Tuesday, October 27, 2009

結論になり代わるもの、あるいは言葉を巡って考えられる自由と責任①

 現代は情報化社会である。そして情報の手段は多様を極める。しかしどんなに新奇な手段であっても、それ以前の手段の存在理由を熟知して登場している。つまりそれ以前に常套的であった手段に欠けている要素を実現させてきたわけだ。例えば文字の発明は、その文字が模倣した意味を伝達する発声行為があって、それを下に音声を記述することから生じた(だろう)。(勿論文字の発生が音声より先であった可能性もゼロではないがここではそのことは問わない。)そして文字というものがあり、その文字を紙の発明は書き写すことを発明し、やがて書物が出来て、書物は人の手によって書き写すものであったが、印刷技術が可能にし本として市販されるようになり、新聞も出来て、その延長戦上に、写真が発明され、映画が発明され、電話が発明され、ラジオの発明が齎され、テレビが発明され、パソコンが普及してインターネットが発明され、メールという通信手段も出来、メールは携帯電話でも出来るようになり、そしてブログを誰でも簡単に作れるようになった。現代では政治家を選ぶのも、自分でも知らない内に誰かが選ばれているというような昔と違って、きちんと誰が立候補しているか知って、自分でも投票して選ぶことが出来るが、一度も政治家の姿を実際には見ていないで選んでいる場合も多い。つまりメディアを通じてその姿とか人物を知って投票することも多い。しかしこれは極めて人類の歴史においても特殊な状況であると言っていいだろう。現代とはマスコミ、マスメディアというものを前提として、しかもその前提としていることの内に言葉というものを通した実際上の人間の知遇を得たりする仕方ではない仕方によるコミュニケーションが加速度的に増加している(かく言う私もネット、メール上だけでの知人というものも大勢いる)のだ。こういう状況だからこそ、人類にとっての言葉を、私たちの行為や行動の自由と責任において考えることは意味がある。
 本論は第一章で言葉の問題から入り、第二章でマスコミというものの私たちにとっての在り方を考えた。その過程で自由と責任の在り方について考えてきた。そして差別という意識が生じるから偶像化が起こり、私たちの偶像化作用が、例えば職業意識を生むというところまで論じた。私たちが国家や国民、民族、出身地毎の地方意識を生じさせるのも、他と差別化するという意識からである。しかし結論というものはそう簡単に導き出せるものではない。つまり結論としてだからこうすべきであるとか、だからこうなるから気をつけろことはそうたやすくは言えるものでもない。ならば何故そう言えないかというと、そのように人類は大昔から何らかの結論を出そうとしてきたのであり、それが歴史であることだ。そして歴史が続いている以上その結論は出ていない。
 結論の代わりと言っては何だが、私は先に取り上げた孔子の「論語」にヒントを得てそれを書こうと思う。孔子は「論語」の中で徳も仁も礼も大切であると言っている。しかしその内でどれが一番大切であるかとは言っていない。そこでここで私の独断と偏見で、徳も仁も礼もその基礎として理、つまり言葉の意味、仕組みのこととしてもいい、この理(そこには法も含まれるし、習慣とか、物理とか、論理というもの全般が含まれる)が、それをベースにして「論語」中の重要だと思われる言説を、西欧哲学と併行させながらその形而上学的、精神的展開を人類がどういう形でしてきたかことを中心に考えていってみようと思う。

