Sunday, October 25, 2009

第十二章 偶像と差別

 私たちが日常において何らかの判断をする時、その判断を支えるものとは意外とよくあることに、たまたま起こったことを結びつけている。たまたま起こったこと自体がかなりいいことであれ、悪いことであれそれを特別のこととして受け取ると大変なことになり身が持たない。だから本当に特別なことというのはいざという時にだけ取っておいて、それ以外はよくあることにしておくことが私たちが日常で取る態度である。よくあることというのは顕著な真理である。そしてそれは私たちが責任を負うことを拒む時にすることである。よくあることだからこそ、一々全ての他人の物言いに気にしないでおこうと思うのだ。だからいじめはなくならないことが前章の結論であった。
 例えば権力と無縁の多くの人間にとって権力とは責任を負う者の典型である。自分は責任を負う必要がない、何故なら自分には権力がないからである、というのが一般的に私たちの態度である。と言うことは逆にある者に真実に権力があると考えることは、その者を自分たちとは違うと差別していることを意味する。そしてそれは尊敬する対象、尊崇する対象にも言えることである。差別とは尊敬する者にも、敬愛する者にも、崇拝する者にも適用出来る(前章でも述べた)。
 例えばそれは私たちが他人にかける言葉にも介在している真理ではないだろうか?
 「あなたは別格なんですから。」
 「彼は努力したもん、君とは違う。」
 そう誰かに言うこと、それは尊敬する者に対しては、その者の力量で勝手にいいことをしてくれるのだから、こちらからは一切の責任は持たない、一切面倒など見ないことを意味する。つまり私たちは縋るものに対してはいつまでも自分が子供であることを決め込む。相手を大人として、自分を子供としておくことは端的にその者への責任を一切負わないという意味で、差別的である(だから子供の言動とは残酷である)。そのものに対して一切の批判を免除するという尊崇とは、そのものに助力することも拒否することだから、必然的にどこか軽蔑にさえ近い心理であると言える。
 だから何か優れたものに対しても、さほど普段接している普通のものと変わりない態度を採る時にこそ、寧ろそのものに対する愛情が溢れているとも言える。つまりそれが人間であるなら、その者は優れているけれども、未だ若いから失敗することもあるかも知れないし、思い上がるかも知れない、だからそういう時にははっきり彼に告げてやろうという思い遣りがあるからだ。それはその者と接する上で自分も責任を負うという決意である。
 だから逆に日頃誰か特定のアイドルとか、特定の人気者(どんな職業の人であってもいい)に対して贔屓感情を抱くことは、責任は一切こちら側にはないことを意味しているのであり、ある日突然そのアイドルが自分にとってあまり切実なものではなくなることも充分あり得る。しかし私たちにとって一般的に世間で通用するものに対する接し方とは大体そんなものである。
 それは言語そのもの、つまり名辞とか概念ということに対してもそうなのである。
 オタク、ヒッキー、フリーターといった言葉に自分を当て嵌めて、その帰属意識を盾に、それ以外の成員、つまり自分と共有し合う資質の一切ない成員を部外者とすることで、その者に対する責任を実は自分から免除しようと画策しているわけだ。被差別者が被差別ではない普通の人に対して仲間はずれにすることすら一つの差別なのだ。
 それは自分を公務員、官僚、会社員といった風に自己紹介する時に既に起こっていることである。それは偶像に接する時の心理を知らず知らずの内に自分にも適用しているのだ。
 マスコミは自分で言葉を捏造することを避ける傾向がある。誰か特定の言葉を編み出した人にこそその言葉を発した責任があるのであり、その者の吐く言説が流行すればそれを流すだけのことである(流す責任は取らない)。しかしその者の言説が顰蹙を買えば、ただちにその者の言説を流通させることをセーブするだけのことである。しかし先にも言った通り、私たちはそういう風に実体のないものとしてマスコミをしておきたいのだ。それは私たちが言語行為をすることそのものが、実は全ての責任を自分が負うのではなく、ある部分では自分も負うが、別の部分では積極的に責任を誰かに転嫁し、要するに責任を他者に委託していることを宣言しているからである。つまり全てのコミュニケーションとはこの委託が介在している。だからマスコミとはそういった私たちの深層心理を反映するものとしてのみ存在し続ければよいし、それ以上のものになる必要もなければ、そうなり得ないことを一番私たちが知っている。
 ヘーゲルの「法の哲学」の優れたところとは、端的に共同体の一つの究極的な完成態であるところの国家とは、私たちの内心そのものがそれを求めていること、つまり全ての責任を自分が負うことを回避し、責任を他者に転嫁することそのものにおいて共有した意識の所有者たちによる合意であるとしているところである。
 だからある意味では自己の職業に対する誇りとかプロ意識といったものは、あのマックス・ヴェーバーによる「プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神」によっても示されていたように、それを持つことによって神との契約をなすという題目、大義名分と言ってもよいが、それを果たすことにおいて自分の就いている職業以外のものを他者に委ね、責任を委託し、転嫁し、専門外の事項を「自分には責任を持てないもの」であると差別化していくこと以外のものではない。ヴェーバーのテクストにおいて考えられている徳のようなものは、それを持つことによって社会機能が安寧に維持されていくための方便として採用されていると考えればよいだろう。
 だからある部分では積極的に自分が所属する職業専門分野以外のものを軽蔑したり、差別したり、関心の埒外に置いたり、それらの人々を敬遠したりすることというのは、その閉鎖的集団内ではかなり有効に権力機構そのものを安泰にするためには役立つことである。
 それは再び見方を変えれば、自分の所属する集団内のトップに対して尊崇の念を抱くことは、その者の責任を剥奪せず、その者に責任を委託・転嫁することであることと、自分の所属していない集団内でのいかなる委託・転嫁においても不干渉を決め込むという決意でもある。それは自分にとってのアイドルとしての権力者に対しても差別することでもあれば、自分のアイドルではない別の集団のアイドルに対しても差別することである。ただ自分のアイドルに対しては(特にその者の前では)尊敬の念を示し親密的態度を示すが、他にとってのアイドルに対しては軽蔑の念を、あるいは無関心な態度を示すという態度の違いがあるだけで、内的関係における私たちの両方のアイドルに対する距離の置き方並びに差別の仕方に寸分の違いが横たわっているわけではない。

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