Wednesday, January 13, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七章 トラフィック・モメントとミステリアス・ガイダンス

 私たちは何かを決断する時、意志決定の合理化をする。勿論、結婚や離婚、職替えといった大きな決断から、ツイッターをしようとか、趣味で油絵を描こうとか(実際はそういう重大ではない決断も又人生に於いては大きな影響力を持つのだが)といった日常的場面での些細なことから趣味の選択に至るまでそのシリアスさには程度の差もある。
 しかし如何なるケースでも何らかの今までしてこなかったことをしたり、行ったことのない場所(観光地とか趣味の集いとかに至るまで)へ行ったりすることを決心させる直接の契機を私はトラフィック・モメントと呼び、そのトラフィック・モメントに於ける外部からの誘い、誘惑、誘引をミステリアス・ガイダンスと呼んだ。しかしそれは事後的にあのもの(対象としての出来事、つまり見聞きしたこと、知った内容、情報)が私に決心させたと知るのであって、そのものに出会うや否や我々は既に行動し始めているのであり、その時に「これが契機だ」とは断じられない。つまりそのように当該の瞬間には確定的に明示し難いものであるからこそ、我々は極スムーズにある行動へと移ることが出来る。つまり形而上的行為論へと我々の思惟を向かわせるものは、その行為論自体が日常的行動や所作とは画然と区別された認識だと我々が既に認知しているからであり、その事実は逆に日常的に行動を誘引し、一々のことを意志決定させるものが仮に形而上的行為論であるなら、我々は一体何も些細な行動に至るまで決定することさえ出来ない、ということを意味する。
 だからこそ逆に私が日常的行動の移り変わり(シフト)や往来、反復を誘引するものを別箇の仕方で捉え、それを踏まえた後初めて反省意識に於いて形而上的行為論、因果論、あるいは自由意志論、心身論、意識論などといった諸々の哲学命題論を必然的に捻出することが出来るのだ、と認識しているという意味合いでは、私の方法論のヒントとなったものは多く生の哲学や現象学である。だから逆に捻出されたものこそ分析哲学的方法へと転化されよう。
 私たちにとってミステリアス・ガンダンスへと無意識の内に囚われている時ある意味では脳内では既にその行動への準備はなされている(準備電位)であろう。その脳内準備が何らかのミステリアス・ガイダンスを見出すのだ。トラフィック・モメントはそのミステリアス・ガイダンスより遥か前に印象づけられた何かでもあり得るし、ミステリアス・ガイダンスとの遭遇自体を想起するという事後的なことでもあり得るし、ミステリアス・ガンダンスとの出会いの瞬間でもあり得よう。つまりその時々で状況は異なっていよう。

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