 私にとって極めて日本について興味深いこととは、昨今あった幾つかの大相撲に関する出来事についてである。例えば日本相撲協会にしても、横綱審議委員会にしても、我が国ではある平素から素行が問題視されている外国人力士が優勝した時にガッツポーズを取ったことを品格として訓戒措置を取っていたようだが、これなどは吉田神道という皇室と密接な歴史を背負った国技であるという意識からくる、要するに他の一般のスポーツとは違うのだということに対する見せしめであるが、本来相撲もまた一つのスポーツであるなら、彼の取ったポーズは何ら意味的に、意志表示的に悪いことではないと私は思う。つまりそれは上野由紀子がソフトボールで優勝した時に諸手を挙げて喜んだことと同じことだからだ。神道的作法云々で言うのなら、もっと現代的解釈で他の部分で改善すべき余地があるのではないだろうか?例えば興味深いことには、大麻吸引していた力士は即刻解雇して、永久追放を決め込むことによって、臭いものに蓋をしていたことである。これはここのところ頻発した不祥事であるが、そういう不祥事を招いた協会全体の指導方針とか、そのやり方の不備については一切問うことをしない。いや問わせないようにしているとしか思えない。寧ろそちらの措置の方がより国技の精神に悖るのではないか。
 つまり一方で品格を求めておきながら、他方自らの不祥事に対する協会全体の指導方針を巡る体質に対する批判だけは巧妙にすり抜けるように有無を言わさず、若い不祥事力士だけを排除する。これでは相撲界全体に蔓延した旧態依然的空気、それが大麻汚染やまさにあの若い見習い弟子の折檻死事件をも招聘したのであるが、そのことに対する反省は皆無である。しかしここには典型的な責任転嫁、つまり社会全体に責任がある、つまり薬物が蔓延しているのは何も相撲界だけではない(事実だが)という暗黙の主張がある。それはそう言い抜けなければならないとする私たちの判断がたまたま相撲界にもそういう態度を採らせるわけだ。その問題発生時の力士の親方であれ、相撲協会の理事であれ、責任転嫁出来ない成員を私たちは頼り甲斐のない無責任な人間であるという烙印を押すことに対する恐怖が責任ある地位の人間にはあるのだ。本質的な問題は決して責任者個人の問題ではないというメタ認知が出来ないとその本当の問題の解決にはならない(それは正しい面もあるが)という認識が、責任というものの所在を曖昧化していく。それは不景気になった時にも経営者たちだけは責任を取らずに済むという事態となって顕在化している。
 言語が最も頻繁に使用される概念を下に全てを判断していくような思考傾向を私たちに賦与しているのは、実は最も権威ある筋がその概念を使用すればそれに右に倣えするような模倣の原理が私たちに染みついていることに起因する。ここにある権威ある言説に対して一定の信頼を寄せるという判断を正当化する私たちのごく自然な心理(それをニーチェは権力への意志と表現した)と、そのように偶像化された言説を、理からではなく、信用から引用する頻度を増加させる判断を正当化させる心理とは全く同じベクトルのものである。そして言語が最もこのように偶像化しやすいものである。
 例えばこれが音楽の持っているモードであるなら、それこそ十年というスパンが一つのスタイルが保持されていく限界だろう。コンディヤックが「人間認識起源論」においてかつて歌詞が主体であり、歌詞のない音楽が考えられなかった状態から今日の状態、つまり歌詞から音楽が独立していることも普通であるようにまで来るのには多大な時間的プロセスを要したという主張も、実は私たちにとっての言語の歴史における最も顕著なある性格を示している。(コンディヤックはギリシャで書く行為が詩的言語から発達したと考えている。)それは言語活動が進化していく上で果たした意味の呪縛である。しかし同時に彼は想像力を重要な柱として論を展開する。つまり古代の人類の方が、現代のように音楽的表現が複雑で完成されていなかったために些細な音楽表現上での進化に対して鋭敏な感性があったに違いないという推察からは、人間がより欠如した状態から、想像力を働かせ文明を築き上げてきたという歴史的真実を見据えている。彼はパントマイムのような身体表現的言語についても同じように捉えている。身体表現としてのマイムはしかし言語活動をするようになってからの人間による表現なので、非言語的言語以外のものではない。言語活動以前的には我々は果たして身体表現そのものが可能だったのだろうか?身体的な動きで何か感情を表現することもまた、コンディヤックの主張する想像力の下で、それなりに意志は伝わったのだろうか?因みにサルトルも想像力を重要視したが、彼もコンディヤックの考えていたような哲学の系譜にあることを物語っている。
