Wednesday, June 30, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十三章 通り魔殺人を生む土壌としての現代人精神疾患と職業病とライフスタイル②

 前の記事を書いてから暫く経って再び広島で自動車を使った通り魔殺人的無差別犯罪事件が発生した。
 何故この様な無責任な犯行(全ての犯罪は無責任なのであるが、とりわけ特定の怨恨性のないむしゃくしゃしたからやったということを無責任な犯行と取り敢えずは呼んでおこう)が継続的に発生するのだろうか?
 北野武監督が少し前テレビで「暴力描写を非難されて、暴力が主体ではない映画を撮ることにしたが、客の入りが悪いので一番得意な暴力描写を再び手掛けた」と言っていたが、彼は「暴力映画が犯罪を誘発するとは思わない」と言ってもいた。
 私も同意する。暴力描写とは映画の一つの表現であり、表現を鑑賞することで暴力行為が誘発されるという根拠はまるでない。前の記事でも書いた様に、寧ろ現代人のライフスタイル全般から派生する特殊な状況が誘引材料となっているという考え方の方がまだしも説得力がある。
 だがゲームソフトの暴力描写性自体もやはり映画以上のものがあるが、それ自体が誘引材料になっているとも言い難い。
 無責任で、無根拠な他者一般への怨恨とは、特定の侮辱や苦痛を与えた他者への恨みとは異なって、端的に自分自身の厭世観を只他者にぶつけるというところにある様に思われる。
 どうせ人間は死ぬ、死ぬのなら、いっそ他人を道連れにしてやろうという目論みがあるのだろうが、それは孤独に対する極度の忍耐力不足から来ている。
 一人で何かを行動したり、思考したりすること自体に耐えられないという心理がある様に思われる。それは裏を返せば集団内で何かを実践していて、自分の存在理由が見出せないでいても、別段不安を感じない様な状況に支配されている事を望むという心理でもある。
 群集心理的な脆弱さが私達には確かにある。しかし重要なことは、そうしながらも本当は自己を常に別の地点に保有している者も大勢いるということだ。
 が時としてそういった確固たる自己を保有する事自体に纏わる意志強固である事に耐えられない者は、只管群集心理に身を任せるということを選択し、その状況は何時でも保持していなければ不安となる。
 不安解消の為に向こうから自分に集団が押し寄せ、それに依拠していればいい状況以外ではこちらから集団全般に対し「俺を一人にするな」と異議申し立てをし、その仕方が極度に切羽詰ってくると通り魔殺人的犯行へと駆り立てる様になるのだ。
 これは職業病的な身体論とは無縁の問題である。それは端的に孤独に耐えられないという心理だ。只ライフスタイルに於いて現代社会では全く対人関係を構築しないでいても、尚生活が維持し得る情況を容易に手にすることが出来る。情報摂取に関してもそうである。すると我々はその容易に入手し得る特殊状況を選択する成員が社会に増大すると、次第にその生活選択を我先にすることの出来ない成員は、取り残された心理にもなる。
 周囲では多くがそういう生活スタイルを平気で日常化しているのに、それが出来ないでいる事に纏わる不安が増大してくるというわけだ。
 勿論現代でもパソコン一つでオンラインショッピングをしている人達だけが消費者であるわけではない。だが選択肢に於いてその様な直接の対人交渉を回避出来る手段が多くなってくると、選択肢を多く持たないで、しかもネットインフラ活用することの億劫さから、サイバーアレルギーになってくると、確かに銀行のATMなどでの女性の声が人工的だし、0120のサーヴィスの声も無機質だから、そういった生活環境自体に次第に人間的交流を可能化する余地を見出せなくなっていき、疎外感を募らせるということは多いにあり得る。
 そこで他者全般へと異議申し立てをして「俺を置いていかないでくれ」という発信を最後の手段無責任な犯行という甘えで実践していくこととなるのだ。
 自己責任的生活スタイルの選択は、恐らく多くの成員にとっては憩いがあるというよりは、呪縛から解放されるという意識の方が大きいだろう。しかしそういった選択肢の多様化自体についていけないタイプの成員にとっては、厭世観を募らせることとなる。そうなってくると、寧ろ職業病に罹ることの方に救いがあることとなる。
 一日中パソコンの画面に見入って注意をしていなければいけない職業のストレスには、そういった状況を打開するという目的が生じる故、そういう時間以外のスポーツをするとかの工夫を考案することに意識が向かう。
 しかしその様な現代人の選択肢以前の持っていなければならないハウツー自体に、ある種の違和感を持ってしまう成員にとって「そこからの解放」という目的意識を持つ成員が存在する(しかも大多数がそうである)という事実は耐えられまい。そもそも電子機器を購入して0120に電話するという機会自体が自分にとっては無縁なので、現代人のライフスタイル全体が自分とは無縁に、しかし巨大な環境変化として実感されるわけだ。
 精神疾患に罹るという事態が、現代人に必須のアイテムに起因することであるなら、職業病対策という形で打ち出せるが、そもそも現代人に必須のアイテム自体への違和感がある場合、対策を立てるということが公レヴェルでは実践され得ないままでいることの方が圧倒的だろう。
 かつて駅でホームに入る前には駅員が切符にパンチで通過した証拠を残したりして、人間がそこにはいたが、今では不在である。そしてそれ自体一々不便であると通常は感じない。しかしそれ自体に荒廃した対人関係であるという意識を巣食わせる成員がいたとしたら、その現代生活の便利さはそれ自体抵抗する対象となる。しかし最早昔へと戻ることはあり得ない。
 すると、社会自体は職業病対策を打ち立てることに躍起で、職業病に罹る可能性のない成員の持つ不安を解消する手立ては一切打ち立てることがない以上、それは只単にそういった成員の怠惰であると決め付けられる。そこで彼等は抵抗を試みるのかも知れない。
 寧ろ彼等がそういった現代生活へのついていけなさを別の形で発散する手段を見出すのであれば、救いはあるのかも知れない。それこそ暴力映画、風俗などで憂さ晴らしをするという手段を見出せるのであれば、それなりにストレスは溜まらないで済むということもあり得よう。
 しかし恐らく通り魔殺人へと赴く成員達にはそういった心の遊びはないのだろう。切羽詰ったこと自体を余りにも真面目に受け取るのだ。その遊びのない真摯さ自体が引き起こすストレス解消されなさが私達に次第に「あの人少し変よ」という態度を益々取らせ孤立感を深めていくのである。
 現代生活が利便性を追求すればするほど、利便性の全部を享受することが不可能となっていく。従ってそういった全ての利便性への追求自体の断念を余り深刻にならない形で受容し得る様な精神的鍛錬をしてく必要に現代人は直面している。「ここからここまでなら、私は便利さを追求するが、そこから先は別段取り立てて必要としない」という意識を個として携えている事自体を別に誇りとするでもなくかと言って「修正すべき習慣」とすることもなく、必要となったら享受することを考えようという、いい意味でのいい加減さを常に忘れない様に心がけるべきかも知れない。

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