Wednesday, October 14, 2009

第六章 理性と責任という名の言葉の力

 人間は個体としてのエゴ(極自然な欲動としての生存的な欲求)を子孫繁栄のための本能として発動するという社会生物学的認識を採用するなら、明らかにその本能的エゴを隠蔽するために理性という概念を発明したと言える。そしてしばしば責任とは種内の、あるいはある血縁共同体内の利害(それらの違いは何を利他主義の対象とするかによる個々の戦略的選択の差に依存する)を保守するために外部への攻撃を正当化しつつ、それを履行することで全うされる。
 そして自由とはこのように責任を果たすことで公的な集合体内部にも支えられる利益の供与という形で保守される行動(居住、食物摂取)というレヴェルから言えば、自由の定義として私が第三章で示した前者、つまり自由に行動し得るような状況設定をすることが出来て、だからこそ守れる内心の自由になり、誤った政策が多数決で施行されることに甘んじるという中間状態を経て、全く理不尽な外部からの圧力によって、行動の自由を奪われ拉致監禁されていることを対極とするなら、定義の後者、つまりどんなに行動が自由を奪われても、最低限心の思考・想像の自由だけはどうにも外部の圧力にも変形することが出来ないことになる。
 よって責任はある集団の特殊意志的なエゴによるものも含まれるが、自由は本来、私たちが集合体内部において自由であることが外部から見たらただ単なる特殊意志たり得、一般意志となっていないと判断される段になったら理性論的には自由とは言えなくなる。しかし経験論的には私たちは心の中の自由を確かに知っている。
 だからこそメール文で生な形で何らかの自己内の欲求を曝け出すような場合、その感情的な発露という意味ではその時の動揺、怒り、欲情とかは表現し得るだろう。しかしそれを意味のレヴェルへと転換し得た時、私たちは抗議とか苦情を言う時に却って感情を抑制した方が言われる立場になってみるとこちら側の困窮した状況やら、それによって被った精神物理的苦痛がよく伝わることがあるような意味で、メールによる私的ないじめにはない形での文意というものの仕組みに対する理解を通した「伝えるべき内容」の強さというものがある。
 責任とは端的に自由の定義とは必ずしも一致しない(内心の自由というものが責任には含まれないからでもあるが)し、同時に外部を他者とするなら、外部は必ずしも圧力をかける存在なだけではなく寧ろ、私たち(常に私たちは何らかの集合体の成員である)に対話を求め自分の内部から発せられる応答を待ち望む存在故、それでも尚圧力という語彙に固執するなら、その場合内部とは個人となり、外部は自然環境(居住環境を成立させる)及び社会環境となり、外部の圧力は社会状況とか時代状況になるだろう。
 今までの論から綜合すると、本能の隠蔽こそが、自由の獲得であり、その隠蔽を私たちは理性と呼んできたのである。
 つまりいじめのメール文が陰険であるのは、そういうメール文にしか慣れていないという若い世代にとってそれが生な文章であるからであり、彼らが生ではなくこの理性という俎板に載せた文章、つまり語彙や文章の仕組みを理解した後に立ち現われる「伝えるべき内容」のレヴェルに意識が向かっているのなら、そのような陰険さに立ち向かうことが出来る筈である。つまりその文を書いた時の感情がどうであるかは振り返ってみた時には取るに足らないものであり(全ての文章はそれが書かれた時点より未来に読まれることを目的としている)、文そのものの持つ意味に着目したのなら、私たちは必ずや視覚的にメール文が与えるある種の感情的な様相の伝達を超えたもっと本質的な(本質的であるからには冷酷であることも含めて)意味理解に意識が進む筈なのである。
 しかし同時に私たちは理性と呼んだ取り敢えずの行為を、いつの間にか全てが理性を起源とするかのような錯覚を持ち始めもするのである。つまり理性とは本能を隠蔽するために、あるいはその止むに止まれぬ必要性から拵えられた概念である。だからその理性と呼ぶ力を必要とした本能的な能力というもの、つまり仁以前に備わった勇気、つまりいいことであれ、悪いことであれ大胆な行動を発動させる心の状態に対する着目を見失ってしまいがちなのである。