 本来言語活動とは身体的行為であり、恐らく音楽的欲望とそう変わらないものだったのだろう。しかし徐々に社会形態が秩序化されていくに従って呪術的な発声行為は意味の伝達へと進化していった。そして意味が主体となり、音声的な唸りとか呻きといった音声そのもののクオリアは付随的な要素へと後退して、そこでは意志伝達という形での言語=意識的行為媒介という秩序が形成されていく。哲学でそういった考えを前提にして言語論を展開したものの典型としてコンディヤック以外ではルソーが挙げられるだろう。
 しかし繰り返すが、音楽は音楽的欲望と衝動によるものが発祥の起源だとするなら、音楽が歌詞に従属させられるようになるという社会進化過程とは、人間が音楽本来の欲望や衝動を忘れていく過程と言い換えてもいい。つまり逆に言語の方も、実は身体的に顕在する音楽的欲望とか感情といったものを根幹に据えていると考えることも充分に出来る。だからまさに言葉の歴史であると言ってもよい哲学の歴史は、同時に哲学が考える領域が言語だけではなく言語外的なものにまで及んでいるので、必然的に言語によって言語も、言語外的なものも記述する歴史だったと言ってもよい。だからこそ必然的に哲学には哲学固有の論理に内在する音楽性というものも宿っている(ニーチェは道徳も音楽だと言う)。
 プラトンが記述から発声による対話へ重点を移した(意味の呪縛の一例)のと逆にデリダが発声から記述へと重点を移したのは、god とdogとが前者の方が後だと言って辞書が出来た時大騒ぎした西欧人たちの見た現実と同じ風に理解することが出来る。今日我々は孔子の言葉も、プラトンやアリストテレスの本も、仏陀やイエスの言葉も、アウグスティヌスの言葉も、エックハルトの本も、デカルトも、カントも、フッサールも、ベルグソンも、サイードも、隣接した書棚に陳列されていて、その中のどれを選ぼうが自由である。それはテレビでたまたまつけたチャンネルで爆笑問題が司会のクイズ番組で、別のチャンネルをつけたら石田衣良が同じ時間帯に別の番組に出ていて、別のチャンネルを廻したら西川史子が出ていたことに気づくことよりももっと珍妙なことなのだ。それは時代も、国境も、思想的な乖離もものともせずにどれでも並列的に探すことが出来る。しかしこれはアカデメイアでプラトンが目指したことでもある。そしてそれは実現したし、実現することを見越して彼らは人間にとっての世界の在り方に内在する真理を記述したのだ。
 プラトンが唱えたイデアが意味の進化と歩調を合わせ、我々は「伝えるべき内容」の選択に骨身を砕くようになっていく。しかしハイデッガーが存在とその配慮に注目した。ハイデッガーにとって言葉は人間の個にとって不可避な歴史認識の道具であると同時に、行為も歴史だし、理性も歴史である。そして歴史は私たちが存在する証である言葉によると考えたわけだ。デリダはこの精神に深く傾斜する。
 「わたしたちが神に対してすべてをさらすならば、神はわたしたちにもまた神のもっているすべてを明かしてくれる」(「エックハルト説教集」中82ページ)とか「わたしたちが神に隠すことがあれば、神もわたしたちに隠すことがある」(同書83ページ)というエックハルトの考えの内には功利主義哲学にはない、そのように真摯に神や他者と接しても報われなかったにしても、そういう気持ちになれたことで悔いはないという心の充実への快、幸福追求の考えに対する決心がある。エックハルトの考えの基礎にはフレーゲ的経験主体の考えがある。このスタンスはレヴィナスにも受け継がれている。あるいはプラトンが天上のものとしたイデアとはこのようなものだったのかも知れない。だからプラトンの真意を汲んでいたのはカントのような例外は除いて哲学者よりは宗教家だったかも知れない。ホッブス、ミル、ベンサムがアリストテレス的系譜であるなら、明らかにカントもレヴィナスもプラトン的系譜である(中島義道氏はカントを反プラトニストと捉えているが、そうだからこそ系譜学的にはそうなのである)。ルソー、ヘーゲル、ニーチェらはそのどちらでもないと言えるかも知れない。私が第一章で述べた「伝えるべき内容」は、法的規制、社会的強制力、あるいは文化伝統的な良識や通念である。しかしそれは寧ろ理と対立していくものである。
 しかし「べき」を我々が考えるのは、ある理が通っていく時、その効果や波及力が予測し得る時に他ならない。プラトンと違ってプラトニズムが批判対象となるのは、プラトニズムの方がよりプラトンの効果や波及力を助長するように政治的に動いているからである。だから一つの言説や定説、あるいは閃きに対して警戒心を持ちそう容易に認可したり、受容しない(差別する)こともある程度仕方ないとも言える。事実偉大なものとは実害として作用することも多いからだ。しかしそれは昨今言われることの多い霞ヶ関文学ではないが、「論語」中巻第三 擁也第六.一八 の言説に示唆的である。

