我々は言葉なしに生活出来ぬ。マスコミに期待せぬがなければよいと思わぬのは偶像を見出す故だ。偶像を信用し言説を権威とし、一般化させるよう責任転嫁が促進する。公的顔と内心を分けて考える。自由獲得には責任が伴う。責任を論語やレヴィナス、ヘーゲルから考える。我々は疎通時「伝えるべき内容」を選択するが、それが言葉の力をそぐ。文学批評言語はそれを引出すが、日常陳腐な言説を使う理由がモラルならそれを問い直そう。言葉を「伝えるべき内容」と言葉の仕組みに分けて考え、後者から前者を考える心の余裕を何故持てないか?意味は私的公的なことの間にある。公私の往来だ。文学批評の試みは形式追随でも真意告白でもない。他者への思い遣りが読み書きをさせた。人類初期・中期迄は若年者が早世し年配者が希少だった。葬礼では年配者が若年者同輩を葬列で優先する気遣いや一人にさせる配慮があり、記述の歴史が始まる。だが人間は一人になると他者不干渉と偏見を抱き、差別意識が発生する。引篭りは古来もあったろうが、自分の偶像がメジャーになる恐怖が更に閉じ篭らせる。現代オタクやフリーターと比較し、書く野心をサルトル言説の矛盾と対比的に考えたい。
Thursday, May 7, 2015
第九十章 現代社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて11 ツールにディヴァイスで何でもアップしやすさと監視されることに慣れていくことに就いて
我々は既にウェブサイトで容易に何でも自分の意見を私的な事と知っていてSNSが公共掲示板であることを知っていてしかし一切の検閲がないことをいいことに、臆することなく何でもアップしている。勿論そのことで公職を追われる人も居るが、この検閲されなさ自体は永続的なものとして維持されていくだろう。
要するに我々は既にツールを通した意見の自由にアップ出来ること自体を、たとえそれがかなり変態的なオナニーの自撮りであっても、それを除去されない自由を謳歌してしまっている。リヴェンジポルノに就いて何度か触れたが、それ等も幾分自分の極め付けのプライヴァシーである性行為さえアップしても咎められないマゾ的な自己顕示欲ともタイアップされて行為へ踏み切らせている。つまり変態的な自己露出狂趣味さえ咎められない公的場とかアウェーさえホームであっていいという現代人の開き直りがアップしやすさを無くさない様に現代人が取り計らうことを促進している。そしてそれは自由を疎外する権力を批判する装置として全人類的にウェブサイトのアップしやすさが容認されているということ以外でない。
つまり変に検閲することの方が作為的な権力の側のテロリズムであるという認識が我々に共通しているのである。だからSNSでのアップし易さ自体が権力の酷く歪な乱用を批判する為に有効な価値としてアップし易さを認めている訳だ。だからドローンさえ官邸に侵入する事件があったとしても取り締まるより、歪な権力の乱用(濫用)を防止する装置として取り締まり自体も緩やかにという世論の方が世界的には強い。
それと引き換えにと言っては言い過ぎの誹りを免れないかも知れぬが、実はビッグデータシステムでスパコンに拠り集計される個人情報を我々はある程度なら監視されていることにも慣れていこうと決意しているとも言える。セックスさえ人に見せたい欲求さえあるのだから今や人類は多少のプライヴァシーを侵害されても変に犯罪的匂いを立ち込めさせることなどあるまいと自信のある市民は、ビッグデータ収集に拠って犯罪が未然に防止され得るなら、多少の監視されている状況を受け入れようとマゾ的な欲求回路を開いているとも言える。
それは在る部分知人同士では羞恥感情を相互に尊重し合うし、プライヴァシーは重要だが、知らない人に何を覗かれようとそんなことを気にしていなど居たら、現代社会は生き抜けない、だから余りにも猟奇的でない限り自分がする多少の悪等誰も気にしないと高を括っている証拠である。事実立小便をするくらい余りにも同じ場所で頻度も高く何度も繰り返ししない限り一度何処かでテキトーにそれをしたからと言ってそれで逮捕されることはないだろうし、それ程警察とは暇ではない。
結局現代人は小さな悪には眼を瞑り巨悪だけは発動させない様にしようと、小悪実践者全員が同意して、アップしやすさを相互に与えておいて、それで小さなストレスは軽減させ時折フラストレーション解消の為に多少過激なツイートをさせておいて溜飲を下げさせる様に全他者の悪を容認しておいて(それが国家形式になると国防的措置と、そのデタント的な相互の協定になるのだが)、それでも尚眼に余るもののみを極悪と相互に容認し合うという暗黙の協定がウェブサイト有効利用の下に暗々裏に決定されている様なものなのだ。
それは相互にかなり幼稚でもあり、大人的態度を捨てて迄、ある程度のナルシス的過激さは相互に認め合いつつ、それ等小悪でそれ以上の悪を発動させまいとしている不文律を破壊する危険行動のみ監視されるべき対象として全成員が溜飲を下げることに全人類的に同意しているのである。それはそうすることで電子機器を通した余りにも忙し過ぎる情報摂取を撲滅させることが不可能だという自覚の下に、巧く小悪を方便として利用して全世界的なインフラの利便性、コンヴィニエンスを維持しつつ、インフラに一定程度なら支配されることをマゾ快楽的に受容していこうと決意し、それを完全に捨てて前時代の不便さから得てしまうに違いないフラストレーションを全成員が感じずに済む様に暗黙の内に取り計らっているのである。
我々はだからプライヴァシーの本質的意味を徐々に変えてきているという風にも言えるのだ。(つづく)
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