Tuesday, October 6, 2009

第二章 モラルと制限、思考・想像の自由(2)

 つまり私の考えでは社会内部での責任遂行者並びにその実績者、つまり社会的に何らかの功労があった人に対する盲目の信頼とそこまで行かなくても、尊敬心こそがモラルというものを形成しており、それは一種の権威主義から派生した考えであることには変わりないと思うのだ。このことは私がわざわざ繰り返すまでもなくニーチェの視点でもあるのだが、その考えの下には責任遂行者の責任遂行を巡る能力そのものが思考・想像において自由であるからこそ成立しているかも知れないその可能性に対する認識を不可能にするかも知れないという考えがあると私は思う。
 つまりある行為実績を巡る社会的評定とは、その行為がたった一回限りのものであっても、社会全体にとって有益である場合には、その人に生涯付き纏う信頼に寄与するであろう。そしてその信頼性がその人の発言の全てに対して拝聴する価値のあるものとする見方こそが私たちのモラルとそれによる制限という項目を私たちの心の中に育み、「伝えるべき内容」に対して自主検閲を施すのである。
 要するにモラルとそれによる制限とは、権威ある成員に対する妄信があれば極度に狭いものになり、そこに発言の自由は消去されるが、そこまで行かなくても少なくともその者に対しては一目を置くという姿勢そのものが既にモラルと制限を生み出すのだ。
 妄信、崇拝、信仰といったものは全てこの範疇に含まれる。しかし部分的には確かに我々は何かを信じないことには何ら行動も発言もしようがない。しかしもしこのモラルと制限を、内的な自由、つまり思考・想像の自由にまで拡張しようとすると、まさに外部から内部を抑圧することへと繋がる。それは責任遂行能力そのものが思考・想像の自由によって育まれていることを見失っている。だからここに至ってモラルの存在根拠そのものに眼を移す必要があると思われる。つまりそれは端的に性善説的な責任論に対する見直しが求められる余地を生じさせているのだ。
 第一章でも既に多少触れたが、完璧なる仕事、完璧なる任務遂行、完璧なる責任遂行自体もある者の評定に際して私たち自身が与えているものなのだが、その者への尊崇とは、ある種のモラルそのものの美化と、彼らへの尊崇とが結びついた形で立ち現われやすいことが言えると思う。つまりそもそもモラルとは一定の水準に社会の平穏が保たれることを目的として、予め犯罪抑止力としての効果を発揮するものとして期待されている価値とか、考えである。それは常に前例として歴史的偉業であるとかのモデルケースが過去にあるのだ。だからそのモラルとは常に過去の例によるものである以上旧態依然的な部分が必ずある。そしてそのモラルの形成によるモデルとなった対象に対して我々は痘痕も笑窪的な見方、つまり恋は盲目的な見方を採用してしまうのだ。それが前例者としてモデル化された人物に対する美化である(だからこそ時として権力への魅力にとりつかれた人というのは、責任遂行をすると自分以外の一般の人々に対して思考・想像の自由に制限を課すようなモラルを提示するようになるのだ。またその権力者や権威者の魅力に参っていると私たちもそれを遵守するようになる)。
 しかし一方で社会から認められている筈の権利問題としての思考・想像の自由とは、そのモラルと制限のメカニズム自体にも眼が向けらていなければならない。ところが何故それをつい忘れ去ってしまうかというと、それは私たちが「伝える資格のある人から伝えられたい内容」という根拠を持った「伝えるべき内容」という建前主義とか社会的責任(社会的責任の多くは、云々という職業は「~までなら出来る」ことにおいて成立している以上仕方ない面もあるのだ。)において自らの発言をしてしまい、発言する者とは無縁に言葉の真理は成り立つという本意、つまり言葉の仕組みへの着目をつい忘れてしまうからなのだ。つまり「伝えるべき内容」そのものが既にモラルという私たちの犯罪抑止に対する要請によって制限を加えられているからに他ならない。それが表面的には語彙選択、伝え方の選択となって立ち現われる。