 子日、質勝文則野、文勝質則史
 文質彬彬、然後君子

 子の日わく、質、文に勝てば即ち野、文、質に勝てば即ち史。
 文質彬彬として然る後に君子になり。
 
 先生がいわれた、「質朴さが装飾よりも強ければ野人であるし、装飾が質朴よりも強ければ文書係りである。装飾と質朴さがうまくとけあってこそ、はじめて君子だ」
 
 文書係り_「史」は朝廷の文書を司る役人で、典故に通じて文章の外面的な装飾をつとめる。

 形式か実質か、凡庸で安全な言説を善しとするか、偉大だが危険な言説を善しとするかは各人の主観に拠る。孔子は君子に対して書かれた心得書きでもあるので、理解することが困難なところもあるし、プラトンのようにその波及力に危険性があるのではなく理解や応用実践の仕方に危険性が潜んでいる。
 私はこのエッセイ風論文をこう始めた。
 「私たちは言葉という規約、規制に取り巻かれて生活している。恐らく現代人は言葉の力を借りずには何一つ社会を生きることも何一つ行動することも出来ないだろう。これは一日中誰とも話さずに過ごすデイ・トレーダーにしても変わらない。」
 これは実は古代、いやもっと人類が発祥した頃からある程度決定されていたことなのかも知れない。
 私の知人に絵を趣味で描く人がいる。彼はリタイアする前はテレビヴァラエティー番組の美術の仕事を監督されていた方だ。その人はあまり本を読まない。そして活字そのものをあまり信じていないというスタンスを取って生活している人である。しかしこの生き方ほどある意味で言葉に呪縛された生き方はない。そもそも絵画とは一つの言語活動であると例えば哲学者の永井均氏も認めている。(「なぜ意識は存在しないのか」より)しかしそれだけではない。それは言語に対する不信を抱くという心理自体が既に言語に絡め取られていると私は思うからである。
 それは最近のことを振り返ってみても、「あなたとは違うんです」と言って辞めた政治家のことをその業績からではなく、その言葉と態度で後世まで記憶する人が多いだろうことや、靴を投げられて辞めていったどこかの国の大統領にしてもその我々にとっての印象の持ち方は同じである。彼もまたその靴をよけたその所作という行為性という型に押し込めた言語的認識において記憶されるのだ。そしてその印象はそれまでにどんなに素晴らしい業績を挙げても、リタイアする時に持ってしまった以上我々はどうすることも出来ない。勿論その後継者にしてもどんなに幸先よく期待されても、辿る運命は演説の巧さと実質的手腕とが一致しなければ恐らく似たり寄ったりだろう。(そうでないことを祈る)
 だから仮にテレビもラジオも一切かからない孤島で過ごすことを決め込んで生活しようとしても、それこそ言葉の呪縛に絡め取られているという意味では言葉の力から自由であるわけではない。
 出版社の多くは経営難であり、自費出版を強力に推し進めていきたいと願っていても、本質的なムーヴメントという意味ではネット社会には太刀打ち出来ない。つまり尼僧で著名な文学者までもが一時携帯小説を試み圧倒的なアクセス数を獲得したがすぐに止めてしまったというが、携帯による配信とか、ネット配信といったことに纏わる波及力そのものが既に言語認識から逃れられないという我々の運命を示している。私自身何年も新聞を取っていずニュースは全てネットを利用しているが、その事実が既に私もまた言葉のネットの中にいることを示している。
 絵画とか舞踊とか舞踏のような表現手段においても我々は言語から自由になってそれらを鑑賞しているわけではない。絵画を鑑賞する時にも我々は言語的思考を巡らせているし、舞踊や舞踏を見てもそこに言葉を見出す。それは送り手にしても変わりない。
 だが我々の前に歴史的に残っている文化遺産における言語の在り方はそれらの認識とは少し違う。例えば孔子が素晴らしい人物であったかどうかことはあまり大した問題ではない。そのことは次の「論語」の一説が見事に語ってくれている。

 子日、君子不以言學人、不以人發言
 子の曰わく、君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず。

 先生がいわれた、「君子はことばによって(立派なことをいったからといって)人を抜擢せず、また人によって(性格が悪いからなどといって)ことばをすてることをしない。」

 真実徳がその人にあるかどうかでテクストが文化遺産として残っているわけではない。ハイデッガーが積極的にナチスに対して協力的であった事実は彼の哲学の本質を歪めることはない。尤も私の挙げた例だけでは正確ではないかも知れないが、行動もまた性格の一つとして解釈することも可能だろう。勿論言説と行動の一致において歴史に残っているものもある。ハンナ・アレントはその一例だろうし、レヴィナスもそうである。そこへ来ると、孔子の言説とされる「論語」中の幾つかのものは、現代社会の様相を考える時、時代の違いをまざまざと感じさせる。例えば次のようなものである。

