Sunday, October 18, 2009

第八章 書くことと書く内容(伝えたい内容)

 書くこととは、書く内容が書くに値するものであるかどうかを書くことによって示してくれる。人に対して発話する時には、そういう試行錯誤がとんでもない結果に終わることがあるから、予め言おうと思っていることがその人に対して適切に聞いて貰えるかということを考えなくてはならないが、自分一人で誰かに読んで貰おうと未だ考えていない段階ででも、私たちは何かを書くことなら出来る。
 何故書いた内容そのものが書くほどのものであるかどうかを示すかというと、書くという行為においては、物事に対して理解する(何が大切で、何がそれほどではないかに関して)ことが出来ているかどうかが書く内容に対しそれが書かれるべきことであるかどうかを決する基準だからである。だから必然的に書かれた内容が書かれるほどのことはないと感じられるとしたなら、それは私たちがそれを書いた時あまり物事に対する理解を通して書いてはいなかったことになるのだ。
 これは前章において孔子の言葉から考えたことと関係がある。
 つまり一方で言葉は、言葉自体の力以外のものではなく、その言葉を言うのに相応しい人を選ばない。しかし他方、その言葉を書く際に、その言葉が説得力を持つかどうかとなると、途端にその言葉を書こうとする者の世界に対する意識の在り方が反映するのである。
 あるコンサート会場での熱狂というものは、そのコンサートで奏でられている音楽自体に対する関心と共感なしには理解することは出来ない。例えば哲学を映画に求める人は、スティーヴン・セガールやジャン・クロード・バンダムが主演の映画を見に行こうとなど思わないだろう。映画は哲学的では全くないものにも存在理由があるからだ。彼らの映画を鑑賞することが好きな人の前で映画と哲学との係わり合いなどという会話は不適切だろう(尤も映画の仕組みを考えることは哲学でありドゥルーズもジジェクも書いている)。
 つまり何かに対して関心があることは常に同時に、自分にとってまるで関心のないものに対しても常に関心を抱く他者は大勢いるのだということに対する理解と共になされる心的作用である。
 それは言葉自体にも言葉の受け取り方自体にも内在している。ある言葉はある状況においては親切な一言であるが、別の状況ではその言い方がいかに丁寧であっても、いや丁寧であるが故に却って辛辣である場合すらあることである。
 例えば「お荷物」という言葉は、ホテルなどで従業員たちが宿泊客をもてなす時以外では通常、厄介者という意味以外のことではないし、「お断りする」こともデートの誘い文句に対する言い返しの言葉であるなら、辛辣な拒否宣言以外のものではない。
 私たちは何かに熱狂することを人に公言する時、その熱狂自体に対する少なからぬ共感を求めていると同時に、そのように期待すべき共感を得られないことも常に充分有り得ることを承知でそう言っているのである。それは要するに自分が熱狂したり、関心を抱いたりしているものとは、あくまで自分にとってはそうであるだけのことであり、それに対して全く無関心であったり、共感し得ない大勢の人がいることを前提にしてあるものやことに熱狂し、関心を示し、共感していることを自分でもよく知っているのだ。また同じものが別のあるタイプの人々にとっては極めて不快以外の何物でもない場合も往々にしてあることも知っている。それは一つの語彙が示す意味合いが状況次第で全く語彙の意味を変えることと同じである。あるコンサート会場とはそのコンサートをするミュージシャンが嫌いな人のためにコンサート状況に供せられているのではない。
 マスコミは取るに足らないこと、そして興味本位のことを寧ろ本質的なことよりもクローズアップして伝えようとする。しかしそういう興味本位のことを大衆が望んでいるという図式を、寧ろ私たちの方が容認していることの方が重要である。下手にマスコミが本格的な情報機関と化したなら、その方がずっと恐怖を感じるという考えがどこかに私たちの方にある。だからマスコミに乗せられた情報が、大衆的視点のものであると「たかがマスコミの垂れ流す情報ではないか」と逆に安心するのだ。
