Sunday, April 11, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十五章 場を白けさせない為に「合わせる」工夫の意味

 我々は日常的に集団になると、集団が運用しているある固有の流れに身を任せるということがある。それは大きな政治経済の流れでもそうだし、小さな集団内での笑いなどでもあり得る。
 例えばある学会に入会した新人の会員がいたとしよう。それがたまたま分析哲学に関する学会だったとしよう。その学会では既にクワインの「論理的観点から」とかクリプキの「名指しと必然性」などの論文の検証からごく初歩的な会全体の知識や現代哲学的通念が共有されているとしよう。がその新人はその二冊をたまたま読んでいなかったとしよう。そこで皆が固定指示詞といった語彙を別の内容の論文を発表するある会員のプレゼンにおいて会員全員が流用していて、それを承知の上で会全体が進行していたとしよう。するとその新人は本当はそこで会の進行を止めて質問をしたかったのだが、その流れを阻む事自体を会の全体の運用から憚られて、その会終了後などにたまたま飲み会などが有志だけで開催された時たまたま隣の席に座ったやはり未だ入会後一年くらいの会員の人が感じがよかったので、そのことについて全員で何か発起人が音頭を取って司会していた時間帯を過ぎまちまち勝手に会話しだした頃を見計らって質問し、その会員から笑顔で親切に教えて貰うというようなことというのは日常茶飯なことである。特に学会などでは優れた論客などが数人主導権を握っていて、そう容易にその流れを堰き止めたり滞らせること自体憚られるものである。
 それは逆のケースでも十分あり得よう。例えば仮にテレビなどのメディアで文化人的に有名になったある本当は堅い専門分野の学者が、歌手やお笑いタレントたちが挙って出演するヴァラエティ番組にゲストとして出演した時など、そこに出演していた大勢のタレントたちが一瞬で理解したジョークとか駄洒落の意味を、余り昔からヴァラエティとか歌謡番組とかお笑い番組を見てこなかったその者が、皆が大爆笑になったので、適当に皆の歩調に合わせて一緒に笑うというようなことは、映画を見ていて皆が笑ったので、自分のつられて笑うということと同じくらいに頻繁にあり得ることである。
 その学者は番組収録とか生放送終了後に、たまたま打ち上げについて行って、個人的に親しくなったあるお笑いタレントから「あの時のジョークの意味私理解出来なかったのですが」と密かに二人だけで会話する機会を見計らって質問したら、相手のタレントは「何だ、そんな事ですか」と言って親切に教えてくれたという事もあり得よう。
 それが生涯を左右するような裁判などで自分が無実の罪を着せされて冤罪にされそうになった時に、判事や証人の証言などに対して反論したりすることの重大性に比べれば、たかが遊びなのだ。従って場の空気を敢えて白けさせる必要もあるまい、という配慮から「それどういう意味ですか?」などと質問することを憚るということの本質とは、ある部分では集団内での和秩序を維持するための協力とも言える。しかし実際上、我々が学生時代とか、少年少女時代に、学級委員会などで皆が理解しているような雰囲気の時とは、通常誰でも知っている四文字熟語をたまたま自分だけが知らなかった時など、その場で「聞くは一時に恥、聞かぬは一生の恥」的なことがあったとしても、その時に質問しないのであれば、あとでずっと損をするということででもない限り、家に帰って自分で辞書を引いて調べておこうとメモをとるなりしていたことを誰しも一度は思い出すことだろう。又どんなに偉い学者とか専門家でも誰しも一つか二つくらいは当たり前に普通の人が知っている熟語を知らなかったり、変則的な漢字の読み方などを間違って覚えていたりするものである。又仮にそういうことが一つあったからと言ってその人がいい仕事をしてきた人である場合、その人の社会的評定がぐらつくということがあってはならないだろう。そういうことで揚げ足を取ろうとする者がいたとしたら、その者の方が非常識であり卑劣である。
 話しを戻そう。その場の全体的な運用の流れを殺ぐことを恐れてよく理解していないことがあっても、その段では質問をすることを自ら積極的に控える工夫とは、協力であると同時に、集団内での責務偽装であり、同時に、そのことをその時に「よく理解出来ない」とか「知らない」ということを表明することで得る恥ずかしさを回避する意味合いから羞恥偽装でもある、この二つが合わさった意志選択である、と言えないだろうか?
 大人社会では恥ずかしさを素直に表明すること自体を忌避する工夫がある種の人生経験的狡さとなって身についており、それをこういう時に援用するのである。故に「知っているのに、知らない振りをする」という悪意もあるし、「知らないのに知っている振りをする」悪意もあり、後者にそれを位置づけることも可能であろう。もう少し高度になると「知らないのに知らない振りをする」ということになる。これは落語の高座で聞いた話からのものである。
 責務偽装とは若いアナウンサーがニュースで昔活躍して今はリタイアしている政治家とか実業家などの死去のニュース原稿を読む時に、本当は多少名前を聞いたことがあってもその原稿を読む本人はあまりよく知らなかったり、全く知らなかったりした場合でも、さもよく知っているような表情を浮かべてテレビのカメラに向かってそのニュースの視聴者に向かって原稿を読む行為などに見られる職務上での演技のことである。それを全体の運用、流れを殺ぐ結果へと結びつけないように巧く滞りなく「白を切る」ということが、まさに歌舞伎での十八番である勧進帳的な意味合いでもそうだし、もっとそんなに切羽詰ったことではないケースでも日々我々は経験していることである。
 そして老練で百戦練磨の大人、あるいは海千山千の大人というものは、本当は自分でよく知らないこともあるのに、さも全部知ったような表情や素振りをしたり、本当に親しくなった他者にしか自分の無知を曝け出さないようにしたりすることによってその場その時を巧く演技して切り抜けてきている。それは彼等が羞恥偽装をすることを子供なら心の中で悪意を持ってする、つまり嘘をついてはいけませんよ、と両親から躾けられていることを敢えて自己責任の下に逆らって行うようなこと、それがまさに子供が自我に目覚めていく過程でもあるのだが、それくらい朝飯前ということで本音と建前を使い分けるような処世術、処世訓を習得していくに従って子供が抱くような贖罪の心理など微塵もなくなっていく。またその倫理的贖罪心の鈍磨こそがある意味では厚顔無恥な老化現象、まさに感情の老化現象でもあるのだ。
 人間は時には恥をかいたっていいのである。それを畏れないで常に向上したり、分からないことは、相手は年配者であれ、自分より年少者であれ真摯に問い尋ねとりすることを厭わないでいるということこそが、精神的若さを維持していくことへ直結している、と言える。

 付記 この集団内運用、流れに協力する「合わせる」ことと、自己内の羞恥による無知の隠蔽は、サルトルの「存在と無」中の自己欺瞞とか、カナダ社会学者のゴフマンによる儀礼的無関心などとも関連づけて考察可能であろう。又勧進帳による武蔵坊弁慶による胸源義経に対するレスキューなどは私自身の定義からすれば詐欺偽装(サラ金の受付穣が笑みを浮かべて借金に訪れる人をさも親愛の情で惹き付ける演技や、テロリストに監禁された人が自らの拉致状況において、自分たちが人質として殺されないように如何にテロリストたちを刺激しないように友愛的態度を偽装することに見られる「合わせる」態度、振舞い)に近いものである。偽装心理については後章で詳述する。

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