 (巻第二 里仁第四)
 子日、古者、言之不出、恥躬之不逮達也

 子の日わく、古者、言をこれ出ださざるは、身の逮ばざるを恥じてなり

 先生がいわれた、「昔の人がことばを〔軽々しく〕口にしなかったのは、実践がそれに
追いつけないことを恥じたからだ。」

 (巻第二 里仁第四)
 二四 子日、君子欲訥於言、而敏於行、
 子の日わく、君子は言を訥にして、行に敏ならんと欲す。

 先生がいわれた、「君子は、口を重くして、実践につとめるようにありたいと望む。」

 (巻第三 公治長第五)
 子路有聞、未之能行、唯恐有聞、

 子路、聞くこと有りて、未だこれ行なうこと能わざれば、唯だ聞く有らんことを怖る

 子路は、何かを聞いてそれをまだ行なえないうちは、さらに何かを聞くことをひたすら恐れた。

 現代社会は有言実行が当然のこととなっている。不言実行は寧ろ説明責任を蔑ろにしていることで、古いとされる。私はその現実を半分仕方ないと思い、半分戦慄を覚える。つまり言語的認識のごく初歩的で規約的な呪縛から現代人が自由ではないことから、その自由でなさを説明で補うことは致し方ないと思うと同時に、一切の言説を行なわない者を暗黙に絞め殺すような雰囲気があるからである。私は沈黙を美徳とも思っていなし、本を読まないこともいいことだと思わないし、責任転嫁の巧妙な成員だけが他者から一切の揶揄を受けないような社会通念が罷り通っている現代社会では、特に自己防衛的に言説を自己流でもいいから携えていることがマナーである(それをしない無垢を美徳として考えることも私には出来ない)と考えているが、実行することの本質に対して見極めることを億劫になり、先例の政治家の業績からではなくメディア上のイメージで判断してしまう私たちの現実に戦慄を覚えるのだ。
 つまり現代社会では専門性があまりにも細分化されてしまっていて、領域侵犯的行為とか学際的行為は、接触領域に対する配慮と、大衆に対する啓蒙精神によってメディア化され、イメージ化されざるを得ない。劇場型政治は何も云々劇場と呼ばれたかつての宰相にのみ賦与される特権的イメージではなく、寧ろ劇場型政治や、イメージ戦略の否定とか批判においてさえ成立している。つまり反体制とか、市場原理主義批判とかの言説の中に既に劇場型政治、メディア戦略型社会の様相が組み込まれているのだ。しかし九鬼久造の「<いき>の構造」のタイトルを土居健夫氏がもじって、現代社会を「<甘え>の構造」であると命名した瞬間本家取りの戦略の中に、ネット化された言葉の魔力を素直に認め受け容れる姿勢が示されている。
 しかし僅か数年前に席捲した言説が容易に覆され、しかし新聞の一面の見出しや様々なコピーやキャッチフレーズには主張する世間一般の考えの豹変とは裏腹に語呂的な覚えやすさ(キャッチーさ)だけは踏襲しているような人間の音楽的欲望に対する配慮はどんな経済状態で、どんな社会通念が罷り通っても変化しない。つまり常に同じ思考回路で違う局面、違う倫理に対処しているのが私たちなのではないかということだ。例えばサルトルは「存在と無」で崖の上に立った時に、そこから身を投げてしまう自分の衝動に対して恐れ戦く描写が登場する。実は私もホームに電車が来る時、いつもここで身を投げたならどんなに楽だろうと思う。つい最近ある老婆が私の自宅からの最寄り駅のホームを降りて線路内をしかも電車がやって来る方向へてくてく歩いている姿を見て、急いで駅員を呼んで止めさせた。私にとって衝撃だったのは、そこに居合わせた女子高生(彼女たちはひそひそその姿を見ながら笑ってさえいた)をはじめ、大人の誰もが彼女の行動(恐らく自殺したかったのだろう)に対して止めようとしたり、駅員に報告しようとしたりしなかったことである。(その時いた女子高生たちは恐らく「女の幸せが欲しい」などと担任の先生に告げて顰蹙を買う勇気など微塵もないだろう。)これは現代人のヒューマニズム云々以前の行動学的規範が崩壊している証拠である。
 例えば「論語」中の次の一説を読者諸氏はどのようにお考えあろうか?

 (巻第四 述面第七)
 子所雅言、詩書執禮、皆雅言也

 子の雅言する所は、詩、書、執礼、皆雅言す。

 先生が正しい言語を守られるのは、詩経・書経〔を読むとき〕と礼を行なうときで、みな正しい言語であった。

 正しい言語_古注に従う。伝統的な由緒正しい言語。新注では「常言」と解して「ふだんにいつも話題にしたこと」となる。

 これは言語的認識とか、言語的説明責任とか、要するに公的なこととして、孔子が考える規約ということにおいて理性論的に正しい言語の使用方法を踏襲することはよいが、そのように社会行動の知において正当であることを把握する以外の局面では理路整然なこと、あるいは理性とは必ずしも全ての規範とはなり得ないという主張のように私には思える。例えば今私の目前に溺れかけている子供がいたとしたら、私はそれが私に助けられる範囲の状況であるなら、助けようとすだろうし、それが出来ないのであれ救援を要請すべく何らかの行動を採るだろう。言葉の正しい使用法というテーゼは緊急事態にはどうでもいいことである。意志が伝わることの方が大切である。つまりこのような臨機応変な考えの内に逆に言葉の正しい使用法という概念が生きてくるのではないだろうか?言葉に関する記述は「論語」ではかなり多く、次のようなものもその典型である。

 (巻第七 子路第十三)
子路日、衛君待子而為政、子将 先、子日、必也正名乎、子路日、有是哉、子之迂也、 其正、子日野哉由也、君子於其所不知、蓋閾如也、名不正則言不順、言不順則事不成、事不成則禮樂不興則刑罰不中、刑罰不中則民無所措手足、故君子名之必可言也、言之必可行也、君子於其言、無所 而巳

 子路が曰わく、衛の君、子を待ちて政を為さば、子将に をか先にせん。子の日わく、必ずや名を正さんか。子路が曰わく、是れ有るかな、子の迂なるや。 ぞ其れ正さん。子の日わく、野なるかな、由や。君子は其の知らざるれば即ち礼楽興こらず、刑罰中らざれば即ち民手足を措く所なし。故に君子はこれに名づくれば必らず言うべきなり。これを言えば必らず行なうべきなり。君子、其の言に於いて、苟しくもする所なきのみ。

