Thursday, November 25, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十四章 人の悪口、陰口と世論調査

 私の嫌いで信用出来ない人とは「私人の悪口を言う人って嫌い」と言う人である。
 何故か?それは二つ意味においてそうである。
 まず人の悪口というのは全く言わないでいると、特に生き馬の目を抜く様な集団内の会合、組織内会議などの連続する日々に於いて、極めて息苦しくなるし、ストレスも充満する。とりわけ自分の集団内での立場が芳しくない時、或いは自分と意見的に合う人や同調者が少ない場合などはそうである。日頃のストレスだけが溜まる重要な場で息をつかずに何かを討議したり、プロジェクトを進行させたりしていく時には、時間外にストレス解消を巧く日常的に配分していく必要は絶対にある。それなしにいると、次第にフラストレーションが溜まり精神衛生的によくないからだ。意気投合して同じ他者の悪口を言い合えるということは、端的にかなりいいことである。
 しかし重要なことは、ある人の悪口をある相手を捉まえて言って、その者が憤ったり反意を示したりしない様な相手を直観的に選ぶ必要がある。これは結構難しい。何故なら相手に誰かの悪口を言って、それに同調して貰えるということは、色々な意味で、つまり思想的傾向から性格から何から何まで阿吽の呼吸で理解し合える部分がなければ駄目なのであり、そういった相手を選び取ることはかなり直観的である必要がある以前に、そうでなければ出会えないものであるからだ。それはある程度運命的出会いでもあり、生涯巡り合えぬ者もいるだろう。それはそれでよい。
 さて私が人の悪口を言うことを嫌うと言う人を嫌いで信用出来ない二つ目の理由は、端的にその意見自体が論理的に矛盾しているからである。当然であろう。何故なら人の悪口を言うことを嫌うという言葉自体が、そういうタイプの人に対する悪口以外ではないからである。
 要するに差別する人が嫌い、とか、人に厭な態度を取る人が嫌い、とかそういった全ての言説は差別する人への差別であり、厭な態度を取る人へ取る厭な態度以外ではなく、その事実に気付いていない段で、積極的にその者によって批判されている差別者や厭な態度を取る人以上に寧ろ始末に終えない。
 さて人間関係とはある意味で、我々はそういった一緒に誰かの、勿論厭な人への悪口を言い合う相手を探す為に必死に集団内で動き、仲間を作っていっているということなのであり、それを外れる如何なる人間関係も、社会も、共同体もない、と言っても過言ではない。
 只それが集団の人数が多くなり、規約、規則、公約が大きくなればなるほど、巧妙にその人間の対他者観に於ける精神実利的な本音性を隠蔽していくのである。まさにそれが地方公共団体とか国家とか民族とか社会とかなのである。
 従って本音を一切言わないままで、実はそう言わずにいる(本音は言うものではないと直接誰かに言うということもそうだし、本当に心の中の本音そのものを安易に人には告げないでいるということ)人同士で皆のそれぞれてんでばらばらな本音を「一応体裁上では」守りましょう、つまり最低限皆の共通するところではどの様な他者にもプライヴェートな空間は守りましょうということが、公的規準なのであり、それを皆暗黙の内に理解している(現実には)。
 さて問題なのは、しかしこの社会も、この国家も、この民族も実は極めて個人と同じ様に常に誤りを犯すということだ。しかし個に於ける粗相に対しては誰しもとやかく言い、それを悪いことであると思わないのに、それがかなり多くの人数となり、ある纏まりになっていくと(つまり集団化、組織化されると)次第に容易に本音を敵対者同士でも言えなくなってくる。それはある個人を名指しして気の合う友人同士で悪口を言い合うことと違ってきてしまうのだ。
 だから例えばマスコミはかなり頻繁に世論調査をしては、テレビ、新聞などでニュースとして、記事として視聴者や購買者に流すのだ。しかし重要なことは、ある時節に於いて、ある責任者自身による恣意的判断によってその世論調査自体が実施され、その結果を情報として流すということ自体に纏わる意図とか方針は一切見えてこないし、又公表されない。実はここに極めて大きな問題がある。
 ここ数年何人もころころと短期間で総理大臣と政権が交代してきたことの理由の一つにも、実はこの極めて恣意的判断による世論調査の、しかも極めて頻繁に執行されてきたという事実に最大の理由があるとも言えるのだ。
 ある部分菅総理乃至菅政権自体が例の尖閣諸島中国漁船衝突事件に関して映像を国民に公表しなかったという事実も、極めて今述べた世論調査によって国民が政権批判をするのではないかということへの恐怖がそうさせた、とも言い得るのだ。つまり政府、国会、否政治全ての局面で全ての関係者がこの世論という化け物(それは一切実体がないし、誰もその信憑性からその本質的正しさ、見解の意味の精度、世論の傾向自体の本質的一致があるのか、ということを確認も証明もし得ない)に右往左往し、まさに翻弄されている、と言っても過言ではない。
