Sunday, January 10, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六章 命題的態度と想念

 私たちは私自身の人生の全部を肯定すべきもの、美しいもの、価値ある時間であるなどとは露ほど思っていない。
 だが哲学ではそういう雑多な無意味でさえある人生の苦悩自体をあまりおおっぴらには表現しない。何故か?それは哲学を語る者がそのことを重々承知しているからである。つまり人生の汚猥を知り尽くした者だけが美しい言葉によって人生の苦悩や無意味さや虚しさを体系的に哲学言語へと置換することが許される。
 そういう意味では瞬間乀の命題的態度とは、只単に痰を吐き捨てたいとか、股間がむす痒いとか、脱糞したいとか、要するに決して美的ではない。だからこそ逆にそういった美的ではない瞬間乀の命題的態度を哲学的文脈の中に一定の秩序、それはそれ自体が秩序であるわけではなく、生理的身体を維持し、生活実体を形成するために必要とされる構成要素として位置づけることを哲学者は怠らない。
 そういう意味ではそういう意味では個々の諸々の美的ではなく些細な命題的態度をそういう一定のルールの下で位置づけることを促進することこそ想念である、と言える。
 つまり想念とはそれ自体個々の知覚とか些細な日常的動作自体が一定程度集積された段階で持つ反省意識が生み出す、それ自体反省意識であると確固として言い得るものではなく、寧ろふと出くわす集積の結果再認される真理(そういう意味ではクオリア的感動も含まれるだろう)とか、因果論的真理であるとか、要するにその都度生み出される実感なのである。
 だから想念の親とは個々の些細な日常的動作とか知覚による潜在的記憶であるとか、要するにあまり重大ではないが、その凡庸であるからこそ、生の不条理へと気づかせてくれるような種類のものなのである。
 だから想念自体がミステリアス・ガイダンスとなって作用して、新たな行為へと転換させたり、動作自体を転換させたりする。ミステリアス・ガイダンス自体がトラフィック・モメントになり得るということを証明する意味でも些細な動作、取るに足らない知覚習慣といったことが個々のトリヴィアルな命題的態度を自然と沈殿させつつ、統合させるもの、つまり想念を生み出すものこそその人間の日々の心がけ、つまり人生に対する思想である、と言えるだろう。人生に対する思想とは端的に人生全体への想念が生むと言えるし、人生全体の想念とは個々の想念がやはりある一定の人格によって統合される、と言える。しかしその人格もまた個々の想念が生理的に統合されると言えるし、また生理的統合を促進することも又その個人の日々の心がけ、つまり人生に対する思想である、という円環構造が見出される。
 一大転換的トラフィック・モメントとは二箇所の住居を往復したり、二つの職業を往復したりすることによって成し遂げられるが、もっと些細なこととしては、メールもネットサーフィンもするし、ブログも作って毎日更新しているが、ツイッターもするということなどにおいて示され得るであろう。
 そこには必然的に日々の人生に対する思想や生理的健康状態が複合化された一つの関心事、あるいはそういうタイプの統合された想念が関わっているし、その想念が統合される前の個々の想念である間あまり我々はその想念自体には感謝の念を捧げない。つまりそれらの個々の想念は日常的習慣とか、生自体のその都度の目的とか、その都度の習慣自体への考え、つまりその習慣が自分に向いているか否かという快不快の判断などによって形成されている。想念には多分に気分や衝動も関わっているが、気分や衝動の方も又、その都度の人生に対する思想が決定させている決心とか言語的思念であるとか、要するにかなり観念的な悟性や知識や文字情報的認知によって成立しているから、我々人間は決して純粋に非動物でもあり得なければ、純粋に野生的動物でもないという状態を恒常的に維持している、と言うことも出来る。
 だから個々の命題的態度とは野生による生理的呼び声から発するその欲求に対する自覚であり、言語把握的態度であるが、想念はそれ自体生理的呼び声も含むが、その生理的呼び声の一定期間における平均的傾向全体への把握を言語的思念が潜在的に脳内で行っていることの結果である、とも言える。

No comments:

Post a Comment