Monday, October 12, 2009

第五章 言葉というものの本質

 言葉そのものは差別しない(仮に自分のことを余とか、朕と言ったとしても、そのことに対して怪訝な顔をするのは人間であり、その言葉自体ではない)。全ての感情、全現象、事物を表現するために私たちがそれを利用し、私たちはその中の忌まわしい語彙に対して眉を顰めることがあるだろうし、醜いことを意味する語彙を忌避したいだろうが、言葉が私たちにそうさせているのではなく、私たちが言葉にそういう意味を付与して勝手にそう感じているに過ぎない。
 私たちは自分で自分のことを自由だと思っているし、そう思いたい。しかしそのことと死が突然やってくることはまるで別個のことのようだが、実は繋がっている。人生が何度でもやり直せ、時間はいつでも引き返すことが可能であるなら、全ての哲学、全ての文学や芸術、科学さえも私たちに齎しはしなかっただろう。 
 だから言葉はそのことを知っている。と言うより私たちがそのようなものとして言葉を有らしめている。例えばそのことの中で自由とは選択という意味になる。選択したことは再び選択し直すことが基本的には出来ないことだ(ある時に選択しなくて別のある時に選択するとしても、最初のある時には選択していないことには変わりない)。あるいは、進化という語はある種が一度変異をきたしたのなら、元の姿には戻れないことである。生という語はそれが永遠ではないという意味に他ならず、永遠とは私たちにはつきとめようがないという意味に他ならない。
 言葉がモラルを作るのではない。私たちが言葉を生きることによってそこにモラルを読み取るのである。私たちは悪い言葉を品性のある言葉より早く親しみのあるものとして覚える。だから全ての品格・品性といったものは形式的・儀礼的であることを私たちは知っている。それらの語彙に対して私たちは型通り義務的に使用し、その語彙の意味するところを履行しておけば後は私的な時間を私的な空間において過ごすことを私たちは皆望む。しかしそういった私的日常にも抽象的語彙、抽象的思考、形式・儀礼的語彙や思考は伴う。
 私たちは完全に私的であること、完全に非形式的、具体的、非儀礼的、非抽象的であることは少なくとも発話、思考、いや想像においてさえ不可能であることを知るより他はない。それは責任遂行(仕事・職業)においても完全に公的であるだけではないことと一つのことである。
 私たちの思考には深く言葉が入り込んでいる。事象に対する概念語と違って関係概念は話者の感情を実は最も如実に表現する。特に否定辞は意味と肯定の拒絶、拒否、捨象を感情的に示す。全ての関係概念は、同意・同感・合意・協調・協力・共感、逆に反感・断絶・反対・異議・批判などを示す。
 名辞は概念設定上、私たち殆どの成員にとって忌むべき対象・事象以外は中立的なものとしてとどまっている。しかしそれは発せられるや否や、私たち他者に対しても自己に対しても感情を付与する。意味とは事象に対する感情であることはこのことからも明らかである。つまり言葉とは私たちがそこに意味を投入し、仮託する場なのだ。そして言葉における私たちの責任とは、その言葉を通して意味を伝達することが出来るかどうかということである。と言うより意味とは相手に自己の感情を伝達し得た瞬間に成立する。それはその語彙を通したある発話意図の伝達を通した相手の話者に対する感情の表明以外のものではない。つまり話者相互の対相手への態度表明という大きな舞台の上で演じられる演目こそが、個々のメッセージなのである。個々の意味に対しては分析哲学がよく考察したが、その舞台に関しては生の哲学がよく考察したと言えるだろう。
 私は本章を「言葉というものの無情な本質」と余ほどしようと思ったが、それを思いとどまった理由とは、本質とはそもそもそれ自体極めて無情なものだからである。
 「論語」に次のような一節がある。

 子日、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁

 子の日わく、徳ある者は必ず言あり。言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。
勇者は必ずしも仁あらず。

 先生が言われた、「徳のある人にはきっとよいことばがあるが、よいことばの人に徳があるとは限らない。仁の人には勇気があるが、勇敢な人に仁があるとは限らない。」
(金谷治訳注 岩波文庫)

