Wednesday, October 7, 2009

第二章 モラルと制限、思考と想像(3)

 責任転嫁とは何か悪いことをして、その責任を誰かに押しつけるだけなら通常許されるものではない。しかし集団や共同体、社会全体に害悪を与えないように自分の責任が取れる範囲を明示するために、必要以上の能力があるように他者に見せかけることよりはずっと責任倫理に沿った言動であると言える。つまりここで言っている責任転嫁とは、あくまで自分以外のある行為の責任を全うする者に責任を委譲するという、未然に自分が無責任に終わることを回避する知恵のことである。
 しかし偶像崇拝的逃避とは、ある意味では常に完全には充足され得ないものである。何故なら常にどんな成功者であれ、功労者であれ欠点もあるし、通俗的な趣味があったり、思考・想像レヴェルでは別に何ら普通の人と変わりなりなかったりするからである。つまり全ての偶像崇拝的心理とは、挫折するべく運命づけられている。理想は理想でしかないのであり、責任遂行に相応しい美化されたモラルをそこに発見することさえ出来ないのが通常である。
 しかしマスコミは常に理想が彼方にあるかの如く吹聴しまくる。特にそれが酷いのが、政治に対する期待においてである。つまり現政権、現社会状況、現経済状況の全てに対して幻想を煽り立てるかの如く、「彼方にあるべき」理想の政治、社会、経済状況というものを暗に示し続けるのだ。それに同調するあらゆるコメンテーターやあらゆる知識人、文化人、アナウンサーたち。つまり今よりいい時代の到来を常に仄めかすことがマスコミの基本姿勢である。つまりそういう風に私たちの心理を常に先へ先へと想像させることを通して、マスコミ自体の責任を見え難くし何か常に外部的なものによって現状は阻まれているという風に私たちを認識させるように論調全体を持っていっているのである。
 何故そのようにマスコミが私たちの心理を一定方向へと注ぐように仕向けるかと言うと、実は報道や放映自体には実はさほどの実体がないことを何よりマスコミ自体がよく知っており、過大な影響力を持つこと、あるいは先にも述べたようにマスコミが絶大な権力を持つように思われても困るからである。またそのようなものとして私たち自身もマスコミをあたかも私たちを取り囲む自然環境のように自然な言語環境として設定してもいるのだ。
 私たちにとってのマスコミの在り方に対する心理基準とは、そこそこに偶像崇拝的逃避を成立させることが可能なように機能して欲しいし、同時に自分もいつかはそのマスコミを見る側ではなしに出る側として利用する機会が訪れる可能性があるという風な状態のものとして幻想されていた方が精神的にも不安を除去出来るということにある。要するに偶像崇拝的逃避自体を既にモラルとそれによる制限で私たちがマスコミに登場する頻度の大きい人の発言することを信頼して、そういう本を買う(それはお笑いタレントがヒット作を出すことも同じことである。それは庶民の味方という幻想をセールスポイントにしている)という行動において積極的に採用してもいるからである。それはそうならない可能性の方が大きいのに、いつかは自分もあのタレントのように、あるいは自分もいつかはあの文化人のようになれるかも知れないという仄かな幻想を自分に与えてくれるものとしてマスコミ全体の存在感を位置づけておきたいという心理でもあるのだ。またそういう心理でいることによって内的な思考・想像は自由であるべきだという権利だけは保証されているという安心感を得てもいるのだ。
 所詮マスコミは、自分の生活とは直接関係がないことをも含めて、例えば国会や政府が決定したことを報道したり、そのこと自体を批判したりすることが自由な場であることを承知しており、マスコミは常に社会全体のムードを反映するものであり、それ自体は実体などないと私たちはどこかで冷めた目を持っている。しかし自分のこととか、自分の将来のこととなるとそうはいかない。人間が他者の死を経験して悲しいと感じる理由とは、その死者とは二度と生者としては会えないことだけではない。その死者の生前、私とその者しか知らないことというのがあったとして、その者が今は死んでいる以上、今は私以外の誰もそのことを知らないことの意味とは、あるいは私以外ではその死者だけがその死者が生前に私と過ごした時間に対する記憶を持ち、今は私によってだけ保たれているという事実の意味となり私が死ねばそのことについて語ることはおろか、記憶している者さえいなくなることに対する漠然とした恐怖、つまり生きていること自体が幻影であるようにさえ思われる寂寥感ではないだろうか?
