Sunday, October 11, 2009

第四章 憧れられる存在

 私たちは既にマスコミを当然の社会環境として受け容れて生活している。天気予報、株式市況、ニュース。それらマスコミを私は一切信じませんと言いながらも、そういうタイプの成員でもその存在自体は認めざるを得ない。
 印刷技術はグーテンベルグによって発明されて以来「あることに対する説明」そして少し時代がたつと、「自分の考え」や「私の考え」が印刷され、複数の同一記号として流布することで、それらの文字記号に示された考えは像となる。そして写真、映画、ラジオ、テレビ、インターネット、ブログの発明により更に像は、声、顔(表情も含めた)と更に像の範囲は拡がり、ある説明、考えや作品を創造する人間の内側に対する視聴者たちの興味に沿う形で彼らの日常生活や人生、生き方にまで受け手は関心を抱くようになる。これこれこういう生き方や生活を送る人からこのような説明、考えや作品が示され、生み出されているという因果関係をそれらの説明、考えや作品と人との間に我々は自然と読み取るようになる。ブログはそれを自分から率先してアピールすることが可能だ。
 しかし実は活字だけの段階であるテクストを創造した人々以外にそれを送り出した人々、つまり出版事業にかかわる人々の判断がつけ加わっていたように、それ以後の全て示された説明、考えや作品はそれを像として構成する人々の思惑が絡んでいる。つまり像をより少しでも「憧れられる存在」へと高めるような配慮が施されているのだ。
 しかし像がテレビになると、そこに出演する人物の像(役者であれ、アナウンサーであれ、文化人であれ、スポーツ選手であれ)受け手が抱く全体の印象の方が作品よりも先行してしまい、その印象に沿った説明、考えや作品が求められ、自然と当該の人々もそれを意識して作品を作っていってしまう。
 インターネットはテレビ文化に対する反省意識によって生まれ、ネット以降は視覚的な文字像がより鮮明化しブログはホームページなどに対する批判、つまり仲介者なしの情報発信という形で主張する。
 活字・ラジオ音声・テレビ映像・ネット配信・ブログ掲示板といった手段を通して私たちはそこに情報全体から個々の受け手が構成する像は自分以外の人々の多くが受け取る像自体に対する一般的認識というものを一方でしっかりと認識し、常に自分自身が抱く認識との一致点とずれる点とを双方理解する。
 つまりその一致点が好ましい印象である場合のみ、私たちはそれらの像を「憧れられる像」として認可する。そうでないものは自分だけが好ましい印象を持っていても、やがて流布されなくなってしまうだろうから自分の中からも脱落させていく。
 しかし世間一般に広く流布するタイプの像と、オタク的なものや専門的なものを含む、要するに特定の人々へと流布する像とは次第に別々のもの同士として、あらゆるメディアにおいて共存してゆき、前者はマスコミを席捲することもあるが、後者は世相の動向を前者ほどは敏感に反映せずに寧ろそういう広く流布するタイプの像の存在の仕方自体の批判体として存在してゆくものとなり、前者における「憧れられる存在」をそうであるようにする支持母体とは次第に分化してゆくだろうが、しかしそれらの間には無数の中間段階が存在しグラデーションを作ることは言うまでもない。しかし「憧れられる存在」は支持母体が多く存在すればするほど偶像化されてゆく。
 私たち人間はオリンピックなどをして金メダルを獲得する勝利者を作り出すような意味で、全ての像の中での「憧れられる存在」という偶像を常に望む。それは近頃の政治にはとんと関心がない、何故なら支持したい政治家が全くいないからだ、という意見そのものが、既に魅力ある政治家の存在を望む心理を反映しており、そこではただ政治政策の正当性だけではなしに固有の支持したくなるキャラクター、つまりそういう政治家像としての魅力を湛えた存在を偶像として求めている。それはヒーロー、ヒロインたちになるアクター、アクトレスたちへの贔屓や好き嫌いこそがある映画を観に行く動機であるのと寸分も変わらない。
 私たちは全て発信される情報(娯楽番組とか他の作品全てをも含む)に対して何らかのレッテルを貼ろうとする。発信者の同一性を社会的一般的認知の下に像としての存在理由=意味を規定しようとする。それは個人に対してもそうであるが、集団や法人組織に対しても等しく、それらを他と分かつものとして個的存在として認識するのだ。
