Friday, April 23, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十七章 実用と応用③意志決定の合理化と反省意識(自己を分析する)

 今回は少し私的な経験から得た私流の日常生活での意志決定に役立つ自己分析について考えてみたい。
 私は一昨年ある哲学の有志研究グループと京都に永井均氏の講演を聴きに旅行した際に知遇を得た。彼等もまた永井氏の哲学に共鳴する人達で、私同様その講演を聴いていたのである。
 彼等は京都で活動するグループで既にその時点で数年以上活動を維持してきていた。彼等には京都流にアヴァンギャルド的な革新的なムードが最初からあった。それは端的にその場では如何なる社会的地位も年齢も階層も無化するという徹底した学究的態度である。
 それはある部分ではかつて私が所属していた中島義道氏の哲学塾カントでも共通した部分はあったし、氏による無用塾も似たところはあったと思うが、唯一決定的に異なるのは、氏自身が師であり指南役であるということだ。
 それは京都のグループには基本的になく、要するに世話役として若い26歳の青年が今現在担当しているし、それ以外のNPO法人の代表のある造船会社社長である40歳の中年男性と二人三脚で維持してきた、という歴史がある。
 さて私は当初彼等のその完全な平等主義にいささか面食らったし、相互の年齢とか経験を超えた完全対等主義的態度にどこまでついていけるかという事自体に関して、自分自身の忍耐力との兼ね合いから鑑みても不安はあった。しかも若い世代に当時十八歳(現在二十歳)の青年もいたし、彼等の中でも彼は突出して血気盛んだった。
 しかし私は彼等の中には何かある、という自分の中に彼等との交際が私自身に何か新鮮なものを齎してくれる予感のようなものと直観の方を優先したし、未だに彼等との交流が続いている事自体はそれを証明している。それだけ私は彼等との出会いを一つの大いなる邂逅と認識してきた。何故ならそれまでの私の人生でそれほど長く関わったグループは専門的な勉強以外ではなかったからである。
 この場合私自身が自己分析してみると、次のようになる。

① 最初彼等に接した時余りにも拘りのなさ、或いは対話における歯に絹着せぬストレートな対論において、新鮮さを感じ取りもしたが、同時にいささかの不安を感じた。或る種のアヴァンギャルド的過激さを私は匂いとして嗅ぎ取っていたということもある。
② しかしそれにもかかわらず、私は常に次に彼等と又会うべきかどうかを考えあぐねた。そしてそういう風にもう二度と会いたくはないと簡単に結論することが出来ないということは、それまでにそうなかったことだ、と思い当たった。
③ そこで私は私自身が彼等の存在に何か途轍もなく新鮮でいい雰囲気を嗅ぎ取っていて、率直に私自身はずっと同じ面メンバーで活動してきた彼等の中に私が加わっても私自身は新参者であるが故に軋轢はあるのではないかということを考えるようになっていったが、それでもそうだ、もう一度だけ出席してみようという思いも立ち上がっていた。軋轢その他への不安、それは端的に私自身が彼等の存在に惹かれているという何よりの証拠である、と思い至ったからである。

 そこで私は彼等が東京の高円寺まで出向いてきていたグループの研究会に一度出席することに決心した。そして以後続けて更に二回出席した。その都度世話役の26歳の青年が発表を担当した(最初一回は造船会社社長と合同発表であった)。そして続けて他人の発表をつきあったので、次回6月に私自身はこのブログなどで考えてきたことを発表することになったのである。
 ここには私自身の意志決定の合理化の過程が示されているように思うので、もう一度前記の①から③までを再考してみよう。

 重要なことは、私たちは何かを決断する時、敢えて決断するという場合、例えばある申し出を受け容れるか断るかという事に於いて、既に粗方自分の内心では受け容れるということと、断るということを決定してはいるが、受け容れる場合、それを憂慮なくスムーズに肯定出来る理由を、逆に断る場合は余り波風を立てずに婉曲に巧く断ることの出来るいい方法を模索していて、即決意を表明出来ないという時に、決断された行為を滞りなく決行する様に整えていること、つまり体勢を作ることを意志決定の合理化と呼ぶ、ということなのではないだろうか?
 確かに躊躇しているという意味ではある申し出を受け容れることと断ることとは隣接してはいる。つまり容易に受け容れられないことと容易に断れないという意味においてである。
 だがある決定的なこととしてこの二つは異なっている。それは受け容れる場合に即座に実行出来ない場合に往々にして我々に介在しているものとは、こちら側の沽券とかプライドとか、拘りであり、断る時に即座に実行出来ない場合に往々にして介在しているのは、明らかに相手を傷つけたくはないと言う、或いは断る自分が相手から悪く思われたくはないということである。
 その意味では私が京都で知遇を得た連中との哲学研究サークルに属する事となった経緯において私が①で既にある程度彼等の存在、そして彼等の活動自体に関心を持ち、惹かれているということが事後的な自己反省において判明していた。そして②で、もしその段階で一切次回もう一度会う気がないような場合、次回はどうしようか、などと考える筈はないと、私は考えたのである。
 ③において最後に私は本当は次回も出席したいのだが、ある部分ではそれを滞りなく実行させるものとして、自分より彼等の方が全員その時点では若い人達であったという事に於いて、自分に対して決して刃向かわない様なタイプの人間関係であるなら、私がどこかの講師として招かれてそこで生徒とか聴講生として集う人達と私自身は完全にビジネスとして講習料を徴収するという形で接する以外にはないが、少なくとも私は年齢的なこととか、そういった師弟関係的な階層性を求めて彼等と接していたわけではない、従って私は変な自分の中のプライドを一切棄てて彼等と全く対等の同レヴェルで研究し合うということを決心することとなったわけだ。
 要するに意志決定の合理化とは端的に「本当はそうしたいのだが<受け容れる場合でも断る場合でも>」それを押し留めようとする何らかの力を撥ね退ける理由を探っているということが出来る。
 それは今挙げた私が京都の連中と交流することとなる理由とは逆の「断りきれないのに、相手がどうしても好きになれない」という理由で自分の精神衛生的理由から断りたいという時に踏ん切りをつける為に正当的に断れる理由を探るという場合もある。
 
