Saturday, May 2, 2015

第八十九章 現代人として現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑩ ドローン侵入愉快犯とエゴサーチとリヴェンジポルノとハニートラップPart1

 首相官邸にドローンを侵入させる愉快犯が現れ数日官邸対テロ機能に就いて取り沙汰され、マスメディアは大童だった。だがこの種の犯罪は充分予想されたことである。却ってメディアが大事として報じさえしなければ政府や現政権の体面は保てた。だが表現の自由が憲法で保証されているから、メディアは大きく掻き立てた。しかし誰かが死んだ訳ではないし、もし個人情報がドローンに拠って他者から盗まれ、その事で人が死んだらそちらの方がずっと深刻且つ重大な事件である筈(又べき)であるが、国家全体の国防機能不備の方に論われるべき重大案件はすり替えられてしまう。これが一種の国家第一主義的な右傾化した現象でなくて何であろう。 ドローンを飛ばした容疑者は結局そうすることで、却って国家とか政府とか現政権といったものがどういう反応をするかを見計らう目的が暗に在ったに違いない。その意味では犯人の目論見にまんまと国家全体が引っ掛かったのである。
 そういう案件の積み重ねが結局国民の側が国家の国防機能を信用しないということを明るみに出し、又どれくらいの対愉快犯対策を平素から講じているかを犯人側はほくそ笑みながら試してきているという憂うべきだ、と言うべきか、あたかも想定した通りだった、と言うべきか、そういう事態となっている。
 現代人は自己能力がどれ位公的な幻想をぶち破れるかを試す愉快犯的資質を誰しも持たざるを得ない状況と言うか、既に時代の必然を引き受けている。その一つが明らかにエゴサーチである。自分のウェブサイトを通したメッセージ発信能力がどれくらいのものかを確かめる為にそれをする訳だが、結局それはアップロードしやすさ、そしてそれがかなり現代社会の情報通信では必須の事態として歓迎されてもいる訳だが、そのアップしやすさを国家や政府がコントロールしようとすると、途端に治安維持法に拠ってかつて軍国主義国家へ驀進していった日本国家、大日本帝国の誤りを日本では彷彿させてしまい、当然その事に現代のマスメディアは黙ってはいない。
 だが個人レヴェルではエゴサーチする事で実現してしまっているナルシス的欲望の実現が、増長していってしまうと、リヴェンジポルノをネット上で公開して、そうしてまで追い詰めようとする別れた相手への復讐を実現化させてしまえる現代は、言ってみれば露出狂的変態性欲的な願望に拠ってウェブサイトのアップローダー達のメンタリティがアドレナリンを放出することを快楽として受け取っている証拠である。
 このジャン・ジャック・ルソーが露出狂であり、性的変質者でもあった様な肥大化した情報化社会での情報量的知の在り方と、性的マゾッホ的な見られる快楽は癒着しており、その事とドローン操縦愉快犯の自己能力の顕示欲とはかなり一体化した現代人に固有の性格であるとさえ言える。自分のマスターベーションをする姿態を動画で投稿する様な変態的欲望は、そうすることで、つまりマゾ的に他者にその姿態を見られることで興奮するという現代社会固有のアップしやすさが生んでいるとも言えるが、寧ろ実態的には、変態的な迄の自己プライヴァシー暴露趣味的欲望自体がアップしやすさを現代人の総意として要請していると捉えた方がいいかも知れない。
 つまり歪んだ形でしか自己欲求実現を満喫出来ないある種の対自的なサディズムでもある処のマゾッホ的な自己プライヴァシー暴露趣味は、自己顕示欲が歪んだ形で誰しもが変質的にならざるを得ないアップし易さ自体を却って同時代的共時性の共有事実として開き直って、真っ当な正常とかつて言われた自己節制性や自己変態的欲望の巧いコントローラー達をこそ寧ろ守旧主義者とか保守主義者として批判することを通してサティライアシスやニンフォメイニアックな性的快楽主義者達が一穴主義的婚姻論者達を爪弾きにしていく様なセンシビリティこそ正常だと言いかねない逆差別社会の深層が到来している。
 だからハニートラップとはそういった普通の正常のと言われてきた人達が陥りやすい誘惑の罠として国家的陰謀で策謀に拠って敵対勢力を殲滅しようとする人達に愛用されてしまっているとも言える。
 結局凄くウィルス対策に優れたPC機器が愛用されていく様な意味で、国家自体もあらゆる愉快犯を退けさせるだけの国防的インフラの整備に治安への安堵を確保し得ると言い切れるだけの愛国心を果たしてどれ位の市民が持っているだろうか?其処迄国家全体から管理されたいなどと誰しも思って等居ないだろう。
 と言って愉快犯とか変態暴露趣味的なリヴェンジポルノアップローダー達の行動を何処かで冷やかにしかし、密かな覗き趣味で上から目線で見物しようと決め込んでいる大勢のネットユーザーの一人ではないと断固言い切れるだけの日常的な禁欲主義を維持している市民は一体どれ位の数存在し得るのだろうか?テレビ番組のウェブ上の閲覧も既に制御し切れなくなっている現代社会では、テレビ局の方がウェブサイト全体のムーヴメントに追随的に存在し続けていくしかない時代である今日では、他人のマゾヒスティックな露出狂的快楽を自分も又秘めているということを何とか隠蔽しつつ、対自的には、その欺瞞性を自覚せぬ訳にはいかない日常の中で社会の治安とかも考えなければいけない時代に我々は生きていると言えないだろうか?

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