 言葉の本質はそれを語る人のモラルとは関係ない。つまり私たちはある言葉がある人によって語られることに信頼を寄せる一方、別のある人によって語られると、それが言葉だけである(内心ではそう思ってなどいない)と受け取ってしまう。しかしその言葉の持つ真理自体に説得力があることに変わりはない。つまり説得力ある言葉に相応しい人物を私たちはつい求めてしまう。
 つまり真理を言い得た言葉に相応しいモラルをその言葉を吐くべき人物に求めてしまうのである。しかし本来言葉の真理はその言葉を吐く人の人格や性格とは何ら関係ない筈だ。
 仁徳とはその言葉の真理そのものを生きるような生き方に宿るものと私たちが考えるのは、一重にそのような仁徳をもって語るに相応しい行動の人というのが時として存在するからである。私たちはそういう人物を真理の名において偶像化したがる。いや偶像化したいという気持ちが仁徳というものの存在の在り方を私たちに考えさせるのだ。しかしどのようなタイプの人でも仁徳に相応しい態度や行動も採れば、そうではないこともあるし、あらゆる仁徳に相応しいと思える人でも凡そ仁徳とは呼べないような考えもするし、行動することすらある。だからこそある言葉にある真理があるとすれば、その言葉を用いる全ての人にとってそれが真理である筈である。この言葉の人に対する選ばなさ自体が言葉に固有の力を与えている。
 