 しかし自分にとって切実なものはどのような情報であれ、どのようなジャンルのものであれ、真剣に報道して欲しいと、自分にはさほど関心のないものはあまり注意を払わないようにマスメディアを利用している。そしてどうして自分の関心のあるニュースだけ小さく扱われているのかと疑問に思ったりするものだ。つまりどのような趣味を持つ者でさえ一応情報を満遍なく摂取することが可能なように機能しようとするのがマスコミなので、私たちはその中から好きな部分だけをピックアップしてこざるを得ないというわけだ。そして本当に熱狂出来るものは寧ろあまり大勢の人にとって切実であって欲しくさえないような心理でいる。「俺たちだけが贔屓にしていればいいんだから、あまり有名になって欲しくない」とまで思ったりする。
 マスコミは常にニュースソースを探しており、そのために必要以上に変革が必要なのだ。そこでいつ政権交代があるかというような論調で捲くし立てることをするように新世代のスターを各分野で物色している。あたかもそれまでの権威が失墜して、新たな存在が全てを担えるかの如きイメージでゲストに迎え、意見を拝聴するようなポーズを取る。だからマスコミをただ享受する立場の私たち一般は、そのようにマイナーな立場に身を寄せる人々にとってだけ偶像であったものが、一般大衆全般の共有財産になってしまうと、そのように一般偶像化されたものを褪せたイメージで見るようにもなる。つまりオタク的熱狂対象とは少々マイナーなものに限るというわけだ。そこでそのマイナーな存在に対して着目している立場の人はマイノリティーであればあるほどお互いに示しがつく。そこでそういった人たちの間では妙な連帯感が生じ、まさに関係者以外立ち入り禁止という立て札に示されるような特権意識がこの人々の間で広まる。しかしそれも時間の問題で、やがてそのマイナープレゼンスはメジャーへと転向していく。そうなると今度は最初にファンだった特権階級は解散し、体制側のマジョリティーに対して批判的眼差しを向け、もっと自分たちに相応しいマイナーな存在を物色するようになる。常にその繰り返しなのだ。
 このようなマイナーな偶像、しかも自分たちだけの偶像に対する信奉は、しかし一方では本当にメジャーなものの中でも許容し得る存在に対する通り一遍の偶像化作用と常に歩調を合わせてもいるのだ。つまり私たちは一方でメジャーなものを容認しながら、同時にマイナーなものにも奇妙な執着を見せる、またそのようなものをメジャー以外で確保しておくことによって精神的なテリトリー、他者には容易には踏み込まれ得ない安全地帯を確保しておこうと画策してもいるのである。この世間一般の偶像化作用を踏襲しつつ、他方マイナーな存在に対してオタク的熱狂をしているという奇妙な二つの存在における往来とは、常に相互に促進されており、相互に補強し合っている。
 この章では書くという行為においてそのことを考えてみたいのだ。
 デリダは「言葉はそれを考えることと、発することの間に常にずれがある」と考えたと私は言ったが、それは表象という言葉で置き換えてもよい。表象を保持するとは不在対象に対する現前化作用ということだ。そしてそれは言葉を発する上でも、書く上でも立ち現われるが、それは思考・想像の自由の領域においてであり、何か書かれたものを読むという行為においても、その書かれたイメージを想像することにおいて私たちは読む行為の時間と、その読んだものをイメージとして纏めてそれを糧に想起したりする時間との間にもずれがあるし、書いた人は、それが読まれる間に全ての読者との間に時間的なずれがある。書くという行為は書く人にとっては、自分が考えたことを一旦書くために纏めて、更にそれを書き、文章としての体裁を取らせて、そしてその出来上がった文章を推敲し、それを出版社なり何なりに渡し、そこで出来上がったものはあたかも他人が書いたもののように自分でも接することの内には、まさに四回もの時間的なずれを経験していることである。
