Monday, September 28, 2009

第一章 言葉が発せられることの本質とマスコミの責任 ②

 つまり言葉とは、それを使用する時に、誰からも非難されることなくそつなくあらゆる場面で切り抜けることを心がける器用な人がいることは、言葉が実は極めて危険な面も持ち合わせており、それは毒にも薬にもなり得る、つまり諸刃の剣的な性格があり、そのような言葉の特質に対して本能的に危険を避けることの上手な人は「伝えるべき内容」に関してはそつなくこなすのに、逆に言葉の仕組みそのものに対しては案外無関心のまま生活していることが殆どではないだろうか?
 この日常的真理のような事実は、要する一つの問いへと収斂していくように私には思われる。それは言葉を道具として使用する者の責任と、言葉だけの責任でその場の体裁を取り繕うこととは、常に全く正反対のことなのに、その二つは常に一緒くたにされ、私たちに言葉の持つ本質として語りかけていながら、そのことに対して我々は案外無頓着であることは、どうしてなのだろうか、という問いである。つまり言葉だけの責任でその場の体裁を取り繕うこととは無縁に生きたいと誰かが願うとしたら、それは言葉を道具として使用する者の責任を真剣に考えていることを意味する。つまりこの考え方は、言葉というものをもっと重いものとして考えようということと同じだ。しかし言葉自体は実は行動ではなく、あくまで発話だからこそ、その固有の軽さというものも持っており、それはもう一つの言葉の持つ本質である。
 「お前は人が言う些細な言葉を気にし過ぎる」とか「他人が言う言葉尻を捉えて、非難するものではない」などと多くの人たちはそう言葉に神経質すぎる人に対して諭すという場面を私は多く目撃してきた。
 つまり前者の言葉そのものをかなり重い、真剣で責任を伴うものであるという考えより、後者の言葉とは軽いものだからあまり言葉だけに拘り気にすることはよくない、もっとそんなことに神経質にならずに生きていった方がよいという考えの方が本質的なのではなく、前者の考えをなおざりにしているが故に後者の考えが生じていると私は考えているのだ。
 しかしもし前者の言葉の持つ責任だけを考えて生活していったら、親しい間柄、家族とか同僚とかの間柄でも冗談さえ言えなくなるという事態も想定し得るし、かなり窮屈なことになるだろう。事実私たちは軽い会話さえままならないようなタイプの他人と話した後というのは、凄く疲れるし、そういう相手に対して妙に普段より気を遣い、粗相のないように身を引き締めているような日に、帰宅して睡眠に入ってから、その者と接している時にはタブーとなっている言葉などを平気で言っている夢を見たり、その者に対して夢の中では大胆な態度をとったりしていることもよくある。夢というものは概してタブー視して覚醒時に誰かと話している時には決して言葉としては漏らさずにいるような内容、つまりタブーな内容の方が実に頻繁に登場するものだ。
 つまり人間は実存論的に言っても、生物学的に言っても通常インモラルであるとされることをも含めて想像する能力をどのような善良な人間でも兼ね備えている。と言うよりそもそもモラリスティックであることは人間本来の生物学的能力とは全然関係ないことなのだ。そしてこの人間のモラル的に言えば不謹慎な能力こそがある緊急な事態には私たちの身を守ることを可能にしているとも言える。だから本当はこの能力に感謝しなくてはならないのに、その能力が悪く発揮されたケースだけを憂慮して、その能力そのものを否定しようとすることさえある。そして当然のことながら、その能力自体について真剣に考えようとしないままでいることの方がずっと多い。
 つまり与えられた一つの能力、つまり想像力が諸刃の剣として作用するとしたなら、それはモラル的に不謹慎であると言うだけのことであり、端的にその不謹慎さそのものを生み出す能力自体は私たちにとって最も本質的な問いをも生み出すものであると言えると思う。つまり何事かを不謹慎であるとする判断を支える能力は、端的にその不謹慎さをも生み出す能力でもあるのだ。しかし私たちは意外と、このモラル的であるか否かという判定を大事にし過ぎ、この諸刃の剣である能力自体に対して何ら不可思議であるのにもかかわらず真剣にそのものと向かい合うことを避けているように思える。
 例えば通常歴史にifを想定してはいけないとされてきた。それは一面では正しいかも知れないが、それはしかし言葉を換えれば、私たちが常にそういう想像を一つの歴史的事実に対してなすという現実を物語っているわけなのに、その現実に対してあまり私たちは普段真剣に考えようとしないのは何故なのだろうか?これは端的に科学はただ単に事実学だという認識に対する信奉が齎す弊害ではないだろうか?つまり事実的(暗記的)歴史に対する見方だけを正しいとしておけばよいことではないのか?
 このifの想定の禁止には歴史をあったままのものとして直視するという記述自体の責任問題として問われ続けてきた気がするのだ。しかしそれは直ちに私たちの権利問題に直結するというものでもない。例えば歴史的事実とは常にその時これこれこういうことがあったという事実だけで見るべきであるかも知れないものの、常にその歴史的事実は今現在から見てどういう意味を持つかでしか判定され得ないし、また事実意味も持たない。そしてその今現在から見て過去のある事実の価値や存在理由はとは、端的にその都度変化していくことは避けられ得ないし、またそれでよいのではないか?それは歴史相対論と言ってもいいかも知れないが、これはそう言ってしまうよりは、もっとずっと今現在を常に優先すべしという考えに近い。
 それに私たちは通常言葉を発せず沈黙しているだけなら、そしてその時どういう想像をしていても、その内容を他者に報告することさえしなければ、一切誰からも咎められることなどないことを私たちは共通して与えられている認識である。それは一つの社会的規約というよりも、もっとそれ以前的な意味での暗黙の了解なのであり、それをも一つの権利問題として我々は理解しているが、それは一体何故なのか?その疑問は「このifの想定の禁止には歴史をあったままのものとして直視するという記述自体の責任問題として問われ続けてきた気がするのである。しかしそれは直ちに私たちの権利問題に直結するというものでもない」ということの中に登場する権利問題とは一体何なのかことを問う際によいヒントとなる気もするのだ。
 つまり私たちは生活する上で、生きる上で責任問題と権利問題という二つの全く異なった認識間の奇妙な共存関係という現実に常に直面しているのだ。この事実をどう捉えるかが、今述べた黙秘権のようなものをも権利問題としていることと、責任問題とそれは一見矛盾するかのようにも思えるが、その二つが奇妙にも共存しているという現実が一体何故発生し得るのかという問いを少しでも解決へと導いてくれる鍵となると思われる。
 そしてそのことは私たちが一方で言葉とは重いものだからその一言一言に対して責任を持たねばならないことと、ほんの軽い一言で人の全てを判断してはいけないとか、他人の言葉尻だけを捉えてその人の全人格を判断するのか間違っているという全く相反する言説を両方とも時と場合によって使い分け、その矛盾に対して何ら異議申し立てをしないできているという私たちの現実に対する問いともなる気がするのである。
 