 そのことを考える際にかなり現代社会とは既に好感度よりも反感度によって最終決定を下す事が多いということを考えおく必要がある。つまり快・不快であるなら、何が心地よいからそれを選ぶという積極的理由よりも、寧ろ何が心地よくはないという消極的理由から何かを選ぶ、つまり職業などだったなら、積極的に「これがしたい」からではなく「これなら我慢出来るから」という理由で選択することが大半の人生では常套的なことではないだろうか、ということである。
 つまり何かに積極的に感動出来るからそれを選ぶというのは日常的には趣味的なレヴェルでの選択であり、義務的なこと、社会行動的なこと、職業とか対人関係的なこととは、理想的なことからではなく、もっと現実的なことで選択しているわけだ。それはある職業や行為や対人関係を選択する(例えば患者が精神科医を選択し、就職したい人が企業を選択する<勿論もし二三社から採用したという通知を受けた場合に限るが>)場合、「それ、あるいはその人なら我慢出来る」ということは、逆に「それ、あるいはその人だけは我慢出来ない」というものに対して、積極的に選ぶのではなく積極的に避ける形で、消去法的にある別のものを辛うじて選択するということである。
 それを極めて象徴的に示しているのが、ツイッターのフォロワーとフォロウィングの選択基準に既に最初からアンフォロウとブロックが具えられていることである。何故ならツイッターの場合自分のツイートに対して挑発的に喧嘩を仕掛けてくるツイーターが必ずいるからである。勿論友好的なツイーターもいる。だがそれはあくまで偶発的に自分のツイートに引っかかってきた人であり、理想選択によってではない。そのことが重要である。つまりツイッターでは偶発的邂逅自体にその都度、それを積極的に受け容れるか、それとも拒否するかという選択を迫られていて、その決断続行自体がツイッターをユーザーとして利用することを維持していく理由となっているのである。
 そういった消極的選択の、つまり常に向こうから偶発的に引っかかってくるフォロワーの選択をその都度していくという仕方であるツイッターは率直に言って「そうしてまでも得られる相互のツイート内容という瞬時で素晴らしか下らないかを判断することを通した情報摂取」を価値化されたものであると我々が感じ取っている場合にのみ積極的にツイートしていくことを我々に誘引することだろう。
 しかし少なくとも京都の哲学研究のサークルとの出会い、まさにそれこそが人生の邂逅ということなのだろうが、それに対して私が抱いた事後反省における①から③は、全て私は彼等の私の人生における存在理由を出会った瞬間認可していて、その認可を滞りなく正当なものとして認識し続けていく理由を、つまりそこに何の拘りもなく受け容れる理由を探るものであった、ということがこれで鮮明化したと言えよう。
 そしてツイッターのような便利で日常生活において直に人と会うことなく、それでも有益なコミュニケーションをすることを可能とする交流(言葉の上での純粋な意味提示行為としての)と、それをも含むが直に会うことによって得られる人間的交流ということの併存を我々が人生で多層的に望んでいるということを示してはいないだろうか?
 繰り返すがツイッターでは不快なツイーターを積極的に拒否していく、そして受け容れられるツイーターは消極的にアンフォロウしたりブロックしたりしないということにおいて成立している便利なメソッドである。メディアである。その消極的選択の持つ日常生活上での現実性、実利性、有用性といったことが、そういった「不快ではないこと」、つまり否定を否定したいという欲求が肯定を肯定したいという理想追求よりも、より長期持続には耐えられることという真理を表わしてもいるように私には思える。
 つまり退屈な行為の方がより長期持続には耐えられ、逆に瞬時に楽しい行為はあくまで短時間内で充足し、余り長期持続であると辟易していくものである(芸術表現では概して絵画は前者、音楽は後者であると言える)という真理を表わしているようにも私には思えるのである。

No comments:

Post a Comment