 蓋閾如たり_「蓋し閾如す。」と読むのがふつうであるが、蓋閾如は踧踖如などと同じ双声畳韻の形容語である。

 子路はいった、「衛の殿さまが先生をお迎えして政治をなさることになれば、先生は何から先になさいますか。」先生はいわれた、「せめては名を正すことだね。」子路はいった、「これですからね、先生のまわり遠さは。〔この急場にそんなものを〕どうしてまた正すのです。」先生はいわれた、「がさつだね、由は。君子は自分の分からないことはだまっているものだ。名が正しくなければことばも順当でなく、ことばが順当でなければ仕事もできあがらず、仕事ができあがらなければ儀礼も音楽も盛んにならず、儀礼や音楽が盛んでなければ刑罰もぴったりゆかず、刑罰がぴったりゆかなければ人民は〔不安で〕手足のおきどころがなくなる。だから君子は名をつけたらきっとそれをことばとして言えるし、ことばで言ったらきっとそれを実行できるようにする。君子は自分のことばについては決していいかげにしないものだよ。」

 衛の殿さま_衛の出公のこと。述而篇第十四章(中略著者)。孔子が「正名(君臣父子の名分を正すこと)」をいったのは、出公が父と争っていて国中の名分が乱れていたからである。
 名が正しく_名と実があっていること。父は父として、子は子として、
 儀礼や音楽が・・・・・_『孝経』に「安上治民は礼より善きはなく、移風易俗は楽より善はなし。」とある。礼楽が衰えると刑罰が適切を欠くようになると考えられた。
 君子は・・・・・_この結びは、子路の失言を戒める意味を持っている。子路は衛に仕えていてその内乱に巻き込まれて死ぬ。

 分からないことは黙っているものだ、という一説はソクラテスを彷彿させる。名とは形式、言葉は概念、仕事は責任遂行、儀礼や音楽は責任によって獲得する自由、刑罰は刑罰と考えればいいと思うが、儀礼や音楽ことを、人間の音楽的欲望と考え、儀礼という形式を名の形式とは違う人間の意識を鼓舞したり、和らげたりするものと考えると、刑罰という法秩序的執行という責任遂行は、人間の内的自由の領域がそれを保持するために必要悪として刑罰を科すことを意味するのだろうか?つまり精神の自由を確保するために法的に逸脱した者を刑罰によって制裁し、社会の安寧を図ることなのだろう。
 また「論語」の中の次の一説は最もソクラテス的である。

 (巻第一 為政第二)
 子日、由、誨女知之乎、知之為知之、不知為不知、是知也

 子の日わく、由よ、女にこれを知ることを訓えんか。これを知るをこれを知ると為し、
 知らざるを知らずと為せ。これ知るなり。
 
 女_皇本・清本では「汝」。両字は通用。(著者省略)

 先生がいわれた、「由よ、お前に知ることを教えようか。知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする、それが知ることだ。」

 孔子もソクラテスもプラトンも社会の動乱期にその考えを熟成させたというところに共通性があると思われるが、一切その種の歴史的解釈は専門家に譲るとしてここでは何故そのように時代が離れた二つの思想に共通点が見出せるかに焦点化して考えてみよう。
 
