が傍観者として留まることもできたであろうところにおいて、私は責任があるのであり、さらに語るものであるのである」と述べる時、決してウィトゲンシュタインが考えていたゲームと矛盾しないものだと私は直観したのだ。
 しかし私たち日本人にとって極めて理解し辛いことの一つは、明らかに欧米キリスト教世界の信条の一つである罪という観念である。この罪という観念は個による神との契約が理解出来ないことには何らその意味は掴みようがない。しかしここでキリスト教教義から全てを考えていくことはあまりにも私には荷が重過ぎるので、その重過ぎることを背負った彼らの姿において彼ら哲学者のテクストに見られる苦悩から考えていこうと思う。

 フッサールはデカルト主義を克服しようと試みたように思われるが、終ぞそれはなし得なかったというのが私の考えである。しかしだからと言ってそのことがフッサールの価値を下げることにはならない。つまり彼の考えた事実学と法則学との区別とは裏腹に彼自身生活世界と呼び重視した事実学的視点を通した法則学的認識も、実際のところそれを非生活世界と並列して考える、幾分デコトミックな考え方により、それを考える自らの視点は一点透視的な神の視点以外のものではなかったという意味では、私には彼の作為が極めてスピノザやヘーゲルの試みに近いものを感じるのだ。
 しかしサルトルは無神論的に全ての意志と行動を自らによる自らに対する責任によってのみ遂行することを説く時、一見極めてマニフェスト的ではあるものの、そもそも彼の考えるような理想の絶対的自由主義者は哲学的反省意識を一切しない、従って彼のテクストなどは読みもしないようなタイプの人々である。つまりサルトルによるテクストの視線の先にあるものは終ぞ彼のテクストなどは読まずに終わる人なのであり、逆に彼のテクストを読む人というのはサルトルによるテクストの視線の先には決して到達し得ない人たちなのであり、そのことに対する明示行為が彼のマニフェスト的なテクストの在り方になっているという自己矛盾が彼のテクスト記述、あるいは彼のテクスト発表行為の特徴だ。
 そもそも記述とはそれが書かれたよりは未来に読まれることを前提にしている。つまりテクストを読むことはいかに最新のものであっても、過去からの声に耳を澄ますこと以外のことではない。そういう意味ではもしサルトルがそのようなことを踏まえてテクストを書いていたとしたら、それは極めてニヒリスティックな行為であったと言ってよい。何故なら彼のテクストを読まない人のことを彼のテクストで示された生き方を実践するモデルとして示したテクストを、それを読んだからと言って終ぞそのテクストの示すようなマニフェスト通りになど実践し得ないようなタイプの哲学志向者に向けて書くことだからだ。
 この点確かにフッサールはサルトル的性格のテクストの記述者ではないので、幾分普遍的にも感じられる。しかしと言うか、あるいはと言うか、だからこそレヴィナスはフッサールに対しては最大限の敬意を払いつつも、自らの哲学的実践においてはサルトルと真逆の態度を貫いていく必要があったのである。
 レヴィナスにとって生きることは受動的なことであり、隷従とか隷属という語彙が彼のテクストには度々登場するが、それはまさに他者存在がオブセッションのように迫り来るという彼を取り巻く事実(彼が哲学テクストを書くことになる現実、つまりモティヴェーションとしての書く理由)が、彼自身による言説をよりデカルト的デーモンへと連れ戻す。
 サルトルにとってのデカルトは彼の思惟を可能にするところの哲学の作法であり伝統なのであり、レヴィナスにとってデカルトとは伝統ではなく、双子自己対象のような存在だったのである。

 画家は視覚像を画布や紙に自己固有の事実学たる世界像に準じたフォルムや色を写像することを通じて世界の法則のようなものをそこに定着させようとする。その際視覚像を構成する手がかりに意外と重要なことは筆や刷毛を画布や紙に接触する時に生じる触覚なのではないか?私も絵を描くのだが、少なくとも私はそうである。
 視覚的に顕現されるイメージは画家にとって結果として示されればよいのであって、見た通りにただ色やフォルムを画家は画布や紙に写し取っているのではない。もし写実的にそう描いている時でさえそこには何らかの操作が加わっている。しかしそれらが円滑に行くかどうかは、実は画布や紙の感触を肌で感じることが可能な筆や刷毛とかペン先の感触なのである。これはどのようなタイプの絵を描く作業でも同じである。円滑に作業が捗るか梃子摺るかとは意外とアトリエとかスタジオの整理次第であったり、使う道具を巧く配置しておいたりといった職場環境の快適さである。