 ある能力の行使とは、それが社会的にいいとされる目的に利用される限りにおいて賞賛され得るものとなる。例えば闘争本能は、法逸脱者(犯罪者)にとっては傷害、殺人などになるが、そういった闘争本能を別の行為の手段とするなら、格闘家、武闘家、軍人、機動隊員、シークレットサーヴィスといった職種にも活かされ得る。それは性欲であれば性犯罪に走らずに円満な家庭に繋がる(このことはヘーゲルが「法の哲学」において詳細に記述している)。つまりある本能をどのように発動させるかの制御能力こそが理性という名で呼ばれる行為に対する意味論的な把握なのであり、それは本能を本能依存者としてではなく、潜在的能力保持者として位置づけることでもある。
 例えば本当は異性に取り入りたいという欲求そのものは本能的なものであるが、そのような生な態度を決して相手には読み取られないように紳士的に振舞う能力の誇示こそが社会生物学的見解としては、より優秀な子孫を設けることの可能な性的パートナーという判定を相手に下させることになるのと同じである。
 それは言葉の力にも繋がるのである。私は前章において「言葉の本質はそれを語る人のモラルとは関係ない。つまり私たちはある言葉がある人によって語られることに信頼を寄せる一方、別のある人によって語られると、それが言葉だけである(内心ではそう思ってなどいない)と受け取ってしまう。しかしその言葉の持つ真理自体に説得力があることに変わりはない。つまり説得力ある言葉に相応しい人物を私たちはつい求めてしまう。/つまり真理を言い得た言葉に相応しいモラルをその言葉を吐くべき人物に求めてしまうのである。しかし本来言葉の真理はその言葉を吐く人の人格や性格とは何ら関係ない筈だ。/仁徳とはその言葉の真理そのものを生きるような生き方に宿るものと私たちが考えるのは、一重にそのような仁徳をもって語るに相応しい行動の人というのが時として存在するからである。私たちはそういう人物を真理の名において偶像化したがる。いや偶像化したいという気持ちが仁徳というものの存在の在り方を私たちに考えさせるのだ。/しかしどのようなタイプの人でも仁徳に相応しい態度や行動も採れば、そうではないこともあるし、あらゆる仁徳に相応しいと思える人でも凡そ仁徳とは呼べないような考えもするし、行動することすらあることだ。/それだからこそある言葉にある真理があるとすれば、その言葉を用いる全ての人にとってそれが真理である筈である。この言葉の人に対する選ばなさ自体が言葉に固有の力を与えている。」と述べた。この中に登場する「一重にそのような仁徳をもって語るに相応しい行動の人」というのが実なかなり曲者であると私は思っているのである。
 これは簡単に言えば買被られるタイプの人というのがいることである。概して日本では言葉少なめで行動することに潔い人というのは尊敬を集めるし、偶像化されやすい。しかし孔子も言っているように、徳のある人は言葉も持っていなくてはならないが、時として徳を備えているように見えてその徳に言葉による裏づけのないタイプの、つまり見せかけだけは人格者のような見掛け倒しの人というのがいるのだ。
 それに比べれば、ある理論や言葉による思索をする人というのは、外見からはひ弱に見える部分もあるし、行動的には少々野暮ったい場合もあるかも知れない。しかしそういう風に論理的な裏づけのある人の方がいざとなったら、頼りになることもあるのだ。つまり私たちは意外と外見による風格のようなものに惑わされやすいのである。だから寧ろ風格とか品格といったものは、その者が責任を果たすことを積み重ねる内に次第に身についてくればよいのであり、最初に論理や言葉以前的にまず風格や品格を求めるというのは実はかなり危険なことなのだ。論理的な意味づけや理論、言葉による思索のない行動が勇敢に見えるのは、まさに孔子も否定しているような見掛け倒しである場合が多いからだ。
 私は前章で「私は孔子が(中略)文が「伝えるべき内容」はやはり言葉が持つ仕組みに依存していると無意識の内に考えていたと思う。それは要するに徳のない人でもいい言葉を発することが出来ることの方に寧ろ比重を置いた考えである。しかし孔子は恐らく意識的には徳のある人は必ずいい言葉を持つことの方に比重を置いていたかも知れない。」と言ったことの理由がここにある。何故なら私たちはある言葉を吐くのに相応しい外見というものをつい重視しがちであるからだ。だから逆に行動がある言葉による慎重な検証を経た確固とした信念に支えられているのなら、外見的な日常的行動のレヴェルである言葉を吐くのに相応しい人に委任するよりは、そのような言葉を自らの考えから伝える能力の人に委任する方がより堅実なのだ。
