Sunday, July 11, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十四章 我々が政治とスポーツに求めるもの‐真に優れたパフォーマンスとは何か?

 FIFAワールドカップも終了し、全く予想外なことにスペインが13回目の出場で初優勝、準優勝も初めてのオランダだった。そして日本は前日に参議院選挙が執り行われた。歴史的与党の敗北を喫した日本では、それまでベスト16まで 岡田ジャパンが快進撃を繰り広げたこととは対照的な展開に国民も去年の政権交代から一転して奈落に落ち込んだ状態の内閣に対して今後の展開に不安材料を見出すことにもなった。
 政治とスポーツとは特にその予想外の展開に受け手である一般市民は注目せざるを得ない意識的構えを日々構成してしまう。電車の週刊誌の中吊り広告や、いつも利用するポータルサイトのニュースや会社の昼食中などでする同僚との会話でも政治とスポーツは一番頻繁の話題にしやすいものである。
 しかもウガンダではワールドカップ観戦中のレストランで爆破テロ事件があり、アメリカ人なども含む大勢が死去したニュースも同じ日に報じられた。
 現代社会で行き抜く為には些細なことで心を動じさせないようにするということが暗黙の内に、特に都市社会で生活する文明人には求められていることである。2001年9月11日に一体自分は何をしていたかと即座に私なら思い出せるが、あれだけ悲惨なニュースを映像で目にしても尚我々はどこかで一々そういう悲惨に対して意気消沈せずに日頃と同じ様に過ごしていかねばならないという心がけをどこかで行っている。
 つまり本当に悲しいこととは自分の周辺で起こることに限定すべきであるという生活上の智恵がいつの間にか定着している。それは都市社会で生活するマスメディア、マスコミによって四六時中報道されるニュースをその都度受け流していくことを心がけている市民全体の暗黙の約定の様なものである。
 それはかなり幼い頃から私達が身につけてきた習慣である。
 しかしその習慣は他方、楽しいイヴェントがあると必ず心浮き立たせ、それまでに鬱積していたストレスを巧く吐き出す作用をさせる為に、一時ルティンから解放されるというもう一つの構え、固有のストレス解消的構えを構成することと抱き合わせになってきている。
 その一つがスポーツである。だから相撲などで不祥事が続き、その存続さえ危ぶまれることを含めて、そういった全体を注視し、監視していこうという注目の仕方から、我々市民の個々の生活を規定していく政治全体への注視と監視も同じ、余り悲惨なニュースには一々動じないという決意的な構えと、だからそこお祭的なイヴェント、例えばオリンピックもそうだし、ゴルフの全米ツアーでもそうだし、テニスのウィンブルドンでもそうであるが、その開催中にはどういう試合の展開になっていっているのかということへの好奇心と関心をその都度イヴェント全体の動向へと焦点化する構えとは抱き合わせであり、いつも容易に後者の方にシフトさせる様に構える癖がついている。
 つまりそうすることで、会社内で昼休みなどで同僚と会話する材料にすることも出来るし、そういった関心を同化させることを通して社会成員としての暗黙の同調的態度を取ることで、仲間外れに自己立場を立たせることを防止しているのである。
 相撲でいい一番を取った力士に拍手喝采を送るような意味で選挙で当選した政治家に対して期待しながらそのテレビ特番でのインタビューを観たり、ワールドカップなどの勝者のインタビューや、そのことに触れた記事を読んだりすることを通して「巧い仕方」で決めるシュートや選挙遊説中の街頭演説とか、市民と握手をしたりする姿全般へ我々はグッド・パフォーマンスであるという評定をいつの間にか下している。
 我々にとって印象に残るシュートや技、立ち居振る舞いといった全てはいいパフォーマンスなのであり、そのいいパフォーマンスの持つ語り草になり得る要素こそ、我々が知らず知らずの内にヒーローへと期待するものであり、そういう行為を容易に見せてくれる者を我々はヒーローと呼ぶ様にしているのである。
 しかしそのグッド・パフォーマンスとは他方では今日あった爆破テロ的事件の悲惨を常にどこかでは目を瞑って遣り過ごす我々の習慣をどこかで浄化させてくれるものとして我々が密かに悲惨なニュースに巻き込まれて死んでいく犠牲者達全般への鎮魂を、余り深刻ではない形で示してくれる代理的行為なのであり、政治という直接的に市民生活に影響を与える政策行動、法案成立努力全般にある我々によって注視される行為も、実は代理的に生活全般を規定する共同体、社会、国家の約定であるにも関わらず、グッド・パフォーマンスを期待する心理にも答えているのである。
 それは余りにも手際よく勝利へと導くスポーツのグッド・プレイと、政治家の立法政策的、行政的手腕、それを権力者として一定の説得力を持って国民に示すことを期待する我々が求めている「いいアクション」つまりグッド・パフォーマンスとは、それを共同注意的に常に目撃者として注視している我々市民同士の心理的結束とその心理的結束を前提した集団行動、それはビジネス自体もそうだし、余暇の行動もそうだが、要するに社会に我々自身が関わることを理由づける、根拠づけることでもある。それを確認し合う為にこそお互い同じ場に居合わせるということだ。
 それはワールドカップの決勝戦を観戦しているファン達だけでなく一会社のデスクに座っているどの市民でも同じである。
 そしてそれは先ほども述べた様に悲惨な犠牲者を出すイヴェントも時々挿入されるこの現代社会の現実を常に一方では考慮に入れながら、その悲惨な犠牲に自分が巻き込まれずに済んでいること自体への感謝を相互に頷き合う様な場でもあるのだ。
 グッド・パフォーマンスを相互に共同注意し合えることの機会の多さを求めて我々は同じ会社のデスクに隣の同僚と共に座っているのだし、家庭に戻れば家族団欒とか余暇でのプランに熱中するのだ。
 実は経済的好況に見舞われることも、いい試合を観戦し合えることも、悲惨な事件の巻き添えを食らうことも全く同じ淡々とした日常のほんの少しの角度の違いでしかない。しかし常に何らかの余り大きなカタストロフィに見舞われない現場に居合わせるか、まさにそういう現場に居合わせるかという確率の問題に直面している我々は仮に最悪の状況に立ち会っているのだとしたら、尚その最悪の状況から何とか離脱させる為の努力を誰しもしている。そしてその際にも「手際よい行動」はあり得るのであり、そのグッド・パフォーマンスを我々歓迎するのであり、そういう行動を自分が取れるのなら、それに越したことはないと誰しも思うのであり、そしてそれを隣の同僚がなし得たのであるなら、素直に拍手喝采することに吝かではないのである。
 居合わせること、立ち会うことの中で、その場にいなかった者には理解出来ないものとして、同時代を生きる我々にとって政治もスポーツもがある様に、我々個々の市民が立ち会う、居合わせる固有の場がその都度設定されているのだ。
 そしてその時々に固有のグッド・パフォーマンスのエピソード記憶を我々は気が付かぬ内に求めて都会を歩き、自分が帰属する集団が行動する場へと足を運んでいるのである。

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