Wednesday, October 21, 2009

第十章 差別意識が発生すること

 差別とは本当のところ、差別される側が差別されたという意志を無意識の内であれ、意識的にであれ表示してしまうことに端を発するのではないか?つまり差別されたという意志を表示する行為自体が、差別する者に、意図的に差別する知恵を植えつけたのである。
 例えば職場ではそもそもベテランは新参者に対して差をつけたがるし、それはある程度仕方のないことだ。しかし新参者が差をベテランからつけられることによって新参者が不愉快であると言ったところで、新参者はベテランに代わって仕事をすることが出来ない。だから新参者に対するベテランによるいじめとかそういうことは殆ど人類の曙から恒常的なことだったろう。そういう風に差をつけられること自体が一つの問題としてクローズアップさせられてきたのは、ここ一世紀の間のことかも知れない。
 奴隷制のあった国でもなかった国でも恐らく何らかの形で人間社会に特権階級と、そうではない人との間での差というものは常にあっただろう。しかし差別というのは何らかの意味合いにおいて、差別されているという意思表示が比較的スムーズに出来る状態になってから顕在化したのであって、それ以前の、つまり差別を訴えることなど思いも寄らない状態の社会においては、たとえ行動において差別することがあったとしても、それを殊更差別であると訴える者など一人もいないという状態も多くあったと思われる。そういう状態の社会では構造的にも差別意識とか、差別問題がクローズアップされることすらない。しかしだからと言って、差別問題そのものがクローズアップすることによって、より差別される側がそれ以前の状態よりも救われるかと言えば、それは寧ろ逆で、差別されることをある他者に対して規定することそのものが既に差別であるから、差別とはそのように問題化すること、クローズアップすることそのものに存していると言えるだろう。
 例えばLGBTと呼ばれる性の問題にしても、そのような悩みは恐らく人類の発祥の頃からあっただろう。ただそれが一つの社会意識として定着することの背景には、そういうことに対する差別という意識が芽生え始めた恐らく近代という時代が必要だったのかも知れない。王政とか、貴族社会においては、寧ろそういう性の問題は恐らく多くの国では皆知っていても、一々問題化することなどなかったろうが、産業革命以降、徐々に働く者、とりわけ労働者階級が権力者から付与された職業意識を身につけるプロセスにおいて、差別意識を自らの誇りと一体化させて権力の側から認可された労働者の特権として、社会貢献している者に賦与される当然の権利として権力の側から積極的に黙認されていったのだろう。
 日本には貫通罪というものが廃止されて久しいが、韓国では未だにそれが通用しており、それだけ見ても貫通罪というものが一つの法による差別を意味しているように思われるが、それがいつ頃からあったのかは歴史家に教えていただきたいものだが、かなり古くからあっただろう。
 要するに差別とは、普通であるという意識がある種の誇りと一体化した段階で発生するのだ。要するに普通ではない状態に対して普通者たちが「あれは普通ではない」とそう規定するのである。
 しかし社会意識の変遷に伴って常に普通というものの定義は変わる。不変のものではない。そこでその時々で当然差別される立場の人の差別される理由も変わる。
 しかし難しいのは、差別する側が差別される側に差別することを促すものが、いじめと全く同じで自分が差別されたくはないという恐怖心自体であることだ。いじめは端的にいじめる側によるいじめられる側に対する小さな恐怖に根差す。当然差別もその点では同じである。
 例えば性の問題の場合、誰しも同性愛的傾向も、両性愛的傾向もある。しかしそれを殊更声高に自分もそうだと宣言することに対して多くの人はただ躊躇を抱くだけのことである。そしてそれを声高に叫ぶ、そうであって何故悪いと叫ぶ勇気のある者に対して叫べない勇気のない者が「そんなことは止めろ」という意思表示として差別し始めることは考えられる。「お前がそんなことを叫ぶのなら、俺が黙っていることに示しがつかなくなるじゃないか」という非難が物事の本質について叫ぶ者を諌める立場の人の心理なのである。そのような本質追求的なスタンスに対する端的な恐怖が差別を構成するのだ。
 だから「女の幸せが欲しい」などと恐らく多くの女子中学生も心の中では抱く。しかしそれを口に出す生徒がいてそれを黙認したたままにしておくと、自分もそのように告白しなくてはいけなくなることに対する恐怖が、世間一般の生徒の本分という通念によって、正直な生徒を爪弾きにしていくという仕掛けである。
 本質を追求することとはいつの時代にも疎まれることなのだ。
