Friday, October 9, 2009

第三章 自由の定義

 私は自由を、思考・想像の自由という内的関係においてのみ今まで本論で使用してきた。しかし行為のレヴェルから考えれば、思考・想像は自由の名に値しない。そのことをより私たちに理解させようとした哲学者はサルトルだった。
 しかし私は大学生時代愛読の哲学者はモーリス・メルロ・ポンティだった。ポンティの文体、彼の哲学的主張には生きることの意味、そして本質に私はある固有の暖かさを感じ取ったのだ。しかし暖かさとはややもすると野暮ったさにも通じる。つまり青春にはヒューマニズムよりもニヒリズムが似合っているという部分があるので、ニヒリズムの方により大人的な感性を嗅ぎ取っていた(今では必ずしもそうとは言えないが)私は、たちまちサルトルのテクストに誘い込まれてしまっていた。例えば「アルトナの幽閉者」とか「聖ジュネ」とかを熱読した記憶がある。
 確かにポンティのテクストは生の本質的な喜びと感謝の念が溢れているし、ヒューマニズムという名は彼に相応しい。しかし私は必ずしも完全なるエリートコースを歩んでいく青年では全くなかったし、そうかと言って特別全てにドロップアウトしていた青年でもなかった。勿論内面においてはかなり反抗心というものはあったが。
 そういった青春に特有のやるせなさとか倦怠感において、私にとって強烈にニヒリスティックではあるが、同時に最低限の責任さえ全うしておれば、何を選択しても構わないという大人の選択のようなものとして、あるいは他者全般に対しても不干渉主義を貫くようなドライな感性に、実存という響きに固有の強さを感じ取っていた。そこには規制のなさに加えてある種の冷淡さもあるが、生きるとは所詮そういうことであるという諦念のような大人性があるように私には思えた。このことは次の次の章で詳しく考えることにしたい。
 サルトルは写真で見ると、カミュやジャン・コクトーたちほど伊達男ではない。それどころかどこか奇怪でさえある風貌は、しかしピカソほど豪放磊落のようにも見えないし、威厳とか自信に溢れる表情でもない。つまりいい男でもなければ、太っ腹でもなさそうである。また世渡りに長けたタイプにもとても見えない。つまりそういった屈折した部分が彼を固有の境遇を齎し、ある種社会や人間間に通用する通り一遍の信頼という奴に痛烈なる復讐心があるようにさえ思えたし、それは今も彼に対する変わりない印象である(この印象に関しては次章で詳述する)。
 サルトルは斜視であったし、その明快な強者の論理と弱者に対する極度のニヒリズム的な突っ放し方と、社会全体に対するニヒリスティックな眼差しの読者への強要とも取られるような文体といった彼の選択は、イケメン男たちや世渡り上手たちに対する潜在的で激烈な嫉妬とか嫌悪が生み出したのではないかとさえ思えてくる。
 話を戻そう。
 しかし自由というものを私たちはいかに定義していったらよいのだろうか?
 つまり何事かを実現していく力としての自由か外部からの圧力によって自らの行動の自由が抑制された形ででも持てる心の内面の自由という、この全く相反するような二つの関係を検証し直す必要があるだろう。
 まず外部に対して行動の自由を権利として享受するような最大限の自分を取り巻く状況を自分にとって良好なものとして確保しながら、行動に関して何ら他者から干渉されることなく生活することは、一見外部から圧力を受けて要するに自分にとって何を行動するに対しても自由が利かない状況で内心においては信じるべきものや理想を打ち砕かれないことと比較したとしても、それらはただ単に生活上での利便性とか要するに欲求の実現というレヴェルでの程度の差にしか過ぎないとも言える。
 つまりある行動がそれをするのに相応しいものであるような状況をより容易に設定し得ること、例えばそれに相応しい社会的地位が獲得されていることとか経済力や時間的余裕があることと、そういった自らの社会環境に関してあらゆる意味で全く行動を容易にすることを阻むくらいに自らの行動をスムーズにすることが可能な社会環境が全く設定されていないとしても、それら二つは共に同一志向性を持った心における自由の在り方であると言えないだろうか?勿論前者の方がよりいいことくらいは誰でも理解し得よう。しかし後者であっても、何らかの行動を実現したいという欲求が顕在化していて、それへと向けて思考・想像を巡らせているという意味では前者と何ら変わりないからである。少なくとも絶望している状態の人間がいかに高い社会的地位や豊かな経済力があったとしても、それは幸不幸のレヴェルではそちらの方がより不幸であり、それは要するに何ら将来に対する希望を心が持ち得ないことではないだろうか?