 靴を首脳に投げつけるのも、通り魔殺人を携帯メール予告するのも、その連鎖的に頻発することとは、模倣性に軸を置いている。行為を言語的に認識しているのが私たちだが、その言語的認識の基本は模倣である。言語脳科学者が考えているように言語が思考を、思考が言語をインスパイアしている。ネットで瞬時に駆け巡る情報、メールの書き込みの応報、全ては言葉から連想する行動の模倣である。
 パソコン市場では不況の煽りを食らって多機能パソコンから機能を極度に絞り込んだ低価格パソコンが主軸になることもまた株式市況に関するニュースであったり、新聞の記事であったりする。世界経済の動向という不可避が既に言葉のネットによるものである。
 ワルター・ベンヤミンは「パサージュ論」において住を基本としたパリの都市生活について、建築、デザイン、流行文学、市民によるアンティークの趣味といったことに目をつけ、様々なタイプの記述から引用し、時々自分のメッセージを挿入するスタイルでコラージュ的な論説を試みているが、その手法は明らかに既に出揃ったメディアを思考するために活用することで、様式美に対する言及となっているが、彼が本当に描出したかったのは、住を基本とした人間の深層心理なのである。それはプラトンが地下に閉じ込められた囚人が見た地上の姿の影を実体だと思っていたという有名な下りに示された実体と虚との関係で言えば、実際のモードが虚であり、実体は心の中の欲望だということだ。
 その欲望は現代社会ではロングテールビジネスにおいて大勢の人たちが一つの売れ筋の商品を求めている事実に対応するのではなく、個々の消費者のオタク的なニーズに対応して様々な商品を取り扱うというアマゾンなどの戦略などに見られるような欲望の一元化からの開放の意図もあったと思われる。
 かつて女性は深夜まで働くことなどなかったが、コンビニが24時間営業となってからは夜間に働く女性ことはタブーではなくなったが、昨今犯罪にコンビニが狙われるケースが多くなると、再びコンビニの24時間営業に関して待ったをかける考えも提出され、京都はいち早く実践しようとした(結局実現しなかったが)。
 つまり人間の新たな欲望は、何かそれまでに欠如していた状態が充足されると更新される。そしてその新たな欲望に対応した新種の犯罪が登場し、それを今度は防止する意図で新たな措置、新たなメディアや販売戦略が考案される。
 例えば竹中平蔵氏のニュースヴァラエティー番組中の言葉を借り「テレビは究極のワンフレーズ力だ」としたら、それは何故影響力が絶大であるかと言うと、「あなたとは違うんです」もそうだが、少し前では「弟です、息子です」がそれこそ問題化された時期には毎日何度も繰り返し映像が流された。それはプロデュースサイドの、そして局全体の意向だが、その反復から私たちはよりショーアップされた現実、つまり劇化された現実を目の当たりにする。そしてそれは完全なる受身としてである。そこでインターネットが存在理由を確保しているのは、ユーザー個々の意志でアクセス出来るからである。しかしテレビは絶対に観ないという人でない限り、ネットの現実はテレビの提供する現実と相互に影響し合っている。例えばネットで検索することは意外とテレビで得た情報を更に詳しくという形でなされることも多い。そしてテレビで頻繁に登場するタレント、コメンテーター、司会者などが示すメッセージが反復されることでその発信者の知名度をアップさせ、その有名な発信者によるメッセージが親和力を獲得していく。そして実際に会って話したりする時に持つ親和力や、友人と知人に対する親和力とメディア偶像や、メディアで偶像化された言説(「究極のワンフレーズ力」もそうである)との境界が曖昧化していく。親密度の指数の高い人物の発する効果的なメッセージは社会そのものが主客という形で形成されているという認識からではなく、より異なった要素を抱いた存在者たちが共存しているという現実(ハイデッガーの言葉を借りれば存在への配慮)、あるいは主従という形ではない相互依存という現実を基礎としている。そして現代のオタクとはその共存と依存の裏返しとしての自愛が基礎にある。
 本論に何度か登場した写真や映画といったメディアは純粋な視覚的メディアではない。絵画が実自体に対する内的な実という形での虚的実現であるのに対し、写真は実そのものを絵画手法によって示すのではない形での実自体の虚である。そしてそれを顕現されるものは機械という主観の欠如したメディアである。映画はそれに動きが、そして次世代では音まで加わった。そしてそれらのメディアが持っているのも親和力、つまり「見慣れたものを見慣れた仕方で知覚する」という欲求と願望の実現である。肖像画として描かれたモデルは、その絵を描いた作者とモデルの関係で見られることが多いが、写真に撮られたモデルは(報道写真であっても記念写真であっても)より撮影者よりモデルの実にまず目線が行く。(特別の腕の写真家によるものでない限り)そして写真で撮られたモデルが実際に目撃されることは、絵に描かれたモデルが目撃されるよりも虚と実の一致において前者の方が「本人であるための確認」上での信憑性が大きいことも手伝って、テレビに出演しているタレントやコメンテーター(ドラマの演技ではない形での発言等を通した)のメッセージがより強力に社会に対して波及力を持つのは、この信憑性と、映像を通して日常化される親密度である。
 ヒューバート・ドレイファスは「インターネットについて」で次のよう述べている。

 アリストテレス以来われわれは、より広い集合の下位により狭い集合を包摂するヒエラルキーを作って、その中に情報を組織するという習慣を身につけてしまっている。そこでわれわれは、事物から生物、動物、哺乳類、犬、コリー、ラッシーへと下っていくことになるのである。情報がそうした階層的なデータベースの中に組織されていれば、ユーザーは意味の環を辿って下り、特定の情報に行き着くことができる。その代わり、ユーザーはその情報を見つけだす前に、情報が属している特定の情報クラスに身を委ねることを強いられる。例えばもし私が亀に関する情報を見つけだそうとすれば、私はまず動物に対する関心に身を委ねなければならないのである。そして、一旦、データベースの中に動物系統へのコミットメントがなされたならば、私は、すでになされたコミットメントを逆に辿ることなしには、無限に存在するはずの他の問題に関する情報を調べることはできない。
 
