Thursday, May 27, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十九章 出会いの必然と偶然と知らない世界と知る限界① 

 私達は日々自分にとって関わりの深い人達と交流し、一緒に仕事をし、共に暮らす。しかしその人達との出会いはかなり偶然的要素によって設定されていた筈だ。
 例えばどこで生まれ、どこで育ち、どういう学校や学歴を重ね、どういう職業に就いたかということによって(その経路自体も偶然的要素と、生まれ持った資質とか才能とかとも関係があるが)どんな人達と出会うかという事も決定される。知り合った相手の人達も自分と同じ様な偶然と必然の要素を抱えて貴方と出会うまで生活してきたわけだ。
 私達は現在インターネット上でブログ、ツイッター等で日々新たな出会いを作ろうと思えばかなり大勢の人達と知り合うことが出来る。しかしどんなに出会ったとしても、例えば百人親しい人が出来て、かなり深く交流する様になっていったとしても、せいぜいその中の数人と親しくなり後はそれほど密な付き合いではなく軽い付き合い、中には深く交流した後決裂していく他者もあるだろう。そして新たに補充していってもせいぜい数人加わるくらいだろう。
 兎に角日本人の人口の全員と知り合う事など物理的(時間的にも空間的にも)も、精神的にも不可能なのだ。
 だから山があって雨が降り水脈に沿って出来る川の様に、かなり細かい水路の決定には偶然的要素が介入しても、大まかな水脈の流れと方向は必然的に地形その他の条件によって左右されるということから決定されている様に、私達が出会う人達の顔ぶれも、どういう職種に就くか、あるいはどこに住むかで粗方決定されてしまう。
 勿論その中でも些細な部分ではよく行く中華料理店とか行きつけのスナックとかということで、そこに集う人達と出会うという形での偶然はあり得る。長く同じ場所に暮らしていても、恐らくかなり大勢の人達と一度も顔を見合さずに終えるということもある筈だ。
 つまり私達は自分にとって重要な出会いや、住む地域によって決定される出会いといったことを総計しても、せいぜい数百人以内の人と面識があり、それ以外で顔だけ知っている人もせいぜい同じくらいの範囲に留まるだろう。
 それは知ることが出来る限界が脳にもあるし、私達自身の個人的行動半径にもよるし、知らない世界、知らない人達が知っている世界や知っている人達よりも遥かに多いだろうということは、漠然とした確信、曖昧であるのに絶対的確信として私達の脳裏に収納されている。
 つまり自分が知り得る限界を知っていることで、逆に自分が知り得ないことの広大さを実感しているのだ。或いはこうも言える。確かに私達は自分の努力次第ではそれまでに手掛けてこなかった、取り組んで来なかったことにも挑戦することは可能だ。しかしそれまでしてこなかったことの数はしてきたことの数よりもずっと多いので、必然的に新たな挑戦をするとしても、その数は生きてきた年数からすれば残りの時間内で一定程度達成出来るものとなると、限られてくる。従ってかなり未来の不確実性に於いて、今後自分で出来る範囲というものは量的には限定されている。しかしずっとスポーツをしてきた人がそれ以前に関心さえ抱かなかった手工芸の世界で身を立てるということは現実味が薄いかも知れないし、ずっと事業をしてきた人がいきなり一度も描いたことのない絵画を始めるということも、趣味的に好きでなかったなら、かなり一撃を食らわされる大きな出会いで触発されるということがなければ展開し難い事である。勿論スポーツパーソンが趣味でもなかった手工芸に嵌るという可能性も常にゼロではないし、あらゆる可能性はあらゆる人達に開かれているとは言える。しかしそういった多くの開かれた可能性の中のほんの一部だけと出会う仕組みになっているとも言えるのだ。
 だからこそ前の段落の最初に述べた様に、知っている世界、知っている人の数がそれ以外の知らない世界、知らない人達の中のほんの一握りの偶然的出会いによって構成されていることを我々は薄々常に知っていて、それだからこそ知らない世界、知らない人達の広大な領野に自分自身が取り囲まれているということを概念的にも現実認識的にも薄々であるのに、あるいはその知らないが故に曖昧で確定的な像ではないにも関わらずかなりはっきりと我々は確信しているのだ。自分が知っている世界、知っている人達以外の多くの世界、大勢の人達が自分とその世界の周辺から、そのもっと先まで広大に続いている、と。
 勿論地球があって、それは球状であり、世界には色々な国々があり、どれくらいの人口を抱えているかということを我々は粗方知識として把握しているし、それ以外にも日々ニュースや新聞、その他本や人から聞くことなどから類推してその知らない世界とか、行ったことのない地域さえ想像することは出来るし、写真や映像で見たことがあるなら、それを更に引き伸ばして想像することはそんなに難しいことではない。
 従って全く目にしたことがないこと、一度も会ったことのない人でも想像することは出来る。