 勿論快適さというものには個人差もある。しかし少なくとも円滑に作業が捗ることは、大抵そういったことに対する配慮が行き届いているか否かによって決まる。そのために油彩画家は大抵、画面の最下層に地塗りをするものである。これは絵を描く環境の最も絵の内容に近い場所の整理である。そのことは哲学者や思想家にも当て嵌まる。
 
 サルトルの哲学は、彼が同時に小説家であり劇作家であったことから、極めて優れた散文という要素もある。だからそのあまりに巧みな文章からしばしば私は映像が浮かぶ。それは「嘔吐」でもそうだった(あの樹木の生々しさに対してロカンタンが驚愕する下りなどがそうである。確か図書館でのエピソードだった)、「存在と無」でのカフェでボーイの姿を恐らくシモーヌが来るのを待っている間に観察して書いていたのだろいうというサルトルの執筆の姿さえ思い浮かぶ。
 しかし何故かあまりサルトルの文章を読んでいてそこに絵画的なものは感じないのである。勿論それは私にとってである。寧ろ絵画的な想念、と言うか、要するに一枚の画布上や紙上の絵画作品が彷彿とされるタイプの哲学者たちは、フッサールである。レヴィナスも少々おどろおどろしいが、絵画的なイメージを持っている。
 それに対し、メルロ・ポンティ、ミシェル・アンリ、ジャック・デリダは優れた絵画分析家でもあったが、文章そのものから絵画は連想されない(少なくとも私にとっては)。ただ彼らが絵画について語る時そこでは勿論当該の絵画が思い浮かぶが、それは書かれた内容としてであって、文体から来るものではない。
 脱線してみた。しかしこういった脱線というのが意外に重要なヒントが潜んでいることもまた確かなのである。
 ところでフッサールは「イデーン」で異星人について述べているし、「幾何学の起源」においてはラジオのことについても触れているが、では果たして彼ら哲学者たち、例えばフッサール以外にもハイデッガー、レヴィナス、サルトルといった面々が現代に生きていて、活動していたとしたなら、現代社会のマスコミやマスメディアについてどのような考えを思い巡らしていたであろうかことを中心にして、それぞれの考えを現代哲学者たちと絡めて考えてみたい。

 その前に哲学史的な捉え直しという意味で個々の哲学者の業績を私にとって問題になるような仕方で定義しておこう。

 ソクラテスは「私は何も知らないことだけは知っている」と言った。
 プラトンは「物事の裏にはよい本当のことがあり、それはどこかに必ずあるし、それが世界だが、私はその世界の中にいる」と考えた。
 ホッブスは「私たちはそもそも悪いことをする性質だからこそ、よさというものを求めるのだ」と考えた。
 デカルトは「世界があってもなくても、私がそれについて考えていると言うことだけは確かだ」と考えた。
 ヒュームは「知ること、見えること、考えることが集まったものこそが私だ」と考えた。
 カントは「世界とは私(の感覚的な能力)が作るのだ」と考えた。
 ヘーゲルは「私の中に命令する私と命令される私とがいる」と考えた。(対自・主人と奴隷・正と否)
 ニーチェは「よいこととは、よいとされるものとして私たちによって作られるし、人に同情してはいけない」と考えた。
 フロイトは「私が考えていることは、普段は気がつかないような違うことを考えているもう一人の私が『私が考えている』と思わせている」と考えた。
 ユングは「私たちは常にもう一人の私が<私たち>を求めている」と考えた。(集合的無意識)
 ソシュールは「私たちは言葉に勝手にそれぞれ音をつけている」と考えた。(恣意性)
 フッサールは「私の心が向かう先と、私の心をそこに向かわせることが私であることだ」と考えた。(ノエマとノエシス)
 ベルグソンは「私はずっと続いている時間と共にある」と考えた。(純粋持続)
 ラッセルは「五分前に世界が誕生したと言っても、それが間違いであるなどと証明することは出来ない」と考えた。(五分前世界誕生説)
 ウィトゲンシュタインは「私一人だけで成り立つ世界など結局はあり得ない」と考えた。(言語ゲーム・私的言語)
 ハイデッガーは「私は自分がいつかは死ぬことを知っていて、世界があるとは私が生きてそこにかかわっていることだ」と考えた。(現存在)
 ウィトゲンシュタインもハイデッガーも共に「私が死ねば、そこで世界とは終わる」と考えた。
