Friday, April 16, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十六章 心地よい言葉の伝え方とは何か?言葉の持つ効果とは何か?

 言葉に於いて一番重要なことはその伝達内容、意味内容であることは誰しも知っている。にも関わらず同じ伝達内容でもその伝え方次第で全く変わった印象になってしまう。そのことは意外と日常的場面では重要である。
 それを言語学、構造主義的にシニフィエ、シニフィアンとヤコブソン的に考える必要はない。そういった学術概念規定的パラダイムとは少し違う問題である。
 伝え方には当然文法的配慮、言辞、表現方法等色々なことが考えられるが、一つは言葉を示す時の心構えとでもいっていいものがあるように思われる。
 言葉を発し合うこととは、それが実際の会話であれ記述を通した伝達であれ、その言葉の持つ意味を心地よく受信したいというごく自然な欲求に根差している。
 その為には発話者、記述者の言葉を最後まで心地よく聴いたり、読んだりすることを聴く側や読む側が自然に納得する形で発話者が記述者がその言葉の使い方を選ぶ必要がある。
 その極意とは端的にそれを聴く側、読む側が心の負担にならないような巧い言い方、つまりそういう不安を与えない情報様相にすること、それでいて取り繕った物言いではない真摯な言葉である。それはどういうものなのだろう?
 一つには助詞の使い方である。
 例えば相手の立場や年齢、職業などを考慮してもしないでも、一定の言葉の内容の後に加える「さ」や「な」や「よ」といった言辞はかなり日本語では大きなウェイトを持つ。
 「さ」にはある種のやるせなさが、「な」には対等な人間同士の同意確認、「よ」には相手に対して念を押す押し付けがましさが介在する。
 人間は言葉の意味だけでなく言葉の伝え方やタイミングなどを心地よい形で意味を伝えて貰いたいというごく自然な欲求がある。余計な一言、語彙、特に助詞が日本語では禁物である、と言ってもよい。
 つまり敢えて言えば、「言うべきことではない」とまでは決して言えないものの、敢えて言う必要もない、或いは言わぬに越したことはない、或いは言う必要がないから言わずに済ました方が無難な言葉はかなりあるのではないだろうか?
 特に対話においては発話であれ記述行為(メール、ツイッターその他)であれ、相手から対等だと思って貰いたいのであれば、相手に対して対等であるという態度をあからさまに示すべきではない。或いは少なくともそう受け取られる様な言辞をしないように注意すべきである。
 確かに理性論的には、仮にそういった言辞、助詞などによる物言いをしてしまっても、どうということはないと敢えて言うべきなのだろうが、如何せん人間は極めて心地よく相手の主張を聞き入れたいので、正しいことをあからさまに正しいのだ、と示されるとむかっとくるのだ。
 それは何故か?正しい事を正しいとあからさまに示されると、その主張を誇示する者の態度に即座に傲慢を読み取ってしまうものなのだ。
 それくらいのことに目くじらを立てることは確かに大人気ないとは言える。しかし人間は皆完全なる大人ではない。つまり神様ではないからだ。従ってそのような誤解を招く物言いなどは極力慎むに越した事はない。そう言う些細な日々の積み重ねでかなり得をする者と損をする者との間に開きが出てくる。
 繰り返すが、それを過大視すべきではない。しかし出来るだけ相手に不快な印象を与えないように気をつけるくらいなら誰にでも出来る範囲のちょっとした努力ではないだろうか?

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