Friday, October 10, 2014

第八十五章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑥ 民主主義だけが絶対的正統とも正当とも言えないけれど

 我々は実は真に社会として理想形であるのはどんな形態であるかを判断する事が出来ない。何故なら日本であるなら明治期以降の天皇制と今の天皇制は全く性質が異なっている(とは言え精神的には今日本人は先祖返りしている部分はあるのだが)し、欧州諸国も絶対王政から離脱している(韓国もそうだし、中国もそうだ)し、要するに民主主義国家であるという体裁以外の体裁を経験していない我々がひょっとしたら絶対君主制的社会が悪とは決めつけられないし、それは全ての民族や国家で言える事なのだ。
 又民主主義が王政国家やそれ以外の君主制より誤りがない、間違いないとも言い切れない。要するに仮に民主主義国家で生活していても、それが一応他の体裁より適切であり妥当であると我々がしているに過ぎず、今ある形こそが理想であるとも必ずしも言い切れないのだ。例えば確かに民主主義国家では選挙等で全ての最終決裁が行われる。議員は全て選挙で選ばれる。しかし当然の事ながら選挙では民衆、つまり有権者全員がある間違った選択、誤った傾向へ政治全体を選挙結果に於いて当選した議員を国会や地方議会に送り出す事で赴かせてしまう事も稀ではないし、要するに衆愚的な誤りを犯してしまう危険性と常に隣り合わせである。
 民主主義では要するに昨今の裁判員制度と同じ様にあくまで素人の数の方が多いのだが、一部専門家だけに全てを任せておくのが危険であるという前提で設定されているので、何時も何時もだとは勿論言い切れない(意見としてのマジョリティが正しい場合の方が勿論多い事は多い)のだけれど、要するに衆愚的に誤った判断を有権者の大半がして、誤った政治とその政局的傾向を作り出してしまう事も大いにあり得るのだ。
 上記の事実では当然世界の趨勢であるところの民主主義自体への懐疑的眼差しが生じる事も必然となる。この事の昨今の顕著な傾向こそイスラム国であるとも言える。と言うのもそもそも民主主義とはあくまで欧米先進国を中心に発展してきているし、世界が世界標準だと信じて疑わない事の大半が絶対王政崩壊後の民主主義である事は間違いのない事実だからである。
 その点ではイスラム国の行動自体に否定的批判的な多くのイスラム教文化圏でも存在する事も当然であるが、そもそもイスラム教文化圏は、日本や韓国や中国が東南アジアとも欧米先進国とも又違う文化習慣を持っているが故に、異なった精神性を形式としての民主主義(中国は昨今動向が注視されるべき香港と、台湾では民主主義が実現しているけれど、中華人民共和国はそうではないけれど)に加味して考究していく必要性はあるのと同じ様に、全く仮に体裁として民主主義を採用していても、欧米スタンダードとは精神的文化基盤の異なる思考回路と理性主義を持っていると言っていい。となればそういった世界標準自体を多く欧米キリスト教文化圏で援用されてきている交易、貿易システム等も含めた世界的な正義決裁性自体への懐疑としてイスラム国の様なタイプの行動が誘発されても、その事自体は(仮にどんなにイスラム国行動が理不尽で否定すべきものであってさえ)必然的な展開だと考えてよい。
 勿論彼等の行動に拠って民主主義が崩壊し、世界中がイスラム国的思想で行動する様になるなどとは考え難い。だが同時にこういったイスラム国的行動自体は、仮にイスラム国が国際世論に拠って制圧され弱体化していってさえ、恐らく何等かの形で、それを制圧させようとする国際世論を嘲笑う如く、もぐら叩き的様相で維持されていくのではないかとは容易に予想され得る。 つまりどんなに世界的にスタンダード化された標準類型で世界が一定の安定を得てさえ、必ず其処から零れ落ちる類例も常に産出され得るからだ。
 その意味での香港ムーヴメント自体注視されていくべきだし、欧米民主主義国家群が中国に拠って統制される事を望む全人代面子の思想と、中国の経済力に依存せざるを得ない香港中小大企業の動向全体が、ある程度イスラム国的な思想を彼等以外に出現させるか否かを決定していくという風にも考えられる。
 イスラム国の首謀者達が一定程度の知性を持っているのなら、恐らくロシアとウクライナとの動乱以降の思想的展開、世論、或いは香港内部での中国拠りの思想と反体制的自由思想との成り行き自体を静観しているだろう。
 それらの事を勘案して我々がある程度結論してよいと思われる事とは、要するに我々は全ての妥当なる、と言うより妥協的安定維持の為には取り敢えず民主主義以外にいい方法を知らないからこそ、それを採用しているに過ぎない、勿論民主主義自体も発展進化可能性は充分秘めている、にも関わらずこのかなりの程度真っ当な決裁を可能とする制度さえ、必ず落ち度も齎していくだろうという目測自体が絶えず何等かの形で日本国内で、そして世界中に派生させていった赤軍派の様なタイプの反国家主義、反民主主義的集団(其処ではリンチの様な行動も正当化される。しかし例えばキューバ自体も現在でも革命分子に拠る革命成功の後衛として機能しているし、それは決定的に欧米先進諸国とは異なる政治的リアルがある)は何等かの形で勃興しつつ、やがて鎮圧され消滅するが、大勢の世界市民から忘れられた頃に再度勃興していくという経路を世界史が辿るであろう事も又容易に想像され予想され得る事である事も間違いない。
 取り敢えず現代時点ではイスラム国へ参加希望をしている(既に参加しているメンバーは日本からも居るだろうが)人達が何故そういう行動へ走るのかという部分での動機分析と共に、これからそういう考えへ赴きそうなタイプの市民へどういう啓蒙をするかという事以前的に、そういう感性や思想を封じ込めるのではなく、民主主義体制自体の問題点に関しては真摯に問い詰めていく理性と自由な論争を許す空気だけは封じ込めてはいけないとだけは言い得る処の事ではないだろうか?
付記 次回は民主主義と自由主義経済、資本主義経済との曖昧な融合、共同戦略に対する再検討と考究を主旨とする。

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