Saturday, June 12, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十二章 通り魔殺人を生む土壌としての現代人精神疾患と職業病とライフスタイル 

 秋葉原の通り魔殺人事件やつくば通り魔殺人事件などがあった年から丁度二年が経ち、秋葉原では又歩行者天国を再開しようという動きがあった。この二つの事件以前にも池袋で同じ様な通り魔殺人事件があり、犯人は既に死刑になっている。
 さて現代に於けるこの種の犯罪は固有の性格を帯びている。まずそれらの被害者達は犯人と何の関わりもなく、完全なる赤の他人であり、それらの殺人動機が直接的怨恨ではないということだ。又それらはどんなに多数の被害者を生んだとしても、例えば政治的・思想的テロと違って法治国家や経済社会的現実に直接根を張った事件ではない(勿論間接的には法治国家や経済社会的現実が影響を与えていることは否めないのだが)ということである。
 又そうであるが故に意味深なものがある。つまり例えば秋葉原通り魔殺人事件の犯人である加藤智弘容疑者には内的に鬱屈した心理があったとしても、それは政治や経済自体に直接アピールするものでは決してなく、そうであるが故にネット上で共感者さえ呼び起こすことが可能だったのだ。つまり彼等による犯罪の特質とは端的に全くの犯罪素人による犯行であるにもかかわらず、殺す人数や残虐性に於いて寧ろ素人であるが故にプロよりも残忍であるという側面もあるのである。
 その全く合理的文脈のなさ、全くの無計画性、全くのイデオロギー欠如した動因など、全てに於いてアマチュア性とオタク性が濃厚である。又だからこそ「或いは運命の悪戯で私が犯人であった可能性もある」と一般の人々に思わせる要素もあるわけだ。
 しかしそれら鬱屈した心理に於いて私達は安易に派遣社員に対する社会全体の処遇とか、規制緩和の行き過ぎた結果という風に単純に捉えきれない(そういう一面を仮に認めたとしても)とは言えないだろうか?
 つまりもっと現代人に固有の心理、精神状態から捉えるべきではないだろうか、という事だ。何故ならこの種の犯罪は少なくとも日本社会では失われた十年以前には然程多発することなどなかったからである。
 私達の日常に於いて昨今、朝の通勤時間帯に於ける満員電車では席に座っている人達の顔さえ見えないという状態でない限り、否そういう状態であっても尚、携帯電話を片手に送信されてくるメッセージを読んだり、ツイッターをしたりという光景が大半となっている。携帯電話などは実用的な観点に立てば必要な時以外は一切仕舞い込んでいてもいいものなのに、多機能化する携帯に於いては既に精神的に利用者は依存体質になってしまっている。片時もその画面から目が離せないという異常状態が発生している(最近では遂に駅のホームで携帯電話の画面に意識が釘付けとなった女性がホームに進入してくる電車の車両と車両の間に頭を出してしまい、ぶつかり死亡した事故まで起きた)。
 かつて農村家庭の人達は今以上に田植えなどの際に腰を屈める姿勢で仕事をしていたが為に腰が曲がってしまうということがあった。これは一種の職業病である。
 又音楽関係者、プロデューサーや歌手達は一日中凄い音量のエレキサウンドを耳にしているので、難聴になってしまうという職業病に隣接している。
 プロゴルファーは一日中炎天下のコースを回るので、一番どの職業よりも皮膚癌になる可能性が高く、小さな癌が頬や鼻の鉄片に出来るという事態は珍しくない。
 これはそれぞれプロフェッショナルな仕事に纏わる必然的な病理的現実である。
 しかし現代人にとってとりわけかなり大多数のホワイトカラーにとって一日中営業関係での顧客リストから金融関係の株式などに纏わる情報を示したパソコンの画面に意識が釘付けになっているという事態が極度に視力を落とす、といった職業病的現実は、一部の人達だけの問題では既になくなってきている。又先ほど述べた携帯電話使用に纏わる日常的現実では、我々は既に逸早く誰よりも情報を摂取するオブセッションに捕らえられ、実際に人と会って話すことよりも、携帯上、ネット上で人と繋がる事自体から片時も意識を離すことの出来ないというオブセッションはある種現代社会が生む極度の異常状態であり、そういうサイバー空間のヴァーチャリティそのものを現実以上のリアリティを持って接していかざるを得ないという状況が、ある意味では先ほど述べた通り魔殺人事件を勃発させてしまう、衝動的抑制力破壊誘引性として作用しているとは考えられないだろうか?
