Thursday, April 1, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十三章 実用と応用③人間に対するメタ認知について

 再び少し実社会的な俗なことについて考えてみたい。
 率直に言って私は哲学者、論理学者などをはじめとする学者一般に対して最大の不満と、彼等に対する欠如部分を認識している。それは純粋の学問を学ぶ姿勢と、彼等自身が教育者としての立場があるということから、世間知らずであることである。
 その最たるものは、彼等が極若い時期からずっと先生とか教授とか呼ばれてきているので、自分が担当する学生とか、カルチャーセンターなどでの一般社会人に対する応答に対しても若い学生たちとそうではない年配者に対しても同じように対応する。勿論学問自体に相手を社会的立場で区別して接することは許されないという不文律によって彼等はそうしているのだが、実際上人間は若い人には未だかなり多く時間が残されているし、年配者はそうではない。従って相手を見てアドヴァイスの仕方を教授や先生、講師と呼ばれ、そう世間から認識されている人は慮って対応すべきなのであるが、それがなかなか出来ないのが哲学者、論理学者(故に恐らく数学者とか理論物理学者たちもそうであろう)一般の最大の欠陥である。
 さて私の考える対人対応術とは、相手も見て対応せよ、ということである。相手が物分りのよさそうなタイプの人間かどうかを鑑みて我々は例えば道に迷ったりした時に質問する相手を選別している。それは殆ど直観的な判断である。それと同じことが全ての対人対応術に適用出来る。
 例えばカルチャーセンターなどで各講義を受講する聴講生として参加する社会人は、端的に大学院で学位を取ろうとしている学生と同じではない。院生などは本当にその者が将来学者としてものになるか、あるいは一般社会で通用する人間になるかどうか全くの未知数であるのに対して、聴講生はきちんと社会で働いたりして、それ相応の時間を人生で過ごしてきているのだから、全く異なった心得でよいし、またそういう区別をして接して来ない講師などを人間的に相手にするべきではない。
 学者とは一般に世間知らずの最たるものなのである。狭い世界でだけ生きている者なのである。故にそのことに対して自覚的で自省的なタイプの講師だけが信頼出来ると言える。
 また相手の本などを読んで、予めそういう講義を聴講する場合には、質問内容を考えておくということも大切である。相手は営業で知り合う一般社会人ではない。従って自己の専門的学問分野に対する自負だけに凝り固まった人達なのである。従って通常の市民のような大人性が欠如している人達なのだから、それ相応の適度に相手を持ち上げて相手の知の領域の内容を予めメタ認知して、相手からこちら側にとって有効な情報を聞き出すくらいの智恵が求められる。
 カントが言っている根本悪とか善意志といったことは、人生を抽象化した哲学純粋定理的な意味合いを帯びているのであり、それは実践したら危険である。それはニーチェにしてもウィトゲンシュタインにしてもハイデガーにしても、偉大な哲学はソクラテス以来全てそういう実用、応用的な危険性を伴うということをよく認識して学問に接するべきである。つまりそれこそがメタ認知なのである。
 従ってメタ認知とは、そういう風に相手(実際の人間であれ、書物上だけでの接しであれ)を対象化して認識し、その者の存在傾向をよく鑑みて接しよということである。
 その為には、本を読んで理解するということでなく実際に会って話しを聞いたり、質問したりする場合にはあまり最初から本音を言ってはいけない。本音とは相手の正体をよく認知してから然る後に少しずつ自己の内奥から引き出すべきものである。
 従ってあまり誠実過ぎる接し方を最初から他者には取るな、つまり相手をあまり信用し過ぎるなと私は言いたいのである。それは特に新人社員とか社会人一年生的な若い人には言いたいことである。
 それは例えば院生で担当して貰う教授に媚びよという事ではない。勿論それが必要なこともあろう。だが寧ろこちらが学費を支払って接しているのだから、必要以上の持ち上げをすることはない。だがそれでも尚、相手の立場、相手の学問的専門性と、思想傾向をメタ認知することによって、余り自己内の真意を全て明らかにするべきではない。
 人間は相手に対して一定の敬意を持つということは、最初からその者に対する感情を相手に正直に伝えることではない。つまりそういったクッションを置いて、寧ろ質問をした当の担当講師などが質問者に対して適切な応対をし、よいアドヴァイスや意見を引き出すようにする為には、寧ろこちら側の真意は積極的に抑えて、相手自身が本音や真意を言いたくなる雰囲気を作ることこそが求められているのである。
 つまりカントやニーチェといった哲学者が訴えてきている誠実性とは、心の中の本音を全て語れと言っているのではない、ということである。つまりカントが嘘をつくなと言っていることとは、端的に「全てを語れ」と言っているのではない、ということだ。「語るべき内容」よりも、「どういう風に語るべきか」と真摯に熟慮して語れ、ということなのだ。
 つまり相手があまり言いたくないことを引き出そうとしてはいけない、という事なのだ。相手が快く質問に返答してくれるような質問の仕方、つまり雰囲気作りが必要だということである。従って余り挑発的な質問をする、つまりそういう部分で変に誠実性を示してはいけないし、そういう風にバカ正直になれ、と哲学者は私達に語りかけているわけではない、ということだけを我々は心得ておくべきである。
 それは新入社員達にとって上司や先輩に対する接し方においても全く言えることである。
 だから逆に一般社会人を相手にする日頃は大学などで教授、講師などをしている人に求められていることとは、相手を見て区別して応対せよ、ということである。まかり間違っても相手が自分の聴講生だからと言って、青年も中年も老人も同じように応対すべきではない。それは哲学の講師であるなら、哲学命題的な意味で言っているのではない。それは全く差別するべきではない。勿論大人には大人の、青年には青年の哲学的心得はあるにはある。しかしそれは哲学命題的な意味では然程大きなことではない。私が言っているのはそうではない。相手の人生経験に応じて質問者であり得る聴講生に対する態度を区別せよ、と言っているのである。
 つまり質問をして相手から情報を引き出す立場であれ、相手から質問されて情報を供給する立場であれ、バカ正直に誠実であってはいけないということである。この世界において適度の嘘や欺瞞を一切なし得ないで誠実性だけで接する人がいたとしたら、只の狂人であると私は言いたいだけである。
 哲学命題における誠実性とはそういう社会的処世術と決して矛盾するものではない。実はもっと深いところにあるのである。その深いところをよく直観することを通して、寧ろそれほど深くはない世間的な礼節的部分では適度な処世術的智恵を働かせ、巧くやれということである。つまりそれこそが自分にとって有効でよき利益を得られるように他者と接するということである。その為にこそ冷徹に接するべき他者に対する像をメタ認知(勿論自分なりの主観によってでよい)をせよ、ということである。

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