Sunday, October 4, 2009

第二章 モラルと制限、思考・想像の自由(1)

 私たちはありとあらゆることを思考・想像することが出来、誰もがそのことを心に留めているのに、その全てを口に出すことは社会的に許されないことを知っている。そして本当は誰しも思考・想像と実際の行為は切り離しているのに、法を逸脱する者が出現し、社会にとって害悪となり得る行為が実際に起きたりすると、それは日常からよくない思考・想像をすることが、引いてはそういう行動を実現することに繋がると、一般的にはそう判断された報道がなされる。だから性犯罪者の住居で多くのアダルトヴィデオが本棚などに陳列されていることを大きく報じたりするのだ。しかしそういうものを鑑賞する趣味の人間の中でそういう犯罪を実行する者はほんの一握りだし、またそういう類のものを一切見ないで性犯罪に走る者のプライヴェートは一切報じない。
 要するにマスコミはモラルと制限に関し日頃の思考・想像のレヴェルから制限することこそが道徳的(モラリスティック)であると報道するかの如くである。モラルが必要であり、そういったモラルを育むのは日頃の思考・想像の抑制的訓練であるかの如き考えがそこにはある。確かに思考・想像レヴェルでの内容如何に行動レヴェルのモラル的実現という意味で抑止力があることは一定量としては認めよう。しかしそのような心がけで全ての犯罪が一掃されたらこんなに楽なことはない。警察など要らない。要するにマスコミとはある性犯罪者の自宅から多量のアダルトヴィデオが発見されたという事実と、その者が犯罪を実行に移したという事実を何らかの因果関係において結びつけたがるのである(またマスコミは一旦地に落ちた権力者の些細な失態をも執拗に掘り出し報道する)。
 しかしマスコミが賞をとった人に対して同じ番組に出演している皆が先生、先生と普段からはそのような学問や芸術や文学などに関心さえ示さないのに、急に周囲と調子を合わせるかの如く謙ったりする姿を放映することに全く躊躇を示さないことは、一面では私たち自身がそういう権威主義的判断を有効なものとして生活している、つまりある発言がなされて、その発言自体が有益なものであったり、真理をついていさえすればそれでいい筈なのに「誰がそう言ったの?」と質問して、その発言者が権威ある者であると信頼するが、そうでなければ急に信頼しないという習慣があるからこそ、そういう私たちの習慣を反映してそうなっていくのであり、また私たちの中に自分でもそのように反省すべき点があるからこそテレビなどに出演しているコメンテーターやレギュラー陣の発言の中から特にそういう箇所に即座に眼と耳が行くこともあり得ることである。
 しかしそのような権威主義的な安易な信頼性に対する考えの習慣と同じくらいに、この思考・想像に制限を加えれば行動レヴェルでモラルが守られるという考えもまた実に根深いものがある。しかしこの思考・想像レヴェルから制限を設ければ、あるいは日頃のプライヴェートな生活において趣味とか嗜好のレヴェルから制限を加えれば各個人から社会に害悪となり得る行為を除去し得るのではないかという考えを私は間違っていると思う。
 しかしそのことを問う前に、まず責任とはそもそもそれを果たしてさえおれば、後は私生活で他者(家族をも含む)に対して迷惑がかかることさえしなければ、何をしてもよいことが社会では一応容認されているという事実があることに眼を留めておく必要がある。つまりその事実から思考・想像の自由をそもそも社会は暗黙の容認として我々に与えていることになる。例えばその一つが信教の自由である。 しかしそうなると、先に述べたモラルは社会的害悪を未然に防止、抑止するために設けられたという事実と、責任遂行をしていればあとは自由であるという社会の暗黙のルールを各個人に認定しているという事実とは矛盾した間柄になってしまわないだろうか?つまり責任さえ果たしておれば、社会からその存在理由と認定された同一性を保証されている個人という事実が、何かの責任遂行者であるからその発言は信頼が出来るとする「伝えるべき内容」を享受する側から考えれば「伝えられるべき内容」が、実は「伝える資格のある人から伝えられたい内容」となり、社会が我々に、我々が社会に作るモラルがある筈だとする我々による責任遂行者に対する評定そのものがある種の欺瞞に彩られていることとなる。つまりモラルとは端的に「伝えるべき内容」の適切性の判断基準そのものが「伝える資格のある人から伝えられたい内容」で醸成された信頼性に依拠しているという事実に立脚していると私は思うからである。

No comments:

Post a Comment