Tuesday, May 18, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十八章 実用と応用③意志決定の合理化と反省意識(自己を分析する)PART2

 私たちが何か集団に属したりするように自分を持っていく時、そこには自分以外の誰しも何らかの形で集団に帰属して、或いはその様に自分を持っていって自分を鍛えているのだとそう思うからこそ、自分もそうしようと思う。
 これは何も態々ピアプレッシャーなどという語彙を使用しなくても誰しも思うことである。そしてどういう集団が自分には適合しているのだろうかと考える。
 その時必ずどの集団に属すにしても、何らかの形で自分にとって刺激になる様な自分を鍛えるのにいいと思える対自己的スパルタ教育的な決心と共に、それとは逆方向の「自分だって何とか務まるのではないか」という算段もある。つまりある意味では何をしても一切自分には勝ち目もなければ、歯も立たないような集団に自己を置くという決心はあり得ないと私は考える。
 それどころから全ての決心は「かなり自分よりも優位にある知性の集まりだ」とそう考えても逆に「でも自分の方が世渡りは巧い筈だ」とか、逆に「かなり自分よりも世渡りの巧い連中の集まりだ」とそう考えても、「でも自分の方がより知性では上である筈だ」という目算があってこそ、つまり何かに関してなら自分は決して他の成員全員と比較しても見劣りしないだろうという可能性に対する確信があってこそ、ある集団に帰属することを決意させることとなるのだ。
 ある部分では何か自分が決心する時に必要となることとは、全ての未来事象とは不確実である故、その不確実性の中には思ったよりもまずい結果になるということから、思ったよりもよい結果になるということまで触れ幅がある。
 しかしかなり十分に検討した結果、向こうがこちらを迎え入れてくれるのであるなら、それに対し快く承諾するか、それでも尚固辞するかということの間には必ず逡巡もあるし、躊躇もあるだろう。そして決心する時には「この集団に属したらかなり他の成員は自分よりも上手で二進も三進も行かないかも知れない」という不安と共に、それをも凌ぐ「いやもしかしたら、自分の努力次第では自分の能力を他の成員に誇示するいい機会かも知れないぞ」という希望(楽観的であるが、尤も楽観的ではない希望などないのだが)が介在して、その両者の釣り合いに於いて後者が僅かでも上回れば、迷うことなく決心するだろうし、かなり謙虚に「何、最初は皆から遅れを取ったとしても徐々に挽回していけばそれでいいさ」という気楽さがある場合(その場合他の成員の顔ぶれとか、中心人物に対する評定に於いてかなり感情的に良好であるということが前提となるが)でも、案外躊躇なく決心出来るとも言える。
 このことから、人間の感情が尊敬心自体も又、かなり侮蔑的感情と同居している、しかもそれは尊敬する対象に対して、同時に侮蔑的であり得るという意味でそうである、と言える。
 私達は愛情を持てるもの(物でも者でも)に対し一定の感謝の気持ちと同時に、一定のこちらの方が優位に立てるぞという打算とがかなりの比重で双方入り混じっていると言えるのだ。
 特別性悪論的な見方をしなくても我々は純粋動機主義的でもなければ純粋打算主義でもない、常にその中間辺りに我々自身の意志決定の合理化に対する基準を設けている。
 私たちはかなりその揺らぎの中に、自分を常に横たえて「次はどうしようか」と出方を探っているのだ。その出方とは自分自身の内心の感情を推し量るということ、つまり未来の自分も又今の自分からすれば他人であるし、又今の自分もその時(未来に於いては)の自分からすれば他人であるということに対する我々自身の了解に於いて、自分自身の出方に対する短時間に於ける直感的な思いを見定める事を通して、自分自身の性格的な決定傾向性をその都度査定している。
 又そうする事でその自分自身の仕方が、自分がよく知る周囲とか、一定の成功を収めている成員との間ではどれくらいの位置にあるのか、という相対的判断、メタ認知をすることを通して判断自体の、意志決定の合理化自体の仕方に対してその都度の判断、つまり反省をしたり、逆にこのままでいいのだと開き直ったりすることを促進するのである。
 故にこそ他者全般に対する「もしからしたら、かなり手強いかも知れないぞ」という判断と、「いや、それは思い過ごしで意外と御しやすい、思ったほどじゃないかも知れないぞ」という判断は常に隣接しており、ある意味では相互に中和し合っているし、解毒し合っているとさえ言える。
 だからこそ、愛する対象に対して同時にかなり畏怖の感情を抱いたり、逆に畏怖の感情を抱く対象に、同時に見縊っておいても大丈夫だという判断を同時に常に介在させたりしていくのである。
 これはアンヴィヴァレンツな感情である、とそう一言で言い切ってしまっても意外とつまらない。勿論そんなに単純ではない。常に本当は未来が完全に不確実である様に、反省しないで済む事自体も常に予測し得ない。かなり調子が悪い場合でも結果的には巧くいったと後で思えることもあれば、逆に絶好調で臨んだ割には芳しくない結果しかついてこない場合もかなり人生ではあることである。
 その不確実性に対するその都度の見切りをつけるという事自体が意志決定の合理化なのであり、その合理化とは、一つの対象に対する配慮ある尊重という相手に対する敬遠と同時に親しみのある気安さという対対象的な意味での防衛心の解除、の相反する二つの感情が同居し、その相反する感情は常にどちらかが少しだけ相手を凌ぎ、その力関係も徐々に揺れ動いているということが言えるのである。

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