 レヴィナスは「私は他人という存在に囚われている」と考えた。(隷従<属>・人質)
 サルトルは「私たちは誰もが自分だけの責任において何をしてもいいが、誰も助けてくれはしないし、神もそうだし、第一神などいはしない」と考えた。(自由の捕囚)
 メルロ・ポンティは「世界とは私の身体と、その身体にとっての世界だ」と考えた。(知覚と身体)
 ライルは「私たちの行動は内面の心をも表す」と考えた。(行動主義)
 オースティンは「言葉とはそれを語ることによって意志を固める宣言にもなる」と考え
た。(行為遂行的発言<パフォマティヴ>)
 クリプキは「世界とはこうだったかも知れないという形で常に存在する」と考えた。(可能世界意味論)
 ドゥルーズは「私はいつでも同じではないし、そもそも私などというものは幻想かも知れない」と考えた。(同一性への懐疑)
 デリダは「言葉はそれを考えることと、発することの間に常にずれがある」と考えた。(差延作用・原エクリチュール)
 メニンガー、ロジャース、コフート、カーンバーグたちは「私たちはお互い相手に対して常によりかかって生活している」と考えた。(依存と共感)

 ここで取り上げたヘーゲルとフロイトはある意味ではデカルトとカントの考えなしには登場し得なかったと言える。何故なら世界があるか否かとはかかわりなく私というものを考えることと、世界とはそもそも先験的にあるのではなく私によって作られるのだという意識がなければ、私の中で命令する私も命令される私もあり得なく、私の中のもう一人の私というものを発見することも出来なかったからである。
 そして世界とはそもそもそう捉える時点で、私一人によっては成立し得ないことへとこれらの考えは必然的に結びつく。そしてそれは例えばソシュール、ユング、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス、ライル、オースティン、クリプキ、ドゥルーズ、デリダ、メニンガー、ロジャース、コフート、カーンバーグといった人たち全ての考えの基礎となっていると見ることも出来る。と言うのも世界とは言語を通して私というものが他者と語ることを前提として考え、私たちという意識を作る基礎となっているからである。要するに彼らはそれぞれ異なった考えを持ってはいるが、私と世界とが言語と他者存在において結びつけられていて、そもそも私や世界が存在することが言語というものを私たちが持っているからであるという考えでは一致している。これはフッサールもベルグソンもハイデッガーも全く同じように考えていた。私たちは死に対する理解を、時間のずっと続いているという感じに対する理解と、個々の出来事に対する記憶をその時間の中に位置づけるという能力の故に獲得していると考えられるからである。それだからこそ、私たちは何かを知るとか知らないとかを、あるいは世界とはどういうものであるかを、ソクラテスやプラトンのような人たちが考えたように古来から考えてくることが出来たのである。そしてそれはメルロ・ポンティが身体というものを、言葉と切り離して考えたのではなく、まさにその身体を伴う言葉として考えたことに一致しているのであり、言語が身体によって発せられるというところから私たちは世界の成り立ちがどうであるかとか何かを知るとか知らないとかとはどういうことであるかというような考えが成立しているし、それがまさに哲学を私たちに育ませてきた能力なのである。
 そのことに関してホッブスやニーチェが考えた人間の善悪とか、ヒュームの考えた能力の集合体としての私とも繋がり、その点において全ての哲学や精神分析、あるいは言語学といったものは一致していると言うことが出来る。この考えは恐らく現代の脳科学においても全く該当するだろう。
 つまり私たちが特定の思想や哲学を心に抱くことは、身体存在として生きることを、他の動物たちとは違う形で他個体を他者として、そしてその他者と私を繋ぐものとして相互に理解させることが出来る言語思考能力による恩寵であると考えることが出来、その能力を介在させている、あるいは私という意識をその能力によって顕在させているという事実が、全ての善悪、道徳、倫理、論理の素であると考えることが出来るのである。
 すると、現代のマスコミやマスメディアの存在は、そういった私たちの言語と身体と他者と自己といった関係によって必然的に要請されて成立してきたものであると考えることが出来るのではないだろうか?