 小説家誰それの小説やエッセイ、各種学問のエキスパートによる論文とか説明書、NHKのニュース、日経新聞の社説、~教の信者の告白本、~社所属の研究員の入門書、誰それのニューアルバム(ミュージシャン)、つまりそこにある個人、あるいはある集団に帰属するとしても、その集団一般の認知度とか世間からの信頼度というフィルターを通して我々はそれらの像の存在自体を認識する。ある作家は今度どこそこの出版社から出版したというように。つまり私たちの像に対する評定はそのようなある考えとか作品とか説明に対する、それらを成り立たせる背景から考えるメタ認知によって支えられている。つまりそのようなものとして一般的評定を何に対しても付与しようとする。
 またそうすることでその一般的評定を基準にして期待に応えるか裏切るかの判定をその都度何かの像に対して私たちは作り出し、判断し、それを自分と世間一般との間で一致点とずれる点を見出し、その都度私たちは自分の立ち位置を確認しているのだ。
 要するに私たちは発信される像に対する印象の持ち方、認識の仕方における自分固有のものと、世間一般のもの(その像が世間へ与える影響力を含めた波及効果をも考慮に入れた)とを常に悟性レヴェルで判断することによってその像の存在理由を理解しているのである。その理解とは多分に反省意識による。またそうすることで一々全ての像の存在に出会う度毎にたじろいだり、うろたえたりすることがないように未然に防止している。そのこと自体は惰性的なことであり、感動がないことだが、実際我々はそうして情報の全てに振り回されないように心がけている。
 それはある特定のジャンル、専門分野に対してもそういう態度で臨む。「私はスポーツに対してなら関心があるが、政治には一切関心がないのだ」というように考えるわけだ。しかし仮に政治に関心がないとしても、関心がないという形でその者は政治に関与している。それは何に対してもそうだ。つまり関心のあるものに対して関与しているばかりではなく関心の全くもてないものに対しても我々は無関心という形で関与している。
 私たちは恐らく何に対してもさほどの関心がないような場合ですら、世間一般では「憧れられる存在」が世間ではあることを認知する形でそれらに関与している。それは社会的認知度が高いとされるものに対する理解を通してである。さてその理解とは一般化された価値に対する存在理由が確固としていることに対する認知である。そしてこれは私たちが名辞に対してその名辞を利用してあらゆる言語行為・記述行為を履行する際の理解の仕方と極めて性格的には似通っている。
 つまりそれは、それを世間一般に流通する像として世間一般に流通する像として存在理由が認可されたものとして他者一般へと名辞として言語行為・記述行為の際に利用することで得られる効果に対する一定の自己内の信頼が獲得されていることを意味する。
 するとここで一つの効果に対する信頼によって、何物かの存在理由に対する認識や理解(例えばNHKのアナウンサーによるニュース原稿の読み方とか、日経新聞の社説とか、~社の発行する専門書とか)は支えられていることになる。つまり何物(発信される像)かに対する流布されている存在理由に対する認識と理解とは、それを利用すれば他者とコミュニケーションし得るという事実や事例に対する信頼が自己内で獲得されていることを意味する。つまりもっと簡単に言えば、自己内での認識や理解とは自分以外の他者一般にも概ね認識され理解されるであろうという自己内の判断が成立することであるし、その認識像・理解像を名辞として利用することで他者一般とコミュニケーションが可能であることに対する信頼があり、それは我々の人間性を構築する基盤として形成されている信念に基くのである。 
 よって「憧れられる存在」のような存在の仕方は、あるよく使用される言説、例えば昨今では「テンションが上がる」とか「テンションが下がる」とかYKとかいったその時代固有のラングである慣用句(イディオム)とか、言い回しとか、語尾上げ口調とか、要するにその時代に固有の理解しやすさとか阿吽の呼吸の得やすさなどにも該当するのだ。

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