 つまり行動の自由を確保することによって内心の自由に関しても他者から干渉を受けることなく保全し得ることは理想的自由の在り方であるかも知れないし、そうではなくて外部から圧力を受けても、それに屈している心の状態ではなく、せめて心の中ではそういった状況を打破している状態を希求するような心持でいること、つまり内心の自由だけは侵害されないままでいるというのは最低限の権利であり自由においても、それは最も理想からは隔たってはいるけれど、ミニマルな在り方の基本である。
 しかし重要なことは、内心の自由を保全するためになす外部的行動を自由にすることを可能にするために働いたり、社会的地位とそれに伴う責任を全うしたりすることに全てを注げば最初に価値としてあった筈の自由は徐々に振り返る余裕さえなくなることもあり得るだろう。つまりある内心の自由を死守するために供せられる手段の方がずっと目的よりも増幅してしまうようなタイプの生活というのもあり得る。
 例えば最初は何かに関心があり、それを専門とするような生活が手中に入っていたとしよう。そしてその専門を社会一般に啓蒙することをするようになり、次第にその啓蒙の方に注ぎ込まれる精力の方が、その専門の何かに注ぎ込む精力よりも過大なものとなっていき、啓蒙行為が手段から既に目的化してしまっているような状態というのは常に容易に社会においても散見し得ることである。
 例えば政治家が自らの政治信条とか政策をアピールするためにテレビの討論番組出演することが頻繁化すると、次第に「アピールされる内容」よりも「アピールする姿を晒すこと」の方が先行してしまい終いには目的化してしまうというようなことはよく眼にする光景ではないだろうか?それはあらゆる権力に関しても言えることである。つまり権力とは何らかの責務、しかも一定の大きな責務を委任されていることによって生じているわけだが、次第にその委任されていることによって生じる一般の人々との距離自体が目的化していくことによって権力に対する陶酔という状態が生じる。
 しかも現代社会では全ての権力さえマスメディアとかマスコミに乗せられると、タレント化してしまうという運命が辿られる。つまり人気のある政治家、経営者、コメンテーターという風になるのだ。各種文化人、例えば科学者や専門の学者、あるいは人気タレントたちや作家、文化人たちは、次第にマスコミに流通した人格的なイメージ、つまりメディアによって存在理由を与えられた先行的イメージによって、書かれる作品とか発表される作品や仕事、論文といったものが評価されるようになる。そしてテレビに彼らが出演する目的は、あたかも彼らの仕事を宣伝するためになり、宣伝されたイメージによって新たなファン層や読者層を増やすことにだけ執心するようになる。
 そこでは政治責任とか、経営責任、あるいはマスメディアにおいて発言した責任が常に時代の流れに乗ることによって先行されてしまい、曖昧にされていく運命にある。つまり経済状況の好不況に伴うその時々に求められる主張・思想・人材が常に流動化され、使い捨て的にチェンジしていく。だから個々の政治・経済・思潮状況に対する責任を遡及することが極めて困難となってしまう。つまり全ての発言、言動が無責任的に次から次へと流布されるだけの現象と化してしまうのだ。
 本来自由とは責任が伴うものだというのは、少なくともそれが行動に移される時のことである。しかしその責任も現代社会では極めて法的な手続き上での契約責任の方によりウエイトがかけられ、そこにだけ厳密さとか正確さが求められる。政治家や経営者たちは、確かに政策が失敗したり、業績が不振となったら選挙で落選したり、株主総会で解任されたりすることがあるが、それ以前にリストラされた派遣社員を含めた従業員たちはトップが交代しても返り咲くことが困難である。しかもそういった社会状況を作った張本人とは、そういった政治家や経営者を選んだ全ての関係者であり、国民であり、要するにそういった流れに反対を唱えようが、静観しようが私たち以外の者ではない。
