Wednesday, September 30, 2009

第一章 言葉が発せられることの本質とマスコミの責任③

 つまり私たちはこのマスコミの幻想を「それはマスコミの言うことなのだから」と敢えて直接言及することを避ける形で主体的に受け容れている、あるいは潜在的には誰しもマスコミのこの幻想に疑念を抱きつつも、それはもうどうしようもないと諦めていることに問題の本質があるように思える。つまりマスコミというものを我々は既に音楽やスポーツを享受するように、あるいはそれらを伝えてくれるものとして信頼し過ぎており、その存在の不可思議さを敢えて問おうとはしないのだ。それは言葉の仕組みを問うことを一切せず、「伝えるべき内容」にだけ全ての関心を注いでいることと全く同じ構造である。ここに全ての問題が集約されるように私は思う。
 勿論現代社会では既に一切新聞を取らずに(事実私ももう何年も新聞を購読していない)インターネットだけで全てニュース的情報を摂取している人も大勢いる。しかしそれでも尚新聞をはじめ、テレビというメディアの影響力は絶大である。あるいは本章の最初に述べたことに戻るが、活字を見、他者と言葉を交わすことことが一切ない状態では、全ての現代人は生活することが出来ないという事実、そしてその際に私たちが言葉を発するという現実自体を既に肯定していて「伝えるべき内容」に対する関心に全てのエネルギーを注ぎ、では何故そのように言葉を発することを肯定するのかという問い、つまり言葉の仕組みについて一切問うことを放棄しているという現実・事実に立ち戻る。
 私たちは活字依存症なのだろうか?あるいは文字や言葉に依存するという現実は、誰かが発話することを聴いたり、誰かが書いたものを読んだりしないでは生活することが出来ない、あるいはそうしなければ我々は耐えられないという生理的な問題に過ぎないのか?
 
 私たちは通常何かを想像する時視覚的なことを脳裏に思い浮かべる。そしてそのものは想像の中で動いたり変化したりする。対象が人間であれば発話し、行動し、その姿を想像し、そこに出来事の推移自体を想像しようとする。その想像を支える私たちの能力は、物語作成能力ではないだろうか?つまり私たちは何事を理解する時も、全て「お話」としてそれらを理解しようとする。その物語の作成能力は、何も作家とか小説家といった人たちではなく、普通の職業の人たちでも全て日常でしている。まず仮定法とか、そういう思考法すらも既に物語作成能力だ。それは「もし~が起きたなら、私はこうするであろう」という仮の話だから、一つの物語である。物語作成能力とは、だから言語的な理解の基本としてある。そしてこの言語的理解は、責任問題からより我々に既に与えられている能力なのだから、当然権利問題として問われるべき筋合いのものである筈だ。
 しかし実際には私たちは何度も繰り返してきたように、「伝えるべき内容」の方に常に全神経を費やしており、既に言葉の仕組み自体を見据える努力を必要だとさえ思っていない。だから勢い私たちはこの言語的理解という本質を問う時に、「伝えるべき内容」という形で処理する関心において責任問題として考える癖がついてしまっているのである。
 言語自体はあらゆること、つまり善悪、モラル・インモラルの全てを表現することが出来る。あるいはそういう風に全てを表現出来るものとして私たちは言葉を扱ってきた。
 すると逆に責任とはあらゆる表現可能な言葉に私たちが与えた能力の中から、私たちのその場その時のニーズに応じた「相応しいとされる」語彙、伝え方、表現というものを選択するという、選択の適切性の問題において考えられることとなる。表現選択、伝え方の選択、語彙の選択の適切性などである。
 となると、マスコミが一切責任を取らないこと、つまり自らの能力の限界を我々に告げることをしないことに我々もまた一切の異議申し立てをしないままでいることの本質が、マスコミが私たちにとって一つの言語環境であるという認識が私たちにあるという事実から捉えるとより全ての問題がクリアになってくる気がする。要するにそれは言語を発する環境の一つなのだから、今更その在り方をどうのこうのと言って論っても所詮どうすることも出来ないのではないかという判断をつい私たちに強いるものであるのなら、それはマスコミを、権力さえあればいつでも自分にだって利用出来るものであるという幻想さえ私たち全てが抱いているという可能性さえ射程に入れて考えねばならないこととなりはしないだろうか?
 つまりそのことは裏を返せば、マスコミに登場する一人一人のタレントやコメンテーターやアナウンサーや有識者たちとは、個々の彼らによる発言の責任は問われ得るが、その背景となるマスコミ自体の責任は一切問われないままで別に何の支障もないという風に、まるでマスコミを私たちが「自然」に接するように既にその存在位置を理解していることを意味する。
 ここでちょっと纏めておこう。今まで考えてきたことを箇条書きにして纏めると次のようになる。

① 私たちが「伝えるべき内容」に感けていて、言葉の仕組みについて問わない理由は、私たちが責任問題に感けていて、権利問題について問う心の余裕を失っているからである。
 
② 私たちがマスコミを私たちが生物として生活する自然環境のような意味で発話したり文字に接したりする生活を可能にする言語環境であると認識しているのは、私たちがそれをいつか自分でも利用出来る(見る側だけではなく出る側として)という幻想を抱いているからであるが、その幻想はマスコミが私たちに与えているのだが、そのようなものとしてマスコミの存在の仕方を望んでいるのは実は私たちである。
 
③上のような現実を支えている言葉とは、だから責任問題として問われる前にまず権利問題として、言葉の実存を見据えること、つまり諸刃の剣的な言葉自体に私たちが付与している能力の在り方をもう一度見直す必要がある。

 もう一度責任問題から見た言葉の問題を捉え直してみると、私たちは権利として与えられた思考・想像の内のほんの限られたもののみを発話することが責任上求められていると知っている。要するに思考・想像の無行為性の持つ固有の無限展開に対する中断という意識は、あまり無意味に色々なことを思考し、想像するだけである心の状態は不健康であり、精神衛生上よくないという考えによるものである。「考えてばかりいないでまず行動せよ」とよく言うのはそういうことだ。つまり言語的思念の一時停止は責任問題上必要とされていると言ってよい。「働かざる者食うべからず」とは、要するに思考・想像という権利ばかり貪っていたのでは、義務とか責任を放棄することになるという思想がある。つまり思考・想像にストップをかけることは、責任を伴う行為への決心ということだ。要するに私たちは思考・想像の堂々巡りを実は責任、あるいは責任ある行動という原理によって回避していることになる。しかもそのようにしてなされたある社会行動に対して一定の評価を下すことの内には、行為者の価値を固定化することによって、ある個人の同一性を責任問題において判定しようとしていることを意味する。 では何故私たちはこのように行為者の価値を固定化しようとするのだろうか?それは今言ったように私たち一人一人の同一性を他の成員と区別するためであり、その区別の仕方自体が、社会責任という行為目的の名において成員を明確に認識しやすいと我々が思うためである。そこに職業が成立する基盤がある。またそのように個々の成員を区別することを通して発言者A、Bの発言内容を、彼らに対して社会が認定した同一性に相応しいとか、不適切とか判定することを通して、要する責任問題において彼らの存在を認識しようとしているのである。要するに社会責任においてある発言者の発言内容を判定しようとすること自体が既に発言内容の根拠や存在理由を、社会の側がある特定の個に対して認定した同一性に当て嵌めて発言者の発言を認識していることを意味しており、発言者が社会に求めている自分に対する同一性認定というものがどうあろうが、そんなことは社会からすればどうでもいいことである。

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