 しかしその想像は自分の中でも実際にしてみれば、或いは行ってみれば、会ってみれば、必ずそれまでの想像の通りだった部分以外の、意外な部分を発見するだろうということも経験上我々は確信を持って「その通りだ」と思っている。
 と言うことは世界とはその限界とは必ずあるし、自分が生を営んでいる時間にも限界があるのだし、しかも未来の事象は細かい所までは今からは把握出来ないし不確実である故、どう展開していくかは分からない。そして経験を出来ることの範囲も自ずと限られている。しかしやはり限界がある中でも放射状の開けている可能性の中の何かを我々は選択せざるを得ず、その自分にとっての世界の限界に対する曖昧ではあるが、そんなに逸脱することのない範囲でなら想像することも可能だし、しかし同時に確定的な像という意味では常に不確定的要素を残しつつ未来へと向き合っているのだ。つまり世界の限界とはそういう意味では時間の中で未来へと向き合っている限り確定的ではないし、常に流動的だし、限界ということ自体もイメージすることは困難なくらいにファジーなのだ。それは物質の最小単位が粒子であるか波動であるかという事自体も確定する事が出来ないのともどこか似ている。
 認識における世界の限界ということと、その実際の具体的像が思い描けるかということは全く乖離した状態にある、と言うことが出来る。
 と言うことはある意味ではその都度の「~である、或いは~ではないか」という判断や、世界の限界がある、と言った認識は、とどのつまり知る限界を知っていて、知らない世界、知らない人達といったこと、つまり未知の世界と他者全般を知る限界の中から楔止めしておく為の曖昧で不確定的な想像を停止させる為の処方である、ということになる。
 確かに知らない世界、知らない人々とは実際に遭遇もしていなければ、経験もしていない見聞きしていない世界且つ人達なのである故、想像に伴う労力は実際に見聞したことで費やされることとは桁違いに行ったり来たりして、要するに茫漠とし過ぎている。それは妄想的な思念に近い。従って一旦停止させる必要性を我々の脳は自らに命じるのだろう。
 それは一種の判断停止(エポケー)である。
 知らない世界や知らない人達とは、知る世界や知る人達という具体的像が脳に思い描けるが故に「それ以外」という形で認識可能である。つまり知る世界や人達がなければ必然的に「知らない世界、知らない人達」という想念は生じ得ようもない。故に知ることによって知らないことを作っているとも言える。しかし同時に知ることは知らないことと同時に把握されてもいる。
 例えば朝出勤時に、電車が人身事故か何かで遅れてきてやっとホームに到着した時ふと右隣にいた女性に「やっと来ましたね」と声をかけて、向こうも「そうですね」と返答したとすれば、その時左隣にいた男性には声をかけずに終わったということを意味する様な意味で、我々は誰かと出会った時、それと引き換えにその人と出会わなければ出会っていた人と出会わずに終わったということを認識することが可能である。それを運命と呼んでもそれは自由であるが、兎に角全ての人生上での時間はその様に何らかの選択をすることによって、逆に選択し損なった膨大な行為、出会いを積み重ねていくことでもあり、それは特定の経験を積み重ねれば重ねるほど、未経験のものをも積み重ねていくことだとも言える。
 つまり得ることで失っていくことの集積が人生だ、とも言えるわけだ。
 だからこそ私たちは「自分が歩んできた人生」が、「自分が歩むことなく終わった多くの人生」との集積の中からたった一個の「自分が歩んできた人生」を選び取ってきたということであると、それがそうしている時には終ぞ意図的ではないと思っていても、過去を振り返った時にはそう思えるのだ。
 従って自分が選び取ってきた(それがかなり偶然的な選び取りであったとしても尚)世界、人達とは、それと引き換えに選び取り損ねた多くの世界、人達との出会いの可能性を棄ててきた事を意味するから、必然的に選び取ったこととは、選び取らなかったこと全般に対する象徴的偶像であると言える。つまり知らないままで終えた世界、人達との出会いがなかったこと全般を代表して知ることとなった世界、人達との出会いが自分にとって存在しているというわけである。
 だから定義し直すと、知らない世界や知らない人達とはそれ自体偶像であるが、その偶像とは想像困難で曖昧な存在であるが故に、その想像出来なさを想像出来る「知る世界、知る人達」に委任することで、我々は「知る世界、人達」を「知らないままで終えた世界、人達」全般への偶像化しているとも言える。
 つまり偶像の不確定的曖昧さ、想像し難さを払拭する為に、知る確定的存在を利用して、それをもう一個の偶像とするという心的決定を下しているのである。
 だから私達人類にとって神に偶像がある場合、それは知らない世界、知らない力、知らない自然法則全般を、自分達の知る姿を通して(故にこそ神の偶像は人間を象っている。勿論アニミスティックな宗教では人間以外の動物、例えばヒンドゥー教では牛だったり、他にも象とか色々な動物だったりという風にされてきているわけであるが。)崇めることとしてきたのである。

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