 私が何故このように言葉の持つ力を力説するかと言うと、それは私が述べた「真理を言い得た言葉に相応しいモラルをその言葉を吐くべき人物に求めてしまう」ことからもよく理解出来ると思うが、要するに風格とか品格の内に何故かモラルというものを外見で判断しがちだからなのだ。しかし理性というものが必要に迫られて本能を隠蔽するために招聘されたことはプラトンの「国家」を読んでもよく理解出来る。その理解のためにもモラルは外見的な手続きではなくもっと本質的な責任論に根拠を持つものであることに対する理解が私たちには必要なのだ。
 つまり誰も見ていない場合でも何か善なことをなすことこそ、モラルの起源であると考えられるからである。しかしこの責任は脳科学的には特定の部位にその働きが今はまだ認められていないそうである。しかしもし今後もそういう状態が長く続き、全く責任を司る部位が発見されないままでいるとしたら、その時はあるいは責任という意識が極めて言語的な脳活動の一つであり、言語のない状態では脳は責任を意識することが出来ないという可能性もあるように思われる。
 ならばある行動を採るのに全て言葉による思索とか思考を経過させずにただ闇雲に直観だけに頼ってするのであるなら、こんな危険なことはない。あるいはそういうタイプの成員に何か大きな責任を委任することも同様に危険である。勿論私たちの生活においては直観で判断した方がいい場合もあるだろう。しかしそれは寧ろ言葉によって思索を重ねた末どうしても結論が出ない場合に限るのであり、それ以外は殆どが言語的認識によって解決がつくものである筈だ。思考や想像において言語的認識は必ず登場する。勿論思考・想像の中でも非言語的なものも多く含まれるだろう。しかし思考・想像に全く言語的認識が登場しないことは殆ど考えられない。 
 しかし言葉による思索の裏づけのある人がここに二人いたとして、その二人のいずれに大きな責任を委任するかということになると、最終的にはいざとなった時、つまり言葉による思索の結果、両方とも正しいと結論されるような方針が出されたような場合、どちらを選ぶかということにおいて潔く決断し得る、つまり非言語的な直観力が優れた人材の方に我々は大きな責任を委任すべきではないだろうか?しかし重要なこととは、そのように最終的に残った二人のどちらの直観力が優れているかということに対する判断そのものが言葉による思索によってだけでは得られないことであり、結局この判断の根幹には直観が控えていることになるという矛盾があるのだ。しかしよい直観というものは言語的認識によって論理性を引き出しあらゆる思索を積み重ねた末にひょいと立ち現われるものでもある気が私はするのである。そしてそう私が思うこともまた言葉による思索そのものから引き出されているわけでもない。しかしそれほどではない場合の決断は多く言葉による思索によってどうにか下せるものが多いと私は思う。そしてそういった日々の言葉から論理を引き出すようなタイプの思索の積み重ねが直観力を養うのではないか。
 
 付記 昨日のニュースでチンパンジーも人間のようにかなりの割合(60%近く、また75パーセントは相手からの要請に応じて)血縁ではない相手に対して設けられた穴から向こう側の檻にいる相手に道具を渡し、向こうにいる相手が取りたいものを取らせられるようにする、つまり自分には一切得にならないことをし、それが血縁関係、特に親子とかとなると更に九割近くの個体がそれを実践する(しかし相手からの要請なしには親子ではしない)ことが京大霊長類研究所などの研究チームによって証明されたことを報じられていた。実はこのことが人間もまた進化の途上においては、非言語的思考が根幹にあり、然る後言語がそれを肉付けしていったということが理解されるかも知れない。しかしある意味では寧ろそのことが却って言語が思考や感情を円滑に相手に伝達し得るのだ、という真理も炙り出すように思われる。

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