 例えば脳科学者の池谷裕二氏は、「ゆらぐ脳」という著書の中で、「私の科学者としての信念とは<斉一性>に対する信頼だ」と述べておられるが、氏がもう一つの語彙として使用している再現性とこの斉一性とは、何回も同じことが起きることであり、反復することであるが、それは物理法則に適用した時に科学者が考える一つの思考様式である。しかし氏は同一テクストの中で「因果律とは人間の脳の妄想だ」と語っておられるが、そのことは極めてこのことを考える上で興味深い。と言うのも斉一性とか再現性というものを考える上で最も基本的な思考様式とは因果律に他ならないからである。氏は科学者としての信念を科学の思考様式そのものの限界に対する認識と共に考えておられるのである。
 しかも更に興味深いのは、進化を科学者が考える時、それは二度と元の形や機能には戻らないことである筈なのに、その元に戻らなさを支えているものが斉一性であること、つまり同一パターンによる反復であること自体が、極めて私には世界の実存の在り方が自己矛盾的なものであるように思われるのだ。
 哲学者たちはしばしば科学とか数学とは一体どういうものであるかと論じてきた。しかしその結論を常にその都度出してはいるものの、その結論が永久的なものであるとは誰も考えてはこなかっただろう。それどころか一つの哲学テクストにおける結論とは、それを踏み台にして更に全く異なった考えが出現することを期待するものとしてのみ自分の論文を彼らは扱ってきたのである。
 それなら彼らがもし現代に生活していたなら(前記の中には未だ顕在の人もいるが)、マスメディア自体がそれを享受する側の私たちの欲望を反映するものであることにおいては一致した考えを持っていただろうが、マスコミ自体はどうあるべきかということでは個々で全く異なった考えを抱いていたことだろう。
 しかしあるいは次のような考えにおいては一致していたのではないかと私は密かに思っているのである。それはマスコミがある種の偶像化作用としての私たちの欲望を象徴しているのではないかということに対する意見の一致である。
 私たちは通常家族の間では気のおけない関係を維持している。そしてそれは他者に頼ることの基本として君臨している。縋るべき他者とは唯一家族であろう。しかし家族に対して接するようには私たちは他人と通常呼ばれる他者一般に対しては接することが出来ない。しかし同時に他者一般とは、家族内での限られた人員、成員間で成立する欲望の実現においては、更に無限である。つまり自己や自己にとっての家族内では終ぞ実現し得ないことに対して、他者一般とは無限の可能性を秘めている。つまり自分や家族には出来ないことでも他人に対してなら期待することさえ出来る。
 例えば若い頃一時期役者やスターになることを目指して頑張っていた人というのは大勢いるだろうが、その中で最初の志を実現させてきた人というのはごく限られよう。しかし一度は目指したことに対してその夢を完璧に実現させている他者とはそれだけで自らの欲望を代理的に実現させてくれている偶像である。つまり自分が出来ないことを、自分に成り代わって実現してくれる存在というものをどこかで私たちは常に求めているのだ。
 だから他者の成功とは、例えば出世競争において同僚と張り合うという意味では、自らが勝者でありたいと常に私たちは望むが、自分にとってとおに諦めたことに関しては、それに関して成功している他者を常に羨望の目で追いつつも、常にどこかでは応援したいという気持ちも抱いているものである。
 その際に私たちは彼ら成功者に自分の生活に関して縋ったり、頼ったりすることは出来ないが、自らの欲望を代理で実現してくれる存在として憧れるし、尊敬もするだろう。