 例えばフッサールが最晩年に「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」というテクストで生活世界と言う時、彼にとってもう一つ頻繁に登場する世界生活のことを考えているから、それは必然的に世界生活世界を言い含んでいると読者は通常考えるだろう。事実そのように読者が考えられるように彼はそのテクストを書いており、彼は言葉の真理を読む人が気づくように配慮した言葉を綴ったと言える。
 言葉は読む者が考えることが出来るように書かれるような仕組みになっている。また話すことはそれが書かれるようなことがあった場合それを書くことが円滑に出来るように聞かせる仕組みになっている。つまり書くことの仕組みを反復するようにして相手を理解させることが出来るようになっており、その仕組みは私たちによる誰かと話したいという気持ちによってのみ発動するようになっている。
 私たちは言葉を通して何かを伝えつつ、その伝えたいという気持ちを理解させてあげることにおいて自ら責任を作る。言葉を通して理解を他者から得るために他者が自分の言葉を理解するように持っていくことが、私たちにとって他者に対する責任である。
 プラトンは「国家」の中で悪いことを唆す友人と、自らの心の中に潜む悪い心という、言わば外的なことと内的なことを相互補完関係において捉えた。(「国家(下)」藤沢令夫訳 250ページ、第9巻、二 575A)ホッブスが「リヴァイアサン」において、あるいはヘーゲルが「法の哲学」において考えていた、外的なことと内的なことの結びつきとは、既にプラトンによって考えられていた。そしてその考えはネオ・ダーウィニズムあるいは社会生物学と呼ばれる人々の考えの中にも受け継がれている。つまりリチャード・ドーキンスはその著「延長された表現型」の中で個体と個体間の関係だけでなく、その個々の個体が持つ遺伝子同士が一つの内部に閉じた関係である個体を離れて相互補完関係、共進化関係にあるという仮説を採っている。このことを彼は「延長された表現型」と呼んだのだ。これはある意味ではあるテクストに書かれた文章の持つ真理が、それを読む者の考える真理と共鳴することにおいても体現されていると考えることを可能にする考えでもある。
 しかし共鳴とは、いい意味でならこんなにセレンディップなことはないし、感動とか直観とかそういうことと直結するのだろうが、昨今問題となっている携帯電話による文字入力による他者に対する揶揄には、言葉の持つ冷酷さが鮮明に示されている。しかし「うざいんだよ、死ね」といったメール文に対して敏感に反応する若い人たちを見ているとどこか文章というものの本当の強さというものは知らずに、表層的な言葉のイメージに戯れているよう思える。勿論言葉の戯れそれ自体が悪いわけはないし、それはそれで価値である。
 私は若い頃、病気で死にかけたことがあり、その時読んでいたジュネの文章は何かとても堅い印象を抱いたが、あれは恐らく翻訳に起因するのだろうと思う。フランス語は文語的に翻訳しがちになる文法の言語(しかしそれはあくまで英語と比較しての話であるが)なので、直訳すると確かに文語調になる。しかしジュネとは恐らくもっと現代で言えば2ちゃんねる的な文体を試みたのではないだろうか?
 しかしもし2ちゃんねる的な文体を施したにしても、文学とか論文とかエッセイとかいうものにおけるいいものとは、皆その時の感情を直に示しているものではない。もっとどこか冷めた目で客観的に自分の感情を見つめている目があるのだ。
 それは誰の文章であったか忘れたのだが(その当時読んでいたのが彼らのテクストだったので恐らくヘーゲルかフッサールかメルロ・ポンティかだったと思う。)認識と解釈とは違うものであることが書いてあった。確かに認識とはあるものに対してそのものが有している状態や性質に対して下す判断であるのに対し、解釈とはそのものがそのものであるために持っている背景や事情を考慮してそのものに対して下す判断であるから、どちらかと言うと翻訳に近い。しかも意訳である。それを下に言うなら認識は直訳である。
 つまり私は哲学テクストを直訳する必要性というものが最初はあるかも知れないと認めつつも、文学の場合直訳してしまうと、それを読む者はフランス文学とかフランス語のプロフェッショナル以外の人にとっては文学的なニュアンスは失われてしまうと思うのだ。
 そもそも哲学は難しい語調でしか表現し得ないようなニュアンスも多く記述するものなので、直訳という作業が最初は必要となる。つまり解釈はその次のステップアップされた段階のものであり、いきなりそれに突入することは危険だ。曲解とか誤解を生む恐れがあるからである。しかし文学とはそもそもそういう風に解釈を正確さの下に行うものとは違う。従って翻訳という作業はそのままその作品のニュアンスを決定づけるようなものなのだ。もしある海外文学に感動した人がいたとしたら、最初はその翻訳によるニュアンスの再現に起因するわけだ。しかしその人はそのニュアンスをそのままただ受容するだけでは飽き足らず、解析する意図で原文にチャレンジするかも知れない。その時翻訳されたものの原文で直面するのは恐らく最初読んだ翻訳が原文の持つニュアンスをより再現しているかどうかという自分による判定であろう。
 となると、最初に私が引用した「論語」中のあの文意は、私が前章で示したように言葉の方が普遍的であり、その言葉を吐く人がモラリスティックであるわけではないという意味は勿論成立し得るも、孔子の考えでは、言葉はモラルを考える必要がある私たちがそのモラルに従って生活する中で生み出されるものであるという、要するに実存的な生成論であり、発生論であることになる。だから文学におけるニュアンスとは、文が「伝えるべき内容」のことであり、文の仕組みではないのだ。
 しかしいざ翻訳されたものの原文に挑む海外文学のファンがいたとしたら、彼は恐らくただ翻訳を素通りする人よりは深くその文学のエッセンスを理解するに至るだろう。つまり彼(女)は明らかに「伝えるべき内容」を汲んだり、載せて運んだりする容器、つまり言葉の仕組みの方により意識を移行させているのだ。しかし一旦そうやって理解し得た言葉の仕組み(先ほどの例で言えば、原文フランス語と翻訳された日本語の違いを通した小説の文章理解の根拠となっている文意)を把握した後は、再び「伝えるべき内容」に立ち戻り、文学というものの言葉に対する直観的感受とか感得に彼(女)は感動するに違いない。 
 しかし私は孔子が仮に二つ前の段落で述べたように、文が「伝えるべき内容」はやはり言葉が持つ仕組みに依存していると無意識の内に考えていたと思う。それは要するに徳のない人でもいい言葉を発することが出来ることの方に寧ろ比重を置いた考えである。しかし孔子は恐らく意識的には徳のある人は必ずいい言葉を持つことの方に比重を置いていたかも知れない。しかし何故この「論語」の一節が残っていて私を惹きつけたかと言うと、言葉とか勇気の普遍性ではないかと私は考えているのである。つまり仁とは正義的なモラルのことであるが、勇気は端的に悪党にも備わっている。しかし恐らく人類が勇気さえ持てない、つまりそのような能力を付与されていなかったのなら、モラルを考えることも出来なかったのではないかと私は考えるからである。次章ではそのことを念頭に入れて考えてみたい。

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