 マイナーなものに対する着目は常に文章を書こうと思っている人たちにはつき纏う。権威主義からの脱却を試みている全てのライターたちにはそれがある。だから時に新しい主義や、イデオロギーを書くことで試みるタイプの論客たちは敢えて省みられなくなった作家や、評論家、文学者たちを再評価しようとする。そこでもオタク的な特権意識が生じており、それが広まってメジャーになり過ぎると、途端に興味が失せ、新しいオタク対象を模索するようになるという筋書きである。尤もそこで得た既得権にしがみつきながら生涯を幸福に終えたいというのも一つの選択肢である。
 デリダにとっての師であるハイデッガーはまさにディルタイたちに対して着目したことで、生の哲学という領域を現象学と融合させようと試みた。ハイデッガーはプラトニズム、つまり物事の裏に真理、イデアがあるという考えに抵抗し、現象されるものに立ち戻るためには、ソクラテス以前へと回帰する必要性があると考えた。その考えは確かにデリダによって音声中心主義に対する抵抗として蘇っている(私たちは文字表記を巡る痕跡によって逆にパロールを遂行しているという考え。原エクリチュールのこと)が、ソシュールの時代には逆に意味中心主義に対する抵抗から通辞的な通史観的歴史観から、ラングという名の共辞的意識へと私たちの関心を移行させようと試みた。つまり恣意性という考えは、「私たちは言葉に勝手にそれぞれ音をつけている」という現実へと私たちの目を移行させようと試みる中でなされた意味の呪縛からの開放の意図もあったのである。
 しかし意味は発声でもあるし、文字そのものに意味作用的な制約を与えていることでもあるが、同時に心の中で不在対象に対する想起促進としての現前化作用でもある。つまりここに書くことそのものが、書く内容の選択以前、既に不在対象に対する想起という思考・想像の自由の領域での心的作用であることを意味している。つまり伝える内容は「伝えるべき内容」へと検閲されて整えられてから、発せられたり、記述されたりする。それを促進することが身体的な話すという行為とか書くという行為だというわけである。
 あらゆるマニフェストはメジャー志向のものであっても、最初はマイナー化されているものに対するメジャー志向的着目を題目とする。「これこれこういう存在は、今まではマイナーな地位に甘んじていたが、それはおかしい、今までメジャーとされてきたものの方こそエピゴーネンにしか過ぎないのではないか」という提言がなされるのだ。要するに書く内容はその都度歴史的な認識における文脈主義によって個人に齎される。しかし本当の自分というのはどこにあるのだろうかと訝るタイプの読者もおられるだろうが、では本当の自分、つまり歴史とも、他者とも一切かかわりのない形での純粋な自分など成り立ち得るだろうか、あるいは意味がある考えなのだろうか?
 勿論ある時代には常に様々な考え方が犇めき合っており、それらが競合すること自体に私たちは向き合っており、その中で特定の何らかの考えに惹かれ傾斜する。しかしある考えは、その考えに対する批判とか、対立する意見と共存し、相互に存在規定し合っていることによって意味を得てもいる。ソシュールはソシュール以前の全ての言語学によって逆にその存在理由を得ていて、ハイデッガーもデリダもそうなのだ。
 私は私以前に書かれた全てのテクストのお世話になっているし、私自身の考えは、過去の何らかの先人たちによる考えたちの複合であるとも言える。しかし重要なことはその様々な考えや作品の中から私は私なりに幾つかのものを常に選択していることだ。その選択が「伝えるべき内容」が形成されていく本論で繰り返し論じてきたことと同じように書く行為には顕在している。だがそれは書く行為を自己によって確かめるという作業において顕在させること、つまり自分の中の他者と出会うことによってなのだ。

 ところでオタクについて少々拘ってみると、この言葉はここ十数年の間に定着した言葉だが、新しい社会現象ではない。もっと昔からずっとこのような心理はあった。しかし戦中、戦後社会においてそういう個的な心理は、社会という外部的な大問題とされることの影に隠れていただけのことである。引き篭もりさえ新しい社会問題ではない。ただそれ
が社会問題化されやすくなってきたというだけのことである。