 甘えられないとか縋れないとかは対他的な羞恥がそうさせているわけだが、そもそも私たちが言語を習得し得たのも、その起源的な意志から考えれば、側頭葉に存在する言語中枢の能力を発現したという表現よりは、赤ん坊の頃私たちが大人の会話を羨望の目で見つめ、その原羨望を頼りに、必死に模倣をしたことであろう。だからこそ一旦言語習得した後で得た知力において、私たちはただ他者に縋ることをしないで責任という意識を持つのだ。側頭葉の言語中枢は羨望と好奇心によって狩り出されている(作っているかも知れないが)。つまり羨望の心的作用とは、自己内における欠如に対する覚知、それは殆ど直観的であり、無意識的なことなのだろうが、それを主軸とした、憧れの対象である他者において実現している能力を身に着けたいという欲望以外のものではない。そしてそれが実現したら、今度はそれが実現していない他者に対して思い遣りを持つことが出来るのだ。
 しかし自分にとって欲望というものは実現し得るものと、そうではないものとがあり、そのことに対して誰しも直観的、無意識的に認識している。そこで自分にとって認識している、実現不可能な欲望に対する実現が、偶像化され仮託された存在に対する関心となって顕在化する。すると、その偶像化された存在にとっての敵対者に対して自分も一緒になって敵対するような心理にもなる。そして自らにとっての偶像がその敵対者を倒す姿を見ると、私たちはまるで自分のことのように溜飲を下げる。
 私たちがオリンピックなどで日本の選手を応援していることもそういうことなのだ。その自分にとっては出来ない能力の実行者に対して感情移入して観戦し、あるいは俳優の演技や歌手の歌唱を鑑賞するのである。それは仕事に関しても全く同じように捉えられる。
 例えば科学者は、過去の科学者たちの業績を共有しつつ、検証し、更に新たな業績をそこにつけ加えるという野心を抱くが、とどのつまりは、科学史そのものをそうすることによって偶像化しているのだ。あるいは哲学者たちもまた過去の哲学者たちの思想を再考し、批判することを通して自ら哲学史に参画し、哲学史を偶像化している。それは画家でも作曲家でも、文学者でも同じことであり、過去の偉大な業績に対して模倣、改良、批判することを通して自らもその歴史に参画し、美術史、音楽史、文学史といったものたちに対する偶像化を図っているのだ。それは赤ん坊が大人を偶像化しているのと寸分も変わりない心理によるものである。
 その心理を逆手にとっているのがコマーシャルの戦略かも知れない。つまり時々私たちは酷く趣味の悪いコマーシャルを目にすることがあるが、不思議とその悪趣味は印象に残る。つまりその商品を売る側にしてみれば、印象に残ってその会社の名前が記憶して貰えればよいのだが、そのために敢えて悪趣味な印象に残るものを採用していることは、実はマスメディア自体の存在を私たちが偶像化した存在として容認しているという事実に対してスポンサーは熟知していて、その私たちの心理を利用しているのである。つまり私たちはマスメディアに流通しているイメージに対しては条件反射的に、一応目に留めておく必要があると身構えるからである。私たちがマスコミに対して、そう身構えることは、実はその流通されるイメージがいかに俗悪なものであっても、無視し得ないのはその俗悪さ自体が私たちの欲望によって生み出されていることをよく私たちが心得ているからだ。
 これはある意味では学問や芸術が私たちの脳内の欲望によって生み出されてきたことと並列な真実としてマスコミを受け留めている証拠でもある。確かにマスコミの在り方自体に対して自由であり、選択することの権利もこちら側にあると言っても、マスコミ全体を規定しているその張本人は、政治や経済をそうしている張本人と同一のこの私たち一人一人なのである。本当に実害があるものであると理解しているのなら、私たちはとっくにマスコミもマスディアも破壊しているだろう。しかし私たちは一定の批判をつけ加えながらも、完全にそれらを無視したり、完全に生活から切り離したりすることなど出来はしないのである。何故そうであるのかと考えてみると、それはマスコミというものが基本的に私たちの言語活動を基本としているという事実に行き着く。私はマスコミを私たちが生活から切り離せないことの最大の理由を、それらが人間の言語活動に依存していること以外のものから見出せないのだ。