 しかしよく考えてみれば、実際私たちの思考・想像の自由こそが、責任遂行者に対してより大きな責任遂行への野望とか、機会を与えてもいるのに、そのことはすっかり忘れて、寧ろ一旦彼(責任遂行功労者)に付与した我々のレッテルこそが、つまり権威とか信頼性に裏打ちされた彼自身への疑いのなさや安心となって責任遂行者の行為を美化し、引いてはそこにモラルという幻想を付与してもいるのである。既に死去した者に対する美化と、生存者に対する美化とは実はかなり異なった結果を招くことも多いと私は思う。つまり生きている人がもしかなり若ければその者に対する妄信とは、その者に対する思考・想像の自由を奪うことにも繋がるし、またその者の中に悪辣なる権力欲を発生させることもあるからである。と言うのも私たちは責任遂行をする者に対してより過大視して、期待された責任遂行者に対して、より大きな責任遂行を彼(女)がし得るために彼(女)に与えた思考・想像の自由を権利として与えておきながら、他方同時に責任が遂行されると、彼にその責任遂行に相応しい「かくあるべし」という幻想やモラル的制限を彼(女)に当て嵌めようとして、要するによい結果がよい原因によって齎されるという理想的な在り方をそこ(偉業)に読み取りたい故にそう想像して幻想するようになるという次第なのだ。これは性犯罪者の自宅の様子を警察が捜索した結果、沢山集めたAVが犯罪を誘引した原因だと特定することと極めてよく似ている。しかし実際のところ、よい結果となったものが常に清く正しい(?)動機によるものではないことくらい中学生でも知っていることではないだろうか?
 つまり何か挫折をしたり失敗したり、恥を他人の前でかいたりしたことによって奮起して成功したような場合、動機的には復讐に近いものがあるだろうし、偶然的によい結果を招くことだってあるかも知れないではないか。例えば祭りの日は留守をしている家がその周囲では多いので、たまたまその日に空き巣を狙っていた者がいたとしよう。しかし祭りの日にそれを決行しようとして、たまたま自分が狙った家から既にその家に侵入していた泥棒がいたとしよう。彼がまさにその家に向かう途中でその泥棒がその家から出てきたところだった。しかもその泥棒を更にその日に追い詰めようと以前から警察が狙っていて、その家から出たところを警察官が捕まえようと後から追いかけてきているとしよう。すると彼は咄嗟にその家に侵入することを諦め、逆にその自分の方に以前からその泥棒をマークしていた警察の追手から逃れようと走ってきた泥棒を捕まえたとしよう。彼は泥棒に入ろうと思ってその家に訪れたのに、咄嗟の判断で後日警察に表彰されることとなる。そして結果的には彼のしたことは善行であったとしても果たして彼は内的には善良なる動機でその家へ向かったわけではない。勿論これは極端なケースである。
 つまりあらゆる成功とか偉業とかも実はこのような偶然的なこととして結果したことも多く含まれるのである。勿論偉業は偉業だし、善行も善行であるには違いない。しかし恐らく全ての偉大なる責任遂行者は、普段は普通の人たちであるし、間違いも犯すし、欠点もある。しかし私たちは往々にしてそういった成功例に対して権威づけたくなる(中位権力者は、自分よりも上位の権力を構成して、その上位者に対して敬意を抱かない者を爪弾きにする権限を持ちたいものである)ものなので、その成功を必然的なものとして位置づけることをするのだ。つまりかなり悪戦苦闘の末に獲得した成功であっても、そもそもそういうことなし遂げる才能があったのだと言いたいわけである。しかし悪戦苦闘をした末に獲得した成功例であるなら、それは本人にとっては予め与えられた能力をただ実践したというのとはわけが違うだろう。しかし私たちは権威とか偉業に対してそのように思いたい気持ちがある。つまりそのことを理由に、「所詮努力しても自分にはそもそもそういった能力が備わっていないのだから」と努力を回避する理由にしたいからである。この心理を取り敢えず、私は偶像崇拝的逃避と呼んでおこう。これは歪んだ形での代理感情である。
 しかし勿論この心理自体は完全に否定すべきものとも言えない。と言うのも私たちが他者に何事かを責任転嫁したりする場合の自己防衛力となってこの心理が働いていることもあるからである。それは先に述べた自分の責任の範囲を限定的に明示しておくことで、社会的な害悪を未然に阻止することに利用されるのなら、それはこの心理の有効利用にもなるからである。

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