 一日中同じ姿勢でパソコン画面に釘付けになり、一日中歩行中でも携帯画面に釘付けになっているという状態が、身体姿勢的な意味でも、精神状態的な意味でも極めて鬱屈した精神状態を引き起こし、常に情報を摂取していなければ済まないという精神的ゆとりを極度に失わせているとは言えないだろうか?
 現代では既に恋愛さえ戦後社会の様なロマンを剥奪され、出会いそのものが人工的にセッティングされているし、それは射精産業自体が隆盛を極めてバブル期以降登場したかつてホテトル、マントルなどと呼ばれた売春ホステスの派遣であるデリヴァリーヘルス嬢などが暗躍する時代に於いて性行為さえ資本主義論理に管理されているという現代特有の世相とも関係があるのではないだろうか?
 衝動を喚起させるもの、とりわけ殆ど無思想的で無節操的で全く文脈欠如的な衝動を誘引させるものとはそういった現代人のライフスタイルそのものにあるのではないかと私は考えているのである。
 だからと言って我々はパソコンを撤収したり、携帯電話を廃止したりすることは実質上不可能である。しかし少なくとも一日中同じ姿勢でいたり、一日中意識をそこに釘付けにさせたりすることを意識的に規制していくことは可能ではないだろうか?
 現代人が何故この様に情報を摂取したり、一時的な言葉の遣り取りによってネット上で対人関係的繋がりを保持したりし続けていなければ不安で仕方がないという精神状態になってしまっているのだろうか?そのことを少し考えてみたい。
 一つは現代社会に於ける資本主義形態が完全にコスト削減一本槍になっているということが挙げられる。勿論単純に無駄もまた一つの創造誘引性であるなどと悠長なことをビジネス上では言っていられないということはある。だが現代人の不安はある意味では携帯電話やパソコン上でツイッターなどに依存し過ぎているという日常的習慣自体が生み出している、とも言えるのである。
 流通コスト、情報コストの削減という資本主義社会のルールに随順する形で我々はこれらの機器を開発してきた。しかしそうする中でそれらの機器の恩恵以上に、機器自体の魅力、便利さに対して夢中になってしまう魔力の虜になっているのである。
 同じ様なこととして性行為や飲酒、喫煙にも中毒性ということはあり得る。しかしこれらは所詮そうなっていく傾向の人達はある程度限られる。それは生活形態的にも生活水準的にも言える。しかしパソコンや携帯電話中毒症状は、その利用者数から言えば桁違いに日本社会で嵌ってしまう可能性のある人達の多さを保証してしまっている様なものなのだ。
 つまり誰しもが情報格差がなくなっていくという事実自体は革新的なことだったし、情報共産主義は現代人の権利、平等の観点から言っても全く理に適っている。それでも尚そういった生活習慣自体が齎す弊害については真剣に考えなければならないのではないだろうか?
 その為には我々は折角パソコン、携帯電話以外にも多くのメディアを有しているのだから、何もビジネス時間帯や利用必要時以外までそれら機器に意識を釘付けにしないで、本(電子書籍でもいいが、目には余り未だよくないかも知れない)もあるし、電車の中で車窓を眺める心の余裕もあっていいのではないか?
 電車の中で窓から外の移り行く景色を眺める心のゆとりをもう一度現代人が取り戻した時私達は逆に本当の意味でパソコンや携帯電話の有用性に対する認識を新たにすることが出来るのではないだろうか?

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