Monday, October 13, 2014

第八十六章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて⑦ 民主主義と資本主義・自由主義の曖昧な同一化への疑問

 現代社会は先進国と呼ばれる国家群が何等かの形で特権的地位を得ている事で、それ以外を発展途上国と呼ぶ事を慣例化させ、先進国がかつて絶対王制であった事から、その瓦解、革命に拠り、王政的問題点への反省的地平で先進国が民主主義を自由平等友愛的観点から採用していて、それがスタンダードでそれ以外の国家形態を少なくとも世界全体の平和和平安定維持路線の為の代表にはなり得ないものと認識し、世界中に認識させる事を慣例化させている。
 しかもロシア革命が農奴解放の為に履行され、ソヴィエト連邦として再生した後の共産主義の国家運営的な失敗を通して資本主義・自由主義こそがスタンダードであるとしてそれ以外の共産主義的国家運営と、政治体制を少なくともスタンダードではないものとして認識し、世界中に認識させる事で世界の取り敢えずの安定が図られている。
 その際に重要なのは資本主義・自由主義経済がスタンダードで、それを維持する為の方策として民主主義が一番妥当であり、何かそれ以外の方策を思いつく事自体が反安定志向と読み取られる事を暗に我々へ強制する形で国連をはじめとする世界基準全体が運用されている(国連では共産党一党独裁体制である中国のみ例外的扱いとなっている。ソ連は崩壊今ロシアとして再生されたロシアは欧米常任理事国<アメリカ、イギリス、フランス>を指針としてやがて対等となる事が暗に期待されている)。
 此処で重要な事は資本主義・自由主義といった体制自体が最も妥当な安定地点であるする事でそれを維持する為のやはり最も妥当な、それ以外これといった方策が今の所(か、或いはもう永遠にと思っている人達も大勢居るだろうが)民主主義以外では見出されないという認識の下で、この二つの体制が抱き合わせとなっているのが世界秩序安定志向的妥当性と言える。
 重要な事は我々が歴史自体を実験する事が出来ず、一度ある体制に持ち込めば、それ以外の体制自体が試みられる事を含め実験的では居られない、取り敢えず今敷いている体制は一つの実験で、やがてそれ以外の体制へ移行する事もあり得る等という悠長な事を言う暇が一切与えられず、施行されている体制自体が善で、それ以外は悪として認識される事こそが政治の歴史的必然なのだ。従って実験的であり得る事を証明するには現体制を崩壊させ(つまり流血を伴う革命を履行し)、然る後に別の新たな体制へ持ち込む以外に方策がないという事だ。今年は民主主義、来年は絶対王政、その翌年は原始共産制(貨幣経済でなく物々交換<バーター>交易を中心とした)を施行させ、その内のいずれが一番効果的であるかを実験する事等全く不可能だという事自体が歴史とは実験し得ないし、され得ないという事である。
 従って鎌倉幕府が一つの実験であったと仮に歴史家が言ったとしても、それはあくまで鎌倉時代の後八百年以上の年月がかかって過去を歴史として振り返る時のみ有効な言葉の使い方だと言えるのだ。
 従って現体制がその様に世界平和和平維持安定秩序が挿げ替えられぬ以上、誰しも運命論的には(実現可能性としてではなく、あくまで観念夢想的には)本当に資本主義・自由主義経済と民主主義が抱き合わせである事だけが正義で、それだけが最も全ての市民の幸福に繋がるとは言い切れないし、そうであると完全善として現在体制を肯定する事も出来ないのだが、では何かそれ以外の方策等可能であろうかという思考実験を経た後誰しもが、それ以外に取り敢えず(何か人類全体を生存の危機へ落とし込む様な事態にでも直面せぬ限り)誰しもが思いつく事等なかろう、どんな天才でもそれは不可能であろうという目測で(そういうものがあり得るのだと言い出せば、それは只観念的夢想と言うより妄想に過ぎまいと誰しもが思ってしまう)事態がずっと継続していると言えるのだ。
 現代社会がこの資本主義・自由主義経済社会と民主主義体制を曖昧に同一化させ一致させる事をスタンダードとする視点とは、明らかに理論物理学等の不確定性原理や、それ以降のファジー理論等の実用的な社会インフラ維持のテクノロジーがそれだけが取り敢えず自然なものと思わせてきていると言える。
