Friday, October 23, 2009

第十一章 差別といじめの関係

 しかし誰しも差別はいけないことだとそう思っている。つまり言説的な理解、つまりモラル的にそう思っている。しかし差別はいけないが、多少のいじめなら誰しも大目に見てくれるのではないかと、そう思うからいじめは根絶されないのだ。
 私はいじめと差別を似たようなものとして前章では処理した。しかしそれはこの章の序章としての配慮からである。前章のおさらいをしておくと、本質を追求することを隠さない勇気のある者は、そう出来ない勇気のない者を知らず知らずの内に差別しているとも言える。ソクラテスはそうでなかったなら、処刑されなかっただろう。勿論それを敏感に察知する勇気のない者は勇気のある者に対して先制攻撃をしかけ周囲皆の合意で差別する。
 つまり差別される者、迫害される者とは、差別する者、迫害する者全般に対してまず自分から距離を作っている。それは差別される側に固有の差別する者に対する無意識的な差別なのである。たとえそれが宣言であっても、暗黙の態度であってもそうなのだ。
 例えば日本ではいじめというものは厄介だが、差別はいけないと知りながら、大勢の人たちは気楽に差別しているし、差別されることにも慣れている。
 例えばエリートとは大衆から差別されていて彼らはそれを受け容れている。裏方の職業の人たちと表方の職業の人たちは差別し合っている。営業畑にいる人と開発部にいる人は差別し合っている。ビジネスマンたちは全ての教育者(学者を含む)を自分たちより楽だと思っている。伝統芸能の人たちはテレビで知名度を上げることは不可欠な戦略である。本当は舞台を中心にして生計を立てたいと願ってもそれはなかなか大変であるし、テレビだけで著名なタレントたちのことを心底では自分たちとは違うと差別意識を持っていたとしても、そういう心理は顔に出てしまうので、表面だけ繕っている人はテレビでは重宝されないままでいるからテレビで活躍出来る人だけが生活に困窮しないでいられる。学者は芸術家とか芸人を尊敬しつつ差別しているし、サラリーマンを違う世界の住人だと意識する。また彼らは頭脳の官僚なので頭脳の政治家である評論家を見下す傾向があるし、逆に評論家は自分たちの方がより社会とかかわっていると考えている。舞台役者は舞台を踏まないテレビタレントを差別しているだろう。売れっ子のテレビタレントもまた彼らを差別する者を差別する。芸人は学者やエリートを差別する。既婚者は独身者を自分たちより気楽だと思う。経営者は株主を差別するし、株主も経営者を差別する。勤勉な人は、ルーズな人とか怠惰な人を差別するし、その逆もありだ。
 差別という言葉がよくないのなら、無縁と思ったり不干渉を貫き、敬遠していると言い換えてもいい。私が差別と言う時そこには軽い気持ちの自分の属する世界に対する誇りと、それ以外の人たちを別種に扱う(違う世界の人たちだと思う)心理のことであり、企業が営利追求のために差別化するという時の差別も広く言えばその一つである。
 勿論個人的レヴェルでは決してそうではない人もいるし、いつもそうであるわけではないものの、気楽にそういう気持ちになることは今言ったようなタイプのこととして誰にでもある。つまりこういうことだ。差別とはある意味では一つの意識のカテゴリーに属さない者を異分子として見る見方(彼らは自分とは違うという意識)のことである。だから差別とは端的に相手に対する尊敬においても成立すると私は考える。
 例えばもっと分かりやすく言えば、オタクとはオタク外的な人を自分たちの仲間とは見なさない。SNSとは、端的に仲間以外の人には知られないタイプのコミュニケーションである。これらは皆そういう風に閉鎖的に親睦を図ることを通してそれ以外の人たち、つまり関係者以外をシャットアウトしているのだ。そして固有の帰属意識を持つことによって部外者に対する無視を決め込んでいる。
 まさに「そんなの関係ない」なのである。つまり何らかの集団に属することとか、何らかの意識を誰かと共有することは既にそういった集団に属さない人とか、意識を共有し得ない人に対する無視の姿勢の表明であり、それ自体が一つの差別以外の心理ではない。しかしそうしながら、積極的に「自分は彼らを差別している」と言ってはいけないものなのである。これもまたジジェク的認識である。つまり差別は端的にしてはいけないと知りながら意外と安易に誰でもしているし、またされることに慣れているという部分すらある。しかしそれはそうしてもいいとは決して言ってはいけないことなのだ。
