Friday, October 2, 2009

第一章 言葉が発せられることの本質とマスコミの責任④

 しかしこのことはある意味では言葉の持つ真理がどうであるかよりも、ある言葉が責任遂行可能と目される行為者の発言である故に理解出来るとか、その割には理解出来ないといったその行為者の在り方に相応しいといった、発言の適切性が重要であるとして問われているのであり、決して言葉の真理として問われているのではないことをも意味する。つまりある正しい発言は、それを述べた人によって信頼され、そうではない人が述べたのなら信頼され得ないという事態をもこのことは招聘する。
 このことは社会全体の通念から言えば、言葉が発せられることの本質が、その言葉の発話者自身の行為責任に随順してその適切性が問われるだけではなく、言葉の示す真理までもがその責任問題によって規定を受けることを示してもいる。つまりだからこそマスコミは、それらの発言を次から次へと繰り返す背景へと敢えて常に自分自身を後退させて、そういう背景的役割であることを積極的に心がけるようになる。このことはマスコミが一切の責任を問わないことは、誰かが犯罪の被害にあうその間際をただ目撃しているだけで助けようとしないでいること自体はモラル的によくないことであると皆知っていても、そのこと自体は罪に問われることはないこととどこか似てはいないだろうか?
 しかしもしある言葉の発言者とその発言内容を報道したり放送したりするのに相応しいものとする行為と行為者の責任をチェックすることを私たちに可能としてくれること以外に発言者たちの「伝えるべき内容」だけではまくその背景の在り方までをも規定する(ある発言に対してこれこれこういう考えを持っているとか、それはよくないとかいいとか判断する)ことがマスコミ自体の責任になったとしたなら、今度はマスコミそのものが絶大な権力を保持することへと繋がるだろうことを実は私たち自身が一番よく知ってもいるのである。このことは個の発言の自由と、マスコミ自体への集団的規制(それをするとそれもまた一つの権力的介入こととなる)がないことが実は背中合わせとなっていることを物語っており、しかもその事実を我々自身がマスコミの在り方とは所詮そういうものなのだから、致仕方ないと割り切っていることも示している。
 そうなると個々の行為者、つまり責任遂行能力に関する被認定者の発言自体が彼(女)の内部でいかに思考され、その発言へと至るまでの胸中でどのようなことが想像されたかとは無縁に評定され得るという現実そのものが、どこかでは「その発言をするに相応しい発言者の社会的行為、つまり権威というもの」とちぐはぐな関係になる気がする。つまり一方で私たちはある発言に対してその発言をした者の行為や社会的責任を盾にその正当性を問いながら、他方その者がどういう動機でその行為をなしたかことには構いはしないことはどこか無責任な感じを読者はお感じになられないだろうか?それは一方で発言の背景を問いながら(つまり発言の言葉の真理からではなしに)、同時に結果よければ全てよしというご都合主義が透けて見える気もするからである。それならいっそ前者を完全に放棄し、誰がどういう発言をしてもその発言で使用される言葉の真理からだけモラル的にも、是非についても判断すべきではないだろうか?
 つまりここに次のような真理が見えてきた気がするのである。
 
<言語の持つ思考・想像の自由無限が権利として与えられていること=マスコミという 背景、つまりそこでする発言の持つ内容制限が自主規制的に私たちの内部にあること=行為責任者のモラルが問われるのは責任問題としてであり、権利問題としてではない>
 
 という図式の下で全ての現実、つまり私たちの行為、行為責任、発言、発言内容の信頼性というものの関係が編まれていることになる。

 言語的思惟の自由無限性(思考・想像の自由)はそのまま私たちがマスコミを野放図なものにしている根拠となる。そしてその背景という「地」に対して、責任が発せられる言葉が現実を決定する「図」として立ち現われるという寸法である。
 私たちは<>内のことを当然のこととして受け容れて生活している。そして公の場では決して言ってはいけないことというのは、端的に黙っているだけで皆想像することくらいならすることであり、ある社会にとって有益な行為をした人に対して我々は賞賛するし、その人の発言をそれが通り一遍のものであったとしても尊重する一方、社会にとって有益な行為をしたと認定されていない人の発言に対しては一切その言説自体に真理があったり、内容が有益なものであったりしても尚、殆ど省みられることがないことと、責任ある者の発言がその責任に相応しいものであるかどうかという判定基準が暗黙の内に私たちに刷り込まれていることは全て同じことの違う現われである。
 責任ある地位にある人なのだから、そんな愚かなことを思考・想像することなどない筈だとか、大した発言でもないのに言った人の顔を見てなるほどと思ってしまったりする功労者や実績ある人に対する幻想が私たちの中には少なからずある(だから何か大きな賞を取った人に対してそれまでは何の関心を示さなかった人までが急に先生と呼んだりする)が、そのことは「伝えるべき内容」にばかり関心が注がれているために発生する問題であり、言葉の仕組みに対する関心さえあれば、あるいは言葉とはそれを利用する者の行為とか実績とは無縁に真理を示す言葉とそうではない言葉があるのだという現実にさえ眼を向ければ、私たちはある発言に対してその発言自体が発言者の経歴とか実績とかとは関係なく有益なものであるか否かという判定基準だけで向き合えるのではないだろうか?

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