 それは端的に自分の死がそれだけ一歩近づいたことでもあるが、それだけでもないだろう。その者にしか示さなかった私の態度や、その者にしか話せなかったことがあるとしたなら、その者は私にとって唯一の私のある部分の目撃者であるのにもかかわらず、その者が不在であるというのは、それだけである私の部分の死を意味する。
 そうであるなら、尚更「伝えるべき内容」を、その都度修正しているような日常からおさらばしてもっと「語り合うべき内容」があるのではないかと私たちは奮起すればよいのに、なかなかそういう決意へは至らないものだ。それは何故か?それは端的に自分の死というものを直視したくはないからである。だからその死という事実に対する思索からの逃避こそが言葉の仕組みを考えることを回避させているのだ。そもそも言葉の仕組みとはそれ自体で死と隣接している。そのことはしかし次章で詳述することとしよう。
 この論文の最初に第一章で述べた女子中学生が「女の幸せが欲しい」と彼女の担任の先生に述べたとして、そのことに対してませた中学生だとその生徒を叱責するとしたら、本当はその担任の先生こそが最も非哲学的な考えであることは明白である。と言うのもこの世の中には一度も結婚することもなく、いや成人することもなく何らかの理由によって死んでいく魂たちが大勢いることを全く考慮していないからである。
 私は教育者ではないから、そういう機会に恵まれることなどないだろうが、もし私が中学校の教諭でそういうことを私の生徒が言ったとしたなら、「そうか、そうなるといいな。そのためにもしっかりご飯を食べて、きちんと勉強もして、今は立派な大人になるように努力しろよ。」とか言いたい気分である。
 本来中学生の女子が「結婚をしてお母さんになりたい」と言わず、「女の幸せが欲しい」と担任の先生に言ったとしても、それが社会的害悪ということなど一切ない筈なのだ。そういう言説を忌避し得る風潮が社会にあることの方が問題なのである。そしてその発言に対して顰蹙を買うのは大人だけである。その発言をはしたないとか、恥ずかしくないのかと言う大人こそが、彼ら固有の羞恥に端を発して、ことの真実、つまり誰でもいつ何時突然死するかも知れないことに対して、あるいは幸福と縁がない人生も多く存在すること(尤もそれは「女の幸せ」とはどういうものであるかことに対する判断の問題へと帰着するのだが)に対する認識を全く欠如している、あるいはそういったことを通した人生全体に対する見識を全く欠如しているとしか言いようがない。
 しかしそれにも増して「幸せな女」という記述をより、「女の幸せ」よりもまともな「伝えるべき内容」としている理由というのが、その言説には一切のエロスとタナトスが感じられないこと、そしてそういうエロス的、タナトス的な言説というものは概して避けるべきであるという社会通念が蔓延っていることの方が極めて私には不可思議に思える。
 つまりより無味乾燥な言説の方が、社会的責務とか社会的責任を負わせる人間に対して附帯する発言として相応しいという観念そのものが私には極めて陳腐なものに思えるのである。それこそがモラルとその制限による観念である。つまり「女の幸せ」という言葉とか記述がモラル上ある琴線に抵触するのは、他でもなくその言葉の持つ仕組み、そしてその仕組みを通して私たちがその言葉に与えている意味そのものの持つ思考・想像の内的な自由を想起させずにはおかないという事実に拠るのであり、社会通念としての「伝えるべき内容」というものが、あるいは責任レヴェルの言説というものが生み出される際に、責任とモラルが手を組んで社会において平穏な状態を一瞬でも破壊すること自体に恐怖するという私たちの心理に根差している。
 しかしそこへ来ると、全てのアート、文学、哲学は本来その平穏な状況の破壊を旨とするものなのであって、従ってそれらはモラルと責任の結託という社会性とは対立するものであり、言葉の仕組みにかかわっている。逆にモラルの側からすると、マスコミが「~までなら出来る」、「~以上は出来ない」と明言することとは、マスコミ自体が言葉の仕組みに言及することとなるから、その本来の「伝えるべき内容」の範囲から著しく逸脱することを余儀なくさせるので、それは出来る相談ではないのである。何故ならそれを明言することは、マスコミの存在理由を生きていることそのものの本質に対して無力であることを宣言することとなるからである。ジジェク的に言えば、私たちはそういう内実があたかもそうではないように振舞ったり、装ったりすることをマスコミ自体が求めているというより、そういうものとしてマスコミを期待する。何故なら生の本質に対して何より個々が勝手に内的に思考・想像の自由において考えればそれでいいし、そのことを私たちは知っているからである。つまり私たちは知っているのだ、マスコミ自体が一切の思考・想像の自由とは無縁のモラルと制限という私たち自身の要請によって成立しているのだということを。
 