 責任とは「~までなら出来る」と他者に告げることが、それがいかに範囲が狭くても、そう告げることで自分が今持つ現実的な能力以上の責任を明示し、必要以上に自分の能力を他者から過大評価されることを回避しつつ、問われ得る責任の範囲を予め限定しておくという知恵は権利問題の範疇である。実はこのことは極めて重要である。
 もしその者が何か周囲の期待ほどには責任を全うし得ないで終わったとしても、予めそう責任の範囲を本人が限定し、そのことを我々が認めた上でその者に何か責任を果たすべき地位へ彼を赴かしめている場合、その者を責めることは我々には出来ない。それは責任が責任を負うと明言した場合にのみ発生し得るという性質を備えていることを物語る。
 と同時に我々は責任の範囲を、何かの役職に附帯する過大な幻想、つまり「あの人は偉い人なのだから、一々こちらから言わなくてもそれくらいしてくれる」とか「あの人は偉い人なのだから、そういうことをするわけがない」とかいった通念、これは欧米人よりもより日本人に多く見られるものであるが、それをもって責任以上の責任をその者に課す(この考えは呪術社会によく見られたパターンである。豊作祈願のために雨を降らせることを可能とする祈祷師に全ての権利を委譲しておきながら、いざそれが叶わないと、その者を追放したり、ひどいケースでは殺したりしたこともあったと言う。フレーザーの「金枝篇」にそこら辺は詳しい。このことは第二章で詳述する)ことは衆愚的な発想であり、感情論的には発生しやすい社会状況もあり得る(昨今の経済危機時などはまさにそうである)が、それは責任問題の範疇では厳密に否定されておかねばならないとも言える。
 しかしマスコミは一切そうではない。これからが本章の本質的な問題である。その責任問題において、マスコミは「~までなら出来る」と我々に告げることそのものをしていない。つまり「~までなら出来る」ことは、「~以上は出来ない」とか「~以上は一切責任を持てない」という明示と全く等しいわけだが、それをしていないのである。ここに私がマスコミというものに対して言及した疑念の本質がある。 しかしもっと始末の悪いことには、マスコミのそういった在り方に一切私たちが異議申し立てをすることをしないどころか、寧ろ積極的に「何でも出来る」とマスコミ自体が我々に与えている幻想を有難く受け容れていることである。このことの方がより私たちにとっては大きな問題なのである。

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