 しかし面白いのは、最初に本質を叫ぶ不心得者を糾弾する成員というのは、彼以降にそうする者よりは多少の勇気が要る。つまり最初のいじめ者とか、最初の差別者は、二番目以降の者よりは勇気が要るのだ。そこで一番勇気のある本質を叫ぶ者を諌める立場に立った二番目に勇気のある者を三番目以降の者が立てることによって自分の安泰を保証しようとするのである。全ての付和雷同はこの点では一致している。ある意味で全ての権力とはこのようにして発生していったのかも知れない。権力とは必ず権力から弾き出される犠牲者を必要とすることだ。
 それに一つの差別が克服されると今度は全く今までにはなかった新しい差別を作り出すのが人間である。それはまるで新種のウィルスのようにどんどん更新されていく。そして常に差別される立場を作り出そうとしている立場の人というのは、そうすることによって常に自分だけは差別されないような立場に自分を持っていきたいこと以外の心理にはない。
 ある意味では差別することがいけないことを一番実践しているのは本当の意味での宗教家だけかも知れない。例えば科学者は科学的真理に疎い者を知らず知らずの内に差別しているし、哲学者もまた非哲学的思考の人間を差別している。芸術家は彼らにだけ理解出来る芸術的なモードやクオリアを理解し得ない者を差別するし、政治家も、経済人も、ビジネスマンも全てその世界での非常識者に対して差別する。その差別そのものがいけないと考えているだけでも宗教家は偉い。例えばオタクや引き篭もりについての記述を真に理解するのは彼ら以外の人たちである。従って私がもしこの論文を私と似たようなオタクや引き篭もりに向けて書いているとするなら、それはサルトルが「存在と無」を理解し得る者はそれが奨励していることを実行することの出来ない人たちであるというジレンマを味わったと似たようなことを味わう運命にある。しかし宗教家なら私より巧く効果的に、しかしそれを戦略的ではない形で私が伝えたい人へと私が伝えたいことを伝えるだろう。(第十一章参照、次回更新予定)
 例えばマスコミというものは社会が差別したいと望む者に対して全て差別を決め込む。それはそうすることで全ての責任、責任には本質追求もあるのだが、それを回避することが出来るからである。(だから社会から糾弾された者の失点を追い討ちをかけるように報道する。最近では朦朧会見大臣の辞任以降の報道に顕著だった。氏が急死されたこと二間しては哀悼の意を表したい)端的に差別する者の意識に最も顕著なことは、差別意識は責任を負いたくないことに責任を負おうとする者に対してなされるということを差別者がよく知っていることなのだ。つまり責任転嫁とはそれだけで一つの差別なのである。責任を負いたくはないと思っている者が、責任を自ら背負い込む者に対して責任を極度に押しつけることそのものが小さな差別以外のものではない。
 しかも性の問題における差別とは、それが羞恥の問題に抵触しているからなかなか厄介なのだ。羞恥レヴェルの本質に対する追求者に対して、追求回避主義者たち(かなり殆どと言ってよい人たち)は、概して羞恥的なことをそう声高に叫ぶなとそう言いたいのである。「お前が叫ぶから、俺も叫ぶことをしないでいると勇気がないと言われるじゃないか」ということは既に言った。もしこれがもっと生活レヴェルの権利要求であるのなら、勇気を捻出することも勇気のない普段叫ばない人さえある程度容認するかも知れない。しかし羞恥的な部分のこととは、そうは問屋が卸さないのである。つまりそれは個人的なことだから、勇気を持つ必要がないとそう多くは感じてしまうのだ。またそれは責任を持つ必要もないと感じることでもある。例えば貧乏であることを蔑むこと自体があまりよくないことは殆どの人がそう感じているのに、性的な快楽とか、性的な安心感の個人差について差別することそのものに対してひどく嫌悪を感じるという人間は貧乏人に対して差別する人よりもかなり少ないというのは事実である。だから多くの性的に正常ではないと自分で思っている人たちは自ら名乗り出ようとまでは思わないままでいることが多いだろう。
 勿論性的な問題においては昨今かなり表立った差別は影を潜めてきた。しかし表立って差別することが影を潜めていることは差別がなくなったことを意味しないのは当然である。例えばアメリカで奴隷制が廃止されてから黒人に対する差別が本当の問題となっていったように、影を潜めてからが、本当の差別が誕生する時期に入ったと言ってよいのである。私の中にも差別したくはないが、知らず知らずに誰かを差別していることに気づく瞬間がある。そしてその時私は端的に何かに対して怯えているに違いないのである。つまり自分以外にその怯えに対して勇気を持っている人がいることを薄々気づいていて。

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