 現代という時節とは、確定的な叙述、完全論理無矛盾的な真理の述定自体へリアリティを感じる事が困難な複雑な真理構造を直観的に全人類が把促している時代なのである。だからこそ共産主義経済の失敗に拠り、歴史的にその期間自体を後世の歴史家が実験だったとしようという事で、修正資本主義を導入する事で極端な資本主義経済での矛盾を表出させぬ方策を加味して取り敢えず資本主義は運営されてきている。しかし格差は依然として大きな問題であり、マネタリズム以降の金融資本主義がリーマンブラザース倒産に拠りリーマンショックを人類が経験すると、再び金融帝国主義化していかざるを得ない現代資本主義へ疑念を抱く観念は多くの世界市民に共有されている。しかしその共有は常に漠然とした不安にとどまっており、自分自身の生活が取り敢えずの安定を確保する事さえ出来れば、やはり現体制以外に理想的な形態等あり得ないのだと納得せざるを得ないシステムへ心自体を持っていく。
 不安的直観を増大させる事は鬱的心理であるか妄想以外にはないと割り切る事自体が現代人のある種の現体制への同意納得となっている。
 従ってイスラム国をはじめとするある種のテロリズムへ訴える政治行動自体は、そういった同意納得の欺瞞的ではあれ、それ以外に方策が無い事を納得する度に封印させていこうとする理性という立場の前では、確かに完全理性破綻と見做される。
 哲学者なら、その欺瞞性自体を論う事に意味を感じるが、哲学者のそういった誠実性は危険極まりないと一般社会自体が暗に規定している限り、専門哲学者はよりロジカルな精緻で微細な弁証法へと明け暮れ、専門哲学は益々唯論理実証性のゲームへと邁進し、しかし過去の哲学の持っていた哲学命題設定に付帯するモティヴェーション自体が形骸化させる形で残存している歪な数論理学に移行してしまった。
 しかしそうしなければ実際に哲学が行動思想への足掛かりになる危険性は既に第二次世界大戦、太平洋戦争の敗戦時に田辺元が経験していた事である。つまり哲学はやはり国家主義や国家覇権主義、帝国主義的他国の侵略に利用されやすいのである。それを承知している専門哲学は、そうならぬ為の予防措置を論理自体に内包させているから難解なのである。
 それを振り切って反社会的な破壊へ直結するものこそヘイトスピーチであるが、ヘイトスピーチとはそれに共感し得る観衆や聴衆が幻惑的に自己理性を消失するある種の陶酔へと自己欺瞞的に没入する、つまり歪に情感主義的な感性へ赴く以外には同調し得ない性質のものである。
 つまりだからこそある種の反国家主義的なイスラム国的テロ世界活動が、異様に理想超越主義的に輝いてある種のアウトロー的青年達の心を鷲掴みにするのだろうと思われる。それはヘイトスピーチの持つ民族アイデンティティ的な溜飲を下げさせ効果と違って、より強力にアナーキズム路線なのである。
 そのアナーキズムは資本主義・自由主義と民主主義の曖昧な同一化に同意納得している現代人、人類全体への極度の懐疑は被さっているのである。しかしそれはやはりもう一つの現代社会的人類同意納得的なリアルに対するヘイトスピーチでもあるのだ。それは残虐な一般市民への殺害とその映像公開とに拠って性格的に決定づけられているからだ。これは完全に現代のウェブサイトコミュニケーション時代のインフラやツールやディヴァイスを前提してしまっている。その点が徹底していない、つまり時代が産み落としてしまっている負の側面という生活を拭い去らす事自体が困難な程現代社会、現代人類的同意納得に加担し、依存してしまっているのだ。そんな事をするくらいならいっそアーミッシュの様に電気さえ使わないという生活を死守すべきである。しかし彼等はそういった時代を無視する勇気さえもない。寧ろグーグルやアップルやマイクロソフトを利用する事でしか成り立ちえない一種のゲームとなってしまっているのだ。
 この珍妙さ自体が彼等の行動を正当化させる事を困難とする第一理由である。
 次回は現代社会のインフラを全く消滅させて我々が生活していけるだろうかと言う思考実験を軸に考えていってみたい。

No comments:

Post a Comment