 ここで示された考えは、哲学者の中島義道氏が大森荘蔵氏との対談での次の考えを私に連想させる。

 (前略)そこに馬が見え「馬」という名前を知っているからその物体にその名前を張りつけるという話ではなくて、むしろ馬という観念を知っているから、その物体が馬として見えてくるんですね。もし、馬という観念を持っていなければ、動物として見えてくるんでしょうね。動物という観念もなければ、物体として見えるでしょうね。物体という観念さえなければ、多分何も見えないでしょうね。全体に光の渦が巻いていて、何も見えない世界が広がっている、これがもしかしたら実在かもしれないわけです。(「たまたま地上に僕は生まれた」128ページより)

 この記述はだが極めて矛盾している。まず私たちは親しいものに対して命名されたものとしての自覚を持ち、然る後にその親しいものが何に属するかことを知る。物体を知り、そしてその中に動物もあり、その中に馬があるという順で知るわけではない。中島氏は完全に二十歳以上の大人の判断のみを哲学の基本としているから、そういう理念の上でなら理解出来るが、それは言語習得や生成論的にはナンセンスである。つまり馬という名指しとは親しいものを見て知ってそれを何と言うかということで対応させてまず知り、然る後に動物、物体と徐々にカテゴリーを理解してゆく(そこまで理解出来たら、馬そのものが観念であることも理解出来る。)が、全体的なカテゴリーを理解出来るようになっても、親しいものの存在理由的特異性は失われない。また最後の「物体という観念さえなければ、多分何も見えないでしょうね。全体に光の渦が巻いていて、何も見えない世界が広がっている、これがもしかしたら実在かもしれないわけです。」という記述は言語のない我々の世界に対する想定であるが、やはりそういう中でも漠然とした親しいものとそうではないものとの間の識別は恐らく可能であろう。ただそういう場合には確固たるカテゴリー的な記憶はなされないから、随時判断することだけの現実となり、常に不動の観念に支配されているというような状況は私たちに齎されないだろうからそれを現実と認識することも出来ない。
 ただ中島氏の主張で頷けることは、要するに言葉を身につけることが知覚を成立させているということである。言葉を身につけることがカテゴリー認識することと一致しているのだ。その意味ではネットの検索とはカテゴリー認識を形成しつつある子供のためにではなく既にそれを了解している大人のためのものであり、アリストテレス的カテゴリーは先に私が述べた親和力とは対立する。そして責任とは概してカテゴリー認識によるものである。つまり私には家族がいる。そして親友もいるし、ただの知人もいる。しかし私は私の家族や親友を愛情や友情の面では最優先しても、責任の面ではそれほど親しくはない人に対しても、親しい人と等価に払う必要もあるし、義務がある。それが社会の成員として生活することだし、公的なこととを私的なことと区別することだ。
 「女の幸せが欲しい」と女子中学生が公的に発言出来ないという気持ちは、それがかなり親和力のある内容のものだからである。最近ではテレビでも自分の母親のことを「お母さん」と言うタレントが多いが、韓国では他者に向けても「お母様」と言わなければならないが、日本語では本来親族とか同一集団の成員のことを他者には「母」とか例えば「内の藤村」と言う。つまり公的な場とは責任を遂行すべき場であり、家庭内とは愛情が第一に発揮される。故に「女の幸せが欲しい」と仮に娘が母親に向かって言ったとしても、母親ならその時「お前の気持ちはよく分かるけど、未だお前には早い、今は勉強をもっと一生懸命しなさい」と言うかも知れないし、「よく分かるわ。でも皆の前では特に先生の前なんかではそういうことをあまり言ってはいけないわよ」と言うかも知れない。つまり親和力とは公的にはタブー視される傾向があることだ。それはどこかで親和力がエロスと接触しているからだろう。だからあるタレントとかコメンテーターが異様な人気を博すことの内には彼らが何かしら性的なニュアンスに対しての親和力を発散しているとも言える。ここら辺の問題は社会生物学系列の生物学者たちによる性選択という考え方がより説得力を持つだろうが、ここではそれ以上は触れない。
 何故そのように時代が離れた二つの思想に共通点が見出せるか、ということの一つの回答を述べよう。私たちは既に人類発祥の段階から恐らく固有の他者に対する羞恥を介在させていた。そのことが例えば私が示す「女の幸せが欲しい」という発言を女子中学生に対して公的な場では憚らせるのだ。そして親和力とは人間がただ責任の遂行だけでは息が詰まるという良心(良心とは人間性というものをどこかで本能と直結させている)の側からの要請で、やんわりと唯責任論に対して抵抗しているのである。そしてこの良心の要請というところに親和力が介在するのだ。つまり親和力は公的な場で唯一許されるやんわりとしてソフィスティケートされたエロスの表現なのである。だからテレビで人気を博すタレントとかコメンテーターたちの所作がそのやんわりと示す固有のエロス表現があまり猥褻感を醸し出さないというところに我々に魅力を感じさせるのかも知れない。それは話題にしてもいい範囲内の存在なのだ。 

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