Tuesday, September 7, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十一章 書かれたことに公共的意味が付与されるということ 

 古代ギリシャのプラトンやアリストテレスから、今日のリチャード・ローティやジョン・ロールズに至るまで全ての書かれたテクストは、その書いた人の内的なモティヴェーションとしての感情や、それが書かれる時代に於いて作用する意味などを今日的な意味で(その意味では現代の執筆者によるテクストは未だ後世にどういう意味を付与されるかは定かではない。しかし十年前のテクストには今日現在の意味を付与して我々は読む)読み換えられている。
 それは書かれたことの意味が、書いた者にとっての意味より優先される、つまり書くという行為自体が既に書いたことによって書いた時にどういう意図を内的に示していたかという筆者の思惑を超える、ということを意味する。
 又書くという行為を選んだ人達は、既にその時点で内的にどういうモティヴェーションで臨んだかということが然程書いた後では重大な意味を持たないということを予め了承する形で常に臨まない限り、その作業は持続され得ないということだけは知っている筈だ。
 従って本章のテーマはまさに二十八章と連携している。
 ソクラテスはプラトンによってその意志を後世に伝えられたから、それはそれでプラトンを通したソクラテス像しか我々には接する機会が与えられていない。
 しかしそれ以後多くは(ソシュールなどの例外を除いて)本人による直筆が出版されてきているわけだ。
 その点でカントに対してカント派とか新カント派とか、ヘーゲルに対する右派、左派とか、フロイト主義者達が後世色々と分派していったという事実はまさに、カント自体、ヘーゲル自体、フロイト自体が、彼等個々のキャラクターとか、生きていた時代の実像とは全く無縁に語り伝えられて来たということを意味する。
 従ってデカルト主義者とはデカルト本人にとっては極めて本意であれ不本意であれ、彼自身がテクストを書いたという事実に纏わる彼個人の思いなどは、まさに「どうでもいい」という位相でのみ彼のテクストが語られるということを意味している。
 その意味では全ての書かれる言葉は、その場で発声して語られる言葉以上に、申し開きや言い訳を許されないということである。
 まさに哲学とは(実はかなり文学もそうなのだが)書いた当人の志を殺して、死んだものとして意味体形としてのみ成立している事態、つまり哲学の全歴史がそうである、ということが言える。
 私は昨日次の様なツイートをツイッター上に載せた。

○言葉は意味化されることで一回リアルタイム性や発信者に固有のモティヴェーションを徹底的に無化される必要がある。そうすることでその言葉を再生させる読み手によって思想化される。それが所謂哲学の歴史であり(宗教や科学の歴史でもあるだが)、言葉はaliveからdeadに一回なる必要がある。

○意味はリアルタイムから永遠の相へ移送される。言わばそれが我々の言語的思惟に備わった宗教性である。言語行為はそれ自体一つのリアルタイムの祈りである。それなしに成立し得ない。我々は生きているのだ。死者と決別し、いつかは自らも死者となりゆく事を承知でその狭間で言葉を紡ぎ出しているのだ。

 もし書くという行為が一切なく、只実際に対面して誰かに告げるだけであったなら(それでもそれをヴィデオに撮っておくという行為が成立すれば、又記録的意味合いを持つのだろうが)、或いは意味とは常に前者のリアルタイムとしてだけ存在しよう。
 しかしその場の臨場感と、その場でのメッセージ伝達だけで言葉が終始しないということは、言葉が書かれるということに根差している。
 つまり書くという行為に付帯するモティヴェーションとは、書くことによって消去されていくものだし、又そうでなければ書くという行為を滞りなく成立させない。
 書かれた言葉とは、それを書かれた後で誰によって読まれることになっても、もう一度書いた筆者の意志を意味として読み手によって読まれるということであり、それは読者による勝手な、恣意的な(そうである以外にはない)筆者の意図の再生である。つまりそれが書き手による書きたいという欲求、つまりモティヴェーションの「思想化」に他ならない。
 思想化するとは、端的にそれを書いた時点でのみ通用する言説から(従って政治<経済であってもいいが>的経緯に於いて書かれた政治的予想の記述は、ある程度時間が経つと、余程予言が当たっていない限り無効化される)、何時読まれても納得し得る内容へと価値的に転化される。
 何故そうするかというと、それは永遠の相<層と言ってもいい>へと移送されることを旨としているということだ。それは潜在的な人類の願望である。つまりもっと簡単に言えば「残したい」ということに他ならない。それを私は後者で書き手が書いている時点で、この記述は後々まで残ればいいと思念している段に於いて、宗教的、リアルタイムでの祈りである様に思われる。
 これは神の実在的価値云々の問題では勿論ない。
 つまり我々は生きている限り他者の死と遭遇するが、その他者の死の遭遇とは、いつか自分もまた鬼籍に入るということを了解することでもある。すると我々はその了解の中で何かを「残したい」という感情でリアルタイムで書き綴るという行為を選択している。
 リチャード・ドーキンスは自分の文章を比較的ロングスパンで読まれ得ることを心がけて書いているとどこかで書き綴っているが、まさにその意図こそが「残したい」という欲求であり願望であり、書くことのリアルタイム的なだけではないもっと普遍的なモティヴェーションである。
 つまり書く時の直接的モティヴェーションは、それを書かれたものとして残すという意味から、もっと根源的、間接的モティヴェーションによって、リアルタイムの感情を無化することすら、書き手に欲させる。
 つまり書くという行為は思考や思念に於ける私的言語の不可能性を試行錯誤的に「哲学探究」で訴えたウィトゲンシュタインの言う様に、まさに個人的なことを書こうとする段で、既に公共的意味の文脈に自らの文章が把握され得るという了解と願望によって支えられている、と言うことが出来る。
 
 そこには晒すことでのナルシシズムも介在している。しかしそのナルシシズムは書いている自分の姿とか、その時の内心の感情がどうであるかということに於いてヌードダンサーよりは間接的なことであり、映画でヌードシーンを演じる女優は、書くことと、ヌードダンサーとの間の中間であることは誰しも理解されよう。
 つまり間接的ナルシシズムとは端的に意味を読まれること、普遍的意図として解釈されることに愉悦を感じているのであり、それは羞恥心を克服してステージ上で性行為を演じ、カメラの前で性行為を実際に執り行うアクター、アクトレス達にとっての「敢えて羞恥心を催す行為を衆目の面前で行う」ことに於けるナルシシズム(性的能力の誇示と、スタイルとか肉体の美の誇示)に視られるその場性とも関係はなくなはないが、やはり思考力とか意味把握能力とか、或いは筆力という技能へのものである。要するにもっともっと間接的であるということだ(ヌードダンサーの場合には振り付けや身体のくねらせ方のテクニックに対する意図的な戦略、技に近い)。
 個人的感慨を無視されて誰にでも理解される様に自己の記述した文章が伝達されることを望むという心理とは、歴史に意図的に参入する、歴史的文脈構成という人類の英知に加担するという意味合いも当然あるのだ。
 それはビールマンや森末の技が結果的に後世に残った様な意味での普遍化ではあるが、彼等より、より残す意図が最初から前提されているし、読み手もそういうものとして書かれたものを読むという社会ゲームが古代より前提されていた、ということをも意味するのである。

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