 だからアーティスト、文学者、哲学者たちにも私たちは偶像崇拝するかの如く、そこに自分にとっての理想の姿を見たいと望む。科学は客観的観察結果という実証性を求めるので、好き嫌いというレヴェルでは推し量れない基準で私たちは望むが、自分の生について、死についてとなると、やはり主観的なことであるし、それ以上に私秘的なことである。それ故自分の感性にぴったりくるテクストを選択したいと望むのは自然なことだ。しかしあるものに対して気に入ってしまい、他のものへは眼が向けられないようになることは実はかなり危険なことであり、憂慮すべきことなのだ。何故ならそもそもアートや文学や哲学といったものは、思考・想像の自由という内的なアナーキーに対する暗黙の賛美だから、それはかなり各個人の偏見も含まれるし、たった一つの考えや感性に毒されることはよいことではない。それだけではなく崇拝される創造者の側に立てば、それら本来の存在理由からしても、美化され偶像化されることは、それらの持つ抵抗とかニヒリズムとか諦念とか、要するにネガティヴな叫びであるパワーや本来の主張が無化され弱化されてしまう運命を辿る。これはテクスト創造者、作品創造者にとっては極めて避けたいことである。
 しかしにもかかわらず、私たちは彼らのテクストや作品を偶像化し、教養というモラルと制限に当て嵌めようとする。これもまた行為者の価値の固定化を通した彼らの創造物に対する同一性の認定ということだ。
 カントが権利問題として内的思考・想像における自由のレヴェルから晩年志し、未完に終わった責任問題(とりわけ内的なものとしてではなく、対社会的なものとしての)への視点をヘーゲルは内的自由をカントさながら踏まえた上で考えたと言える。
 ソシュールとフッサールは書記(シニフィエ)に対する能記(シニフィアン)のレヴェルから考えた。その際ソシュールはラングを、フッサールは生活世界を取っ掛かりとした。
 ハイデッガーとバタイユはそれが死と隣接していることに対する覚醒から考えた。しかし言葉の仕組みの持つ不可思議は、実は言葉を道具として他者と接する実存者の内的な発話意図の背景となる思考・想像の自由を巡る羞恥の問題でもあった。サルトルはそのことを僅かながら直観していたが、彼の興味は社会への企投としての自由、そしてそこから誘引される行動であった。
 しかし羞恥が自らを根拠に「伝えるべき内容」を選択するその仕方は個々の存在者で異なる。しかし羞恥が外部へと向けられる眼差しとその外部発信時に対処する仕方の個人差とは、そのまま権利問題としての思考・想像の自由の確保という社会性に起因する。つまり羞恥はその確保として、それ自身を原羞恥としながら、全ての成員がその確保を確約するための共同体システムとして原音楽行為として成員間の、ヘーゲルが言った主体的法設定意識を結集するように仕向けてもいるのだ。つまり羞恥が社会を作り、その社会が羞恥を守るのだ。その対処の仕方として存在するのが個別住居であり、プライヴェートな時間である。そして個別住居居住行為への個々の権利が相互規制的なモラルとして主体的な発信制限を促進し、それでいて表現の自由は、それとは別個に設定する。要するに「何を言ってもよいわけではない」からこそ、「どう表現してもよい」表現の自由という権利を我々は自身に与えているのだ。しかし幾つかのケースにおいては表現の仕方次第では「伝えるべき内容」以上の伝えられる側及び、伝える内容に登場する側に対する衝撃を与えてしまうことを忘れてはいけない。特にこれはマスコミに対して言えることだし、マスコミに迎合するタイプの考えで行動している人間にも言えることである。

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