 それにネット社会がそれを助長しているという論調も説得力がない。それを言うなら読書の虫のようなタイプの人こそ最も引き篭もりである。書くという行為に拘ることもまたそうである。読書やものを書くことは尊いとされ、ネットに嵌り込むことを悪と見なす考えは安易だ。寧ろ私が先に述べたように個人的な特権的偶像を所有したいと望む心理の方に着目すべきである。カルト的信者としてのファン心理において顕著なマイナー・アイドルに対する崇拝心理こそが、生活態度にまで引き篭もりとかオタクを作る。それは反体制とも違い、もっと本質的に人間が社会的存在であることを知っていて、敢えて一人で過ごすことの意味において問われるべき筋合いのものである。
 そもそも日本人は土居健夫氏が「「甘え」の構造」において指摘したように意識の上で集団帰属性が強く、集団の利害を最優先するという性格から、精神的不安定要因を極度に嫌い、羞恥の対象とするところがある。しかし精神疾患を隠蔽する羞恥は、欧米ではあまり見られない。欧米では既に個の内的関係における苦悩の除去が観念として定着しているからこそ、例えば米国は精神科医が一人につき必ず一人はいてそれを隠しもしないのだ。
 しかしオタクとはオタクの人間が犯罪を引き起こすと、途端に生活態度からして、犯罪要因のように語られることも多いが、本来犯罪を引き起こすのはオタクであるというのは偶然的な条件に過ぎない。しかも引き篭もりとはいけないことだという観念があるが、それは生活態度において集団にほどよく同化することが価値だという先入見から来る判断にしか過ぎない。一人で部屋に閉じこもって行う仕事も世の中には多く存在する。そういう仕事に向いたタイプとして一つのタイプにしか過ぎないという判断が起こらないのは何故なのだろうか?
 それは引き篭もっている人たちの大勢が集団に対してある種の恐怖を抱いているからだろう。しかしそれとて例えば両親が死ねば、必然的に両親からの介護を求めることなど出来なくなるのだことは一番本人が理解しているのではないだろうか?
 それは自らの失敗体験によるトラウマの問題なのだろうが、例えばものを書くという行為はよく考えると病的な行為である。それは他人と会話するのとはわけが違う。つまり一人で文章を書き、一人で読むという行為には必然的に引き篭もる様相が伴っている。しかも書くという行為を持続するためには人とあまり多くを話さないという決意も必要だ(特別執筆欲を催させるタイプの友人がいれば別であろうが)。ならば引き篭もっている人にしか出来ないことを彼らに要求することを試みるのも必要かも知れない。勿論最初はそれさえ断るかも知れないが、少なくともネットを通して彼らの言い分を聞くようにすれば、それも可能となるに違いない。彼らにとって伝える内容とは、伝えるべき何かということに対する規制に対する恐怖によって閉ざされている可能性があり、それを解除するには、伝えたいことを伝えればいいのだという安心感を与える必要がある。伝えるべき、の「べき」を取り払い、伝えたい内容とすれば、彼らも同意してくれるだろう。オタクが引き篭もりと違って健全である証拠は、次々と自らのマイナー・アイドルを求めて変遷していくことに恐怖していないことだ。それに対して引き篭もりは、自らのアイドルを仮に持っていたとしても、それを他者に告白することとそれに伴う極度の羞恥から臆していて、しかもそのアイドルがより一般に流通していくことを歓迎出来ないタイプの成員は、やがてそのアイドルに対する寄りかかりに拍車がかかり、しかも他人に知られそれが有名になった時に自分がその対象から急激に興味が失せてしまうこと自体に対する恐怖が更に頑なに何に対しても無関心にするのではないか?引き篭もりは集団恐怖を自閉的防御自愛で処理するのだ。偉大な哲学者たちは、本当は一歩間違えばオタクであるだけであるか、引き篭もりにさえなったかも知れない可能性の強い人々の集まりである。しかし彼らはそれらの恐怖に打ち勝ち、勇気をもって自分が「伝えたい内容」を、「伝えるべき内容」からの規制を振り切って発表したのである。

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