 しかしいじめはそうではない。いじめは軽いことであるなら許されるとさえ多くの人は思っている。いじめられたらいじめ返せとか、差別することはよくないが、せめて軽いいじめくらいならしても非難されないだろうとさえ多くの人は思っている。だからこそいじめは根絶されないどころか益々増加するのである。つまりいじめとはいじめられた側がいじめられたと意識することも多分に手伝っていて、いじめた側にはそういう意識ではないと考えている場合の方が多い。差別は違う。差別は明らかにそうしている側もそうしていると知っている。それがいけないと知っていながら、差別されること自体に差別される側が積極的に慣れ親しんでいる場合すらある。
 いじめという言葉が適切ではないのなら、嫌がらせとか、意地悪と言ってもいい。誰でも他人に厭な態度の一つや二つはとったことがある筈だ。しかしその時、相手はいじめとか嫌がらせとか、意地悪と受け取ることもあるだろう。それが積み重なれば必然的にいじめの成立と言ってよい。差別の場合予防線を張ることを未然にすること(敢えて誰かとつきあわないとか近づかないという選択肢が)が可能なのに対して、いじめは突発的に起きるからそうはいかない。
 例えば本当はそれをすることがよくないと知りながら、相手から黙認して欲しいのに、厳しく言及されるとむかっと来ることというのは誰しも経験あるだろう。例えば学校でクラスの誰かを茶化した生徒がいたとして、その者を「そんなことを言うものではない」と衆目の前で糾弾する生徒がいたとしたら、誰かを茶化した生徒はその正義の味方に対して強い恨みを持つだろう。つまり本当はいけないことと知りながら、それがいけないとはっきり言わないで済ますことの方が無難なケースも社会には多くあり、それを見過ごさないタイプの成員に対して概して我々は「潔癖」とか「融通が利かない」とか判断する傾向もある。いやその一言を意地悪と受け取るのだ。
 しかし茶化す相手を探すことも相手に対して明らかに差別していることだし、正義の味方の方も、どんな些細な悪も見逃さないという意味で、小さな悪の実践者に対して無視出来ないという差別をしている。だからこそ逆にそうではないつまり見逃してもいいものとしていじめとは存在する。しかし同時に今の例で言えば正義の味方が出現しない限りいじめはなくならない、とそう簡単にも言えない。つまり誰かにそのように言及された者は、却って茶化した生徒に対してそれまで以上に辛く当たるかも知れない。つまりたまたまそこに居合わせた正義の味方がいじめを黙認してくれなかったがために、「お前のために俺は恥をかいた」と最初はほんの出来心だったその茶化した相手に対する感情が本物になって、正義の味方のいない時には積極的にその者をいじめるようになる。これは殆ど必然的な成り行きである。そしてこれは差別ではない。差別はそうしていると公言してはいけないものなのに意識の上では容認されている。しかしいじめは黙認される可能性が極めて大きいし、こういう場合いじめる側も知っているからである。しかもいじめの場合親しい者同士ではない相手(部外者)に対してそうしたとしても、その親しい者同士では罪にさえならない。差別してはいけないという大義名分を果たしているのなら、別にそれくらい許されることを親しい者同士というものは考えの上で成立させる。
 つまり差別とは端的に誰でも軽い気持ちですることもあるが、理念的に正しくないと知っていることであるのに対し、いじめはよくないことであると知りながら理念的なレヴェルの問題にまでする必要がないと決め込んでいることなのだ。だからある店に見慣れない人や人種が入店することを拒むことは差別に繋がるからしないとしても、厭な顔をするくらいなら許されるという意識を持っていることがよい例であろう。そしてそれが積もり積もれば本当のいじめになるし、本当のいじめが恒常化すれば、それはれっきとした差別となる。そしてそうなったなら、いくら何でもいけないことだと殆ど全ての人は知っている。だからこそ小さなレヴェルでの嫌がらせとかいじめはなくならないのである。それくらい許してくれなければ息が詰まっちまうというわけである。

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