 それは国会答弁にも反映されている。APECでの総理の中国主席との対談での紙きれのメモを見て話していたことへの批判、ヨンピョン島での北朝鮮軍からの砲撃時での政府の対応に対する決然としなさ(北に対する非難を明確化していなかったなどの)、又小沢元幹事長への党内対応に対する批判(山本一太、世耕 弘成による参議院予算委員会内での質疑から)となって立ち現れている。まさにそれらは一切人の悪口を言ってはいけないという不文律だけを踏襲する為に人が誰とも本音を言い合わない状況を示唆さえする、国会内で見られる政治家による国民へのパフォーマンスだけなのだ。まさにそれを国会中継を視聴している国民が「そういう見栄を与党に対し野党は切ることを期待している」ということを前提とした「やらせ」、言ってみれば見え透いた猿芝居なのである。
 それはニュース報道にも言える。まずトップニュース自体が国民が「そういうものに一番今関心があるだろう」という想定が前提されているし、司法も裁判員の心のケアの為に死刑判決の出た被告に上告を勧めるという事態にまで発展している。端的に司法はつい先日出た裁判員参加裁判による初の未成年への死刑判決によって今後幾多の類似案件が似た判決になっていく可能性、つまり世論自体に司法も逆らえないという社会での不文律(事実上三権分立も、司法のケース毎に独立した判断自体も全て建前であり、世の中全体の世論<の様な雰囲気としてそれに従わざるを得ないものとして裁定者に迫る実体の実はない>に従属していずには存在し得ない)に沿って履行されている。
 つまり誰も社会自体の運営に、実はかなりのレヴェルで深くこの実体なき世論が強迫観念として全ての人達(マスコミ自身さえそうであるし、政治家、経営者、司法関係者等全て)に浸透している。そしてそれを問うことは一切しない。本当はまさにその実体なきものへの従属こそ問わねばならないと言える。劇映画の流行やゲームソフトの流行自体がその時代の世相を反映するのは、ある意味では世論迎合であり、ある意味では世論という実体なきものへの批判であり、その都度監督や製作者、クリエイター達の時代への読みと表現意図によって決定されているが、その決定が只商業資本として収益が回収され得るということだけが目的化してしまっている様な状態が社会全体に蔓延しているということだ。
 この際私は世論調査とはもう少し緩やかに、せめて三ヶ月に一度くらいにしておくべきであると全てのアンケートその他の調査機関並びにマスコミ全各社に提案したい。そうしないと、次々と不測の事態へと直面する政府や行政全体へ、常に不確実な世論迎合的な与野党の政争だけの顕現を招聘し、一切の実りある国民全体への利益として還元され得る国会も、政治的決定(政府その他による)もなされ得ないと思う。
 何故これだけ頻繁に世論調査をしなければいけないか?それは人の悪口を公的には確かにそうであるが、言ってはいけないことであるという不文律に余りにも心の奥底まで我々が強迫観念的に従属しきっているが故に、それを踏み外すことを恐怖して、その代理機能として世論自体が肥大化してしまっているからである。その肥大化した実体なき世論は一人歩きして、全ての権力者、権威執行者まで一切の悪口を言わない様に口を閉ざさせているのである。それは悪口を言う事を極度に忌避する雰囲気から作られ、それが陰湿な陰口へと変質し、次第にそれがスケープゴートを探し、その者が見つかると一斉に攻撃することに全ての外野席観客は右へ倣えするのだ(まさにその都度法相であったり、官房長官だったり、国土交通相だったり、文部科学大臣だったり、防衛大臣だったり、要するにその都度誰でもいいのだ、そういういじめ対象さえ見出せれば)。
 私は何も本音を全て言え、と言っているわけではない。一定の本音を全ての人に言い合える様な雰囲気を政治家、マスコミ各社経営者は雰囲気として作る努力をせよ、と言っているのだ。
 全くそつなく粗相をすることをしないだけの形式踏襲主義者だけが大手を振るえるが故に、言いたいことを噤むことが常習化していくのだ。例えば確かに前柳田法務大臣の地元広島でのスピーチでの内容の一部は不適切且つ思慮を欠いてはいた。しかしそれを必要以上に問責決議への持ち込む野党と、その野党の要請に容易につき従ってしまう与党内での予定調和的集団内見せしめ的態度の同調からは、実際形骸的秩序だけを維持していく姑息な政治家の保身本能だけが透けて見える。
 今こそ人の悪口を所詮相互に言い合える仲間を求めて我々は集団内を彷徨い歩き、色々な場所へと移動し、社会行動という形で動いているのだ、という物事の本質に、社会全体も所詮抗い難いのだという真理を見据え、下手に体裁だけを取り繕うことを控え目にするという心がけを持っていくべきではないだろうか?そうすれば政権担当者も姑息に国民へ情報を隠蔽するという様な見え透いた策を弄することなく虚心坦懐に政権運営を図っていくことだろう。
 下手な猿芝居にだけ執心しているが故に、子供達は一切大人を信頼も、尊敬もしなくなり、子供の社会の内部でじくじくと陰湿ないじめが進行していくのだとも言える。
 次回はその子供のいじめに就いて考えてみたい。

1 comment:

  1. 「人の悪口を言うことを嫌うという言葉自体が、そういうタイプの人に対する悪口以外ではないからである。」…確かに(笑)

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