 例えば劇場公開用映画に全く人間が登場しないようなものがあったとしたら、それは地球の生命進化のようなテーマのもの以外には考えられないだろうし、ただ雲の動きだけを映した映像を延々と二時間も映画館に閉じ込められた状況で鑑賞出来ると問うたら、恐らく無理だろうし、大概の観客は眠りこけてしまうだろう。勿論雲の自然科学的メカニズムをテーマとした記録映画なら話は別であるが。本当の雲を眺めるのと映画で見るのは違う。
 つまり私たちはある程度の長時間鑑賞に耐えられるものとなると、私たち人間の意思疎通的なことととかかわりのあるものと限られてくるのである。つまりそれだけ私たちの生活において言語活動、つまり自己と他者のかかわりことは切実且つ興味の尽きないものである。
 ハイデッガーは「存在と時間」において頽落という語彙を使用しているが、これは世人という語彙と対になって考えられている。つまり私たちはつい日常において真理とか本質とは無縁の取るに足らないことに関心を差し向け、人生とか生というものに向き合わないことを彼は言いたかったのだ。しかし彼は何もネガティヴな意味合いからだけこの語彙を使用したわけではないのだろうと私は思う。それは丁度、カミュがシジフォスの岩運びのような不条理とか、サルトルが自己欺瞞を、ただ日常から追い出すべき否定的なこととして取り上げたのではなく、もっと運命的なかかわりとして取り上げたのだ。
 あるいはウィトゲンシュタインの「哲学探究」においてメインテーマである私的言語というものは何かと考えてみると、彼は最終的にそれは成立し得ないことを結論づけるわけだが、他の一切の人には理解出来ないような自分の身体を巡る状態や気分に対して勝手に命名して、それを自分の日記に記す場合それを彼は私的言語と呼んだのであるが、それは他者に見せる目的で記したものではない。従ってそれをしようと思って何かを書く場合、気構え自体も変わってくるだろう。さてそのようにして書いた文章は既に私的言語ではない。その時それを書いた者はある意味では世人となったと言えるのではないか?何故ならその自分で書いた文章を読む時私は他人である私が書いた文章と認識して読むからである。私たちは他人にも説明出来ないことを自分には説明出来ないし、文章を書くという行為自体に既に自分を他人化するという作用が含まれている。書くことは私的言語の放棄以外のことではない。つまりその私的言語の放棄という決意こそが世人として生きることであり、しかもその世人以前の私的言語創造者としての自分をすっかり忘れこけてしまうという生活上での致し方ない現実こそをハイデッガーは頽落と呼んだのではないだろうか?
 そうすると、マスコミで流通する言説の全ては私たちに対して積極的に私的言語を放棄させて、世人としての生活を全うさせるために利用された用意周到なる管理社会を実現したいという権力者の欲求と、その権力者的立場の考えを偶像化して同意する私たちもが権力者たちと共に作り上げる幻想であることになる。
 つまり私たちは頽落した状態に慣れることを積極的に管理社会的現実を肯定しつつ、同意しながら、マスコミの流通させる言説を非私的言語として受け容れる形で社会に同化しようとしているのである。 
 そしてそのことは、世人としての責任を常に私たちはどこかで求めらてはいるものの、実存者、つまり現存在としての責任も時には考える必要があるというメッセージとしてハイデッガーの「存在と時間」を読むことも可能だし、そもそもウィトゲンシュタインが言語ゲームと呼んだものとは、この世人としての責任に追いまくられている私たちの現実のことを言ったのであり、それを言語ゲームと命名することを通して問題化することの内にハイデッガー的な頽落にのみ依存することのない現存在の在り方を考えるという意図さえウィトゲンシュタインの内側にはあったかも知れないという想像へ我々を誘う。
 私たちはマスコミに対して決して自由ではいられないが、常にどうあって欲しいかという選択をしたいと願っているのだ。

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