Sunday, September 27, 2009

第一章 言葉が発せられることの本質とマスコミの責任 ①

 私たちは言葉という規約、規制に取り巻かれて生活している。恐らく現代人は言葉の力を借りずには社会を生きることも行動することも何一つ出来ないだろう。これは一日中誰とも話さずに過ごすデイ・トレーダーにしても変わらない。
 言葉の最も私にとって不思議に思えることがある。例えば今二つの語彙が目の前に与えられたとしよう。(幸せ)と(女)である。これをこの順のまま普通に繋げると、「幸せな女」となる。しかしこれを逆にすると「女の幸せ」と繋ぐことが出来る。こちらの方は前のと比べると明らかに独特のニュアンスを帯びている。これに(欲しい)を加えると、二つだけの時よりもニュアンスはもっと複雑になる。
 (幸せ)、(女)、(欲しい)と来れば、「幸せな女でいて欲しい」と繋げたくなるし、
(女)、(幸せ)、(欲しい)と来れば、「女の幸せが欲しい」と繋げたくなる。こちらは俄かに更に独特なニュアンスを帯びる。このようなことを中学生の女子が担任の先生の前で告げたら、その先生は必ずや苦虫を潰したような渋い表情をすることだろう。
 しかし私たちは日頃言葉というものの持つこの種のマジックに対して自覚的ではない。つまり私たちは生活する上で、言葉をその仕組みからではなく、それを使って「伝えるべき内容」として考えている。このことに私は最も不思議さを感じ続けてきた。そしてこのことが本論の主旨の一つでもある。
 しかし学問的にはこのことは言語学者や哲学者たちによって実は昔から延々と論じられてきている。だからそのことが私にとって問題であるのは、そういった問いそのものが現代人の生活の中では決して大きな存在理由を持たないことにある。
 例えば最近18歳の青年が火事の際にお年寄りを救助して警察から表彰されるということがあったが、色々血生臭い猟奇的な通り魔殺人事件の多発した暗い世相の中で、心温まるニュースとしてご記憶の方も多いことだろう。事実私もあの青年に頭の下がる思いをテレビのニュースを見て感じたものだった。
 しかし私は小説家なら、こういう時折角助けたお年寄りが、その後にすぐ自動車事故で亡くなってしまうことを想像するのではないかと直観的にそう思った。そしてもしそういうことがあったなら、さぞかし助けた青年は残念な気持ち抱くことだろう。しかしそこから何か小説のヒントとなることがあるかも知れない、そう小説家なら想像するに違いないと私は不謹慎にも、あの心温まるニュースを聞きながらそう想像したのだ。このようなことを告白すると、私はお叱りを受けるかも知れない。しかし概して小説家とか哲学者といった人たちは常にそういう想像をすることを通して想像力を研ぎ澄ましつつ、ひょんなことからいいアイデアが浮かばないかと身構えていることが多いと私は思う。つまりそういうことに自ら心の中で規制をかけない、そういうタイプの人の集まりを世では小説家や哲学者と位置づけていると私は思う。そしてこういう人たちならこのようないいニュースがあった時にこそ「そういう想像をすることが肝心なのだ」と思うだろう。そして続けて「ではマスコミとは一体何なのだ。何か悲惨な事故があってその時はテレビの視聴率を稼ぐために視聴者の関心を釘付けにしておきながら、その事故で重体になった少年少女のその後の経過を必ず報道するとは限らない。例えばその翌日にもっと視聴者の関心を惹きつけるニュースがあると、途端にそちらの方に報道の関心を移行させ、そのことに関する報道ばかりを優先し、前に報道したニュースのその後の経過などはそっちのけにして、一切報道をすることさえしない場合も多いではないか」と言うだろう。
 心の中で不謹慎な想像をすることを、攻めるなら、寧ろこういったマスコミのその場限りの無節操な報道姿勢の方をこそ問題にすべきではないのか?
 私もこの意見にある程度賛成である。要するに適切な言葉の使い方と、適切な「伝えるべき内容」は、すぐ傍らに際どい言葉の使い方や、あるケースにおいては不適切で不謹慎な印象さえ与えるかも知れないような言葉の使い方とか、「伝えるべきではない内容」と常に隣接していて、それはちょっとした不注意から、その言葉を吐いた人に多大なロスを課すようなものであることに私たち日頃から注意してかからなくてはならない。たった一言の不注意で社会的地位の全てを失う人さえこの世の中にはいる。
 それに想像力においても、私たちは実に気の利いた想像以外に実はあまりにもそのことを公言すると不適切で不謹慎であるためにそういうことを想像したと長いこと黙っていたが、実はあの時私はこういう想像をしたのだ、と後になって親しい人にだけ告白することは、かなり日常的にあり得ることである。
 しかし私たちはそのような不適切な想像とか、不謹慎な想像を日頃意外と多くするのにもかかわらず、そのことを誰にも告げずにいたら、あるいはもし告げたとしても親しい間柄でだけ密かにであれば、誰も殊更大きな問題にしはしないだろうし、要するにこの言動という公的レヴェルにおいて適切であれば、私秘的な想像内容はいくら不謹慎で淫らであってさえ、そのことを誰かから咎められないで済むという現実自体殊更問い詰めることなく何となくやり過ごすことは、実は私たちの生活において極めて不思議な事実ではないだろうか?つまり私たちはある意味では言動において公的場でさえ粗相をしなければ、プライヴェートな場面では、特に気心の知れた間柄では多少不謹慎であってさえ、いやそうである方がより親しみが他者から持たれることさえあるという風に、実は極めて不思議な公私というものの使い分けと、公私の重要さ双方を共存させて生活している。 このこと自体は極めて不可思議なことであるのに誰も問題にしようとしないのは一体何故だろうか?つまり言葉とは、それを公的な場で発言すれば責任を問われるが、そうではなくその時々で責任を取ることさえしておれば、全体としてあまり適切ではないような生活を送っている者でさえ、そのことで他者から咎められたりすることなく生活していけるのに、逆にその時々では不謹慎極まりない発言するようなタイプの人間は、大概大勢の人から非難される。そしてそういう態度を人は往々にして無責任だとか、場を弁えぬ態度だと言って批判する。しかし私の経験では、このように粗忽で日頃は隙だらけの人間が、実はもっと大きな流れとか、全体的な適切さということにかけては大きな意味のある疑問を抱き、その問題が何てことなく誰からも省みられないままやり過ごされていることに皆の関心を抱かせることに関心があることの方が多い気がするのである。そして日頃は誰からも非難されることなく器用に生きている大勢の人たちは、往々にして大きな問題とか皆が関心さえ抱かないが、実は極めて重要な発見に対してデリケートな感性を持ち合わせていないこともまた多いと私は思う。

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