Tuesday, June 1, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十一章 日本社会を覆うどんよりとした悪といい子ぶった態度

 この文章を書くちょっと前に現政権の首相が退陣表明した。僅か八ヶ月の政権だった。尤も党自体はそのまま存続し、再び解散総選挙に縺れ込む事はないだろう(そうなったらなったで面白いと考えている人もいるかも知れないが)。
 人間には余り格式ばった正しさには耐えられないところがある。哲学者中島義道は正しいことを正しいと言われると人間は途轍もなく苛立たしく思うと「怒る技術」などで書いている。
 それは人間が清廉潔白であることだけでは生きていけないということを表わしている。
 しかし日本はある部分では政権与党に於いてもそうだし、ある宗教団体に支えられている政党に関しても言えることであるが、何人かのフィクサーが実質上では金権的支配を履行している。
 それはどんよりとした悪である。それは端的に反社会性を地で言っているが、一定の民衆から支持を得ている。
 今回の首相と幹事長の退陣はそのつけを払わされたと見る見方もあるだろう。つまり出来ないことまでも含めて、それが正義だからマニフェストし過ぎたことが退陣劇を招いた。その割には一切その事への言及は首相からなされなかったのは残念である。と言うよりある意味ではそれくらいには悪の部分も件の辞めていく首相も持っていたということだろう。
 一番悪質で、それが結構ある部分では国民に受けてしまう体質とは、この国に淀むいい子ぶった態度である。だからこそ出来もしない県外移転ということを退陣していく首相はノウノウとぶったのである。それを支える精神的「潔白さを望む」体質が日本人にはある。
 これは恐らく日本人にのみ特徴的なことではないだろう。
 又興味深いのは、いつまで経ってもその影響力を行使し続ける何人かのフィクサーはお互い同士はそれほど親しくはないだろうが、政界、宗教団体、マスコミも含めて何人かがいて、その影響力はいつも前面には出てこないが、ここぞという時には意外に根強い底力を発揮する。
 別のブログで反社会性とはかなり悪どいことをして、それでいて警察には捕まらないということである、と私は述べたことがあるが、それを力のない市民レヴェルで行う内は微笑ましいが、それが国家レヴェルとなると、いささか国家全体を固有の淀んだ空気にしていく。
 そういったフィクサー達は中にはもう大分年配者になっている人もいる。
 年功序列という考えは、日本では根強く地方の社会では残っている。それはある部分では企業などで実力主義的考えが取り入れられてもなくなりはしない。
 政権与党が全ての役員を刷新しても、首相を交代させても、日本人の中に奇妙な清廉潔白願望がある限り変人と言われた宰相の時の様な独走を許すことにもなるし、又出来もしない責任倫理にも悖るいい加減な無責任政治を招くだけであろう。
 私達は反社会性ということをもっと憎めないレヴェルで追求していく必要がある。つまりこういう風に余りにも頻繁に総理大臣が交代する様な体たらくは、かなり危険思想家達、つまり煽動的右翼などに付け入る隙を与えてしまう。
 マックス・ヴェーバーは政治が悪によって悪を征す部分があると考えていたが、まさにその通りである。人間の意思疎通には適度のアンチ・ヒーロー志向共感的作用と、相手の出方を待ち、こちら側に出来る限り有利に持ち込もうとするギャンブル的感性が宿っている。それが全く無い意思疎通など只の井戸端会議である。
 だが予想外に日本人はこの井戸端会議が好きである。日常的に趣味の集いなどに於いて地域社会、地方共同体のどんよりとした悪や、いい子ぶった礼節的年功序列が蔓延っていると言える。つまりそういう場所での何と言うことのない個々の対人関係術が更に拡張されたものこそ、現今の政治状況であり、マスコミは巨大な井戸端会議化していると言える。
 もっと我々内部に巣食う悪の要素を逆利用すべきなのである。それはフィクサーを温存させていく様な保守主義に於いてではなく、相手との駆け引きを、陰湿ではない形で、ユーモアを交えて戦略的意思疎通をし合う中でその都度の適切な政治判断を引き出すような策略的な知性を復権させるべきである。
 フィクサーを温存させてきた日本社会の体質の一番根っこにあるものとは、端的に権威者を信用し過ぎる懐疑心のなさである。そこに哲学的思惟が欠如した国民性がある。
 従ってこの国では意思疎通とは相手への配慮だけである。欧米で哲学的に配慮という概念が出てきたのはハイデッガーなどが魁であったが、その前には一切の配慮を否定する様な歴史的経緯があったが、日本はそれと丁度逆である。
 いい子ぶった態度を善しとする潔さを理想とする主義は、滅びの思想に近い。それは赤穂浪士、新撰組、特攻隊、ヤクザ等にも共通する心理である。
 人間はそもそもいい子ではない。その事に真摯であり正直であることだけが意思疎通にいい意味でスリリングな井戸端会議ではない形でのギャンブル的感性とアンチ・ヒーロー共感型心理をも巧く利用していけばどんよりとした悪といい子ぶった理想を背中合わせにしてきた停滞的ムードを払拭することが可能なのだ。
 悪戯っ子であり、悪い子であることの自覚こそが政治に活気あるディベートを復活させることに繋がる。それがどんよりとした悪といい子ぶった態度が交代に出現する様な振り子現象から離脱する唯一の方策である。

 付記 現在迄のところ、野党に与党に変わり得るべき力量の党も人材もない。こういう時期に安易に野党に加担してはいけない。危険である。それだけは避けねばならない。政権与党の中核を担う世代の力量に委ねていくしかあるまい。(河口ミカル)
http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-a69a-1.html
http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-19a3-1.html

No comments:

Post a Comment