 法そのものも常に流動的であり、しかも一つの法が効力を発揮する期間は益々期間が短くなっている。そしてある法につき従うことが善ではないように思われる法、つまりその効力が極めて短い法という存在は、それが決定された時点ではいかに大多数の人々によって歓迎されていたとしても、既にそれが施行される段となると時代遅れのものとなってしまい、しかも順当ではない法の在り方に対して遵守する自信のない成員が法に逸脱する行為をして、それに対して法に対する厳密な遵守者たちが法執行の正当性からではなく、法遵守の正当性から法逸脱者たちを取り締まろうとすると、途端に我々は法自体が私たちの幸福のために設定された社会環境であるという本来の図式に対する信頼とか、行動の自由へと向けられた自然な欲求といったものが挫折する運命となるし、不信だけが横行するようになる。
 そうなると自由とは一体何なのかという問いに対して、耐えられ得る外部からの個人の行動の自由に対する圧力下にあって私たちは思考・想像の自由という形でのみそこに安らぎを見出すようになる。それは内心の自由の外部からの圧力による享受という「致し方なさ」である。しかも外部からの圧力が誤った方向へ突き進む法への遵守を強いるものであれば、私たちは法(これは法以前の国家や共同体による不文律を含む)の再設定へと赴かねばならなくなる。しかしその決意はかなり大変なものである。
 サルトルが「存在と無」以降訴えてきたものとは、工場労働者たちに対する決起などに象徴される社会参加というアジテートであり、投企に対する覚醒の促進であり、行動を伴った理想的自由の在り方に対する明確な位置づけであり、思考・想像による内的な自由は行動する権利が生きていることが実存に附帯することにおける志向性としての基本に据えられている。その主張の基盤は既にヘーゲルの「法の哲学」において示されていた。
 だからそれはそういう風に行動が本質的に思考・想像の自由に伴って実現されている限りの話であって、例えば今日の政治家、学者、文化人たちのマスメディアによる露出度と、その受け手から得る親近度において、殆どの成員は、ただ視聴率アップのために利用される便利なテレビタレント化しており、私たちが官僚を通してその税金等の采配を一手に管理させている権力も、とどのつまり私たちが専門分化した職種に対して、専門外のことには口を出さないという不干渉主義を肥大化させ、閉鎖的な特権階級を構成させているのだ。そしてテレビタレント化している人々も、官僚も共にそれほど内心の自由を謳歌しているわけではない。本質的に彼らは社会全体からの要請という幻想か、社会を管理すべきであるという使命感の幻想によって多忙に多忙を義務的に自らの日常を課しているだけのことである。それは殆ど法以前の法、つまり不文律に支配されているだけのことである。
 「憧れられる存在」としての著名人と彼らに群がる大多数の市民、しかしそのいずれもマスコミが彼ら全員の生活を取り巻いている現実の前では殆ど等しい存在でしかない。「自由とは一体何なのか」という問いに対する明確な答えを常時用意することが出来ないままでいるという意味では等しいのである。つまり「憧れられる存在に憧れる存在」という関係において、では彼ら全員を無視する人たちがいたとしても、彼らとて、「憧れられる存在を憧れる存在という関係を無視する存在」となり、三者の関係にかかわりを持たずにはいられない。つまり全ての成員は個々の時代状況のその都度の外部からの圧力に対する応答として自由の在り方を考えるという意味において常に同一水準の意識の成員である。
 そこにはブルジョワもプロレタリアも、資産家もホームレスもない。つまり社会的水準とか、時代状況全てから自由であるとしたら、それは永遠に生きていないこと、つまり生者として存在しないこと、つまり死んでいること以外にはないのだ。
 よってもし仮にここで自由を定義するとしたら、個々の時代状況でその都度の外部からの圧力に対応する応答を、生者として自分なりに下していくことを可能とする状況を設定することと、その状況設定へと自らの行動を可能化し得る思考・想像が健全になし得る、そういった感情が自然に持ち得ることになろうか?
 しかしこのように定義すると自由とは、可能性に対する信頼がその根底に潜んでいることになろう。つまりある状況を設定し、その設定した状況に従って何かをすればそこに更なる欲求の充足と、その先に新たな欲求が芽生えることと、新たな状況が待ち構えているという可能性を予感として見出し得ることであり、そういった状況設定そのものに対する信頼が基本として自由を支えていることになろう。

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