Sunday, December 5, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十五章 桐生市小六女子自殺事件その他の社会的背景と情報送受信クラスター=閉鎖集団の問題

 教育現場では既に生徒達子供の心理を現場の教師自身が把握し損ねている。それが桐生市小六女子自殺事件や新潟県神林村や福岡県筑前町中学生自殺事件などに顕著であるが、地方部に於いて自殺を多発させている。これは既に情報化社会が極めて狭い範囲で営まれていて、その遣り取りの時間的な過密さから心理的に生徒達の心を蝕んでいる。
 世界中で既に国家権威や指導者層の権威が失墜しているのは、只単に彼等の無策によるだけでなく、もっと本質的な情報ネットワークによる意図的な情報漏洩、流出映像等によって組織、集団へ各個人が謀反することを可能としているネット情報発信行為の無限の可能性への惑溺による。
 事実上情報には国境はなく、それは国家権威レヴェルで情報統制を不可能化しているのと、情報行為の送受信自体が機密情報を維持していくことを不可能としている。
 従って我々内部では情報が機密化され保護されることよりは、誰かによって漏洩されることの方を期待する心理を構成してしまっている。 
 WikiLeaksの世界的規模での展開がそれを象徴している。従って件の航海士による流出映像は彼によらなくても、誰か別の個によって行われていたと誰しも想定し得る。
 しかしその情報を享受する個に於いては、リア充的な対人関係で情報を摂取しているのでも、送信しているのでもない。勿論部分的にはリア充的対人関係構築も可能だ。しかしそれはあくまでネットインフラを通したヒューマンリレーションに於いては部分的なものへと後退している。
 故に必然的に情報行為はワイドに摂取するが、それをリア充的に伝え合うということに於いては極めて限定的なサークルへと帰属させてしまっている。その極めて閉鎖的なクラスターが世界中で一見世界を情報ネットで繋げている様でいて、その実小さなクラスターに身を寄せ合っているという現実を作り上げている。それが子供の社会にも雛形として反映している。
 子供社会とは大人社会の情報送受信閉鎖性の雛形以外ではない。
 つまり閉じてしまっているサークルというヒューマンネットクラスターから既に多くの市民が逃れられない様な意味では、それを横目で見られるのは自分自身ではさして多くのフォロウをツイッターで維持せず、しかし極めて多数のフォロワーを外部からは獲得し得る著名人に限定されていってしまう。彼等は全ての情報をリア充ではなしに、横目で見ているが、それをフォロウしているツイーター一般はあくまで違う。極めて限定的な双方向的送受信サークルというスモールクラスターメンバーでしかない。
 実はその小さなクラスターに身を寄せ合う図式をWkiLeaksなどの経営者達は知っている。つまりそういう閉鎖的な送受信という方式が世界中に浸透していることを前提に、そこから情報漏洩を吸い取ることを目論みているのである。閉鎖サークル(ツイッターの常連からミクシーにまで至っている)では基本的に内部のルールに従わざるを得ないが、その閉鎖的な小社会成員的気分とは時として、そこから逃れたいという欲望を産出する。
 それが時として匿名の情報漏洩的誘惑へとネットユーザーを誘う。情報クラスターは万民に等質の情報を受け渡すが、それは事実上一方通行であり、こちらからは特殊情報しか発信して外部全体に価値ある情報として認知され得ないという暗黙のピアプレッシャーが、時として組織、集団謀反的漏洩行為へと誘引する。
 子供社会での自殺は実はこういった閉鎖サークル、例えば小学校六年生の同級生の間だけで過密に送受信の遣り取りを行わざるを得ないという閉鎖送受信クラスター内で身を寄せ合うという日常的習慣化した情報行為によって、そこからの逃れられなさが加速化させている。
 等質情報が飛び交うということと、その情報の存在理由の特殊性という規準に於ける差異、つまり凡庸な情報と、価値ある情報との差異は歴然としており、内実的には自己内に閉鎖空間的にウェブ上で知覚的に対峙している個と、その個をちっぽけで無価値なものへと後退させる特殊情報(例えば尖閣列島中国漁船海上保安庁船への衝突映像とかの)の世界中の市民、ユーザーへの等質的受け渡しという二律背反が次第にユーザーを虚無的気分へと持っていく。
 どんな情報も摂取し得るが、こちらから発信する情報の価値は微々たるものであるという認識を持たずにウェブサイトを利用する者は、基本的に現代社会ではゼロである。この事実こそWikiLeaks等の経営者達の行為を再考する必要へと我々を導く。
 つまり万民に平等に受け渡されるリア充の無化こそが我々の社会を寧ろ自己閉鎖的気分へと持っていく。情報に支配されている気分を例えば全ての2ちゃんねるユーザー、ツイーター達に齎すのだ。ニコニコ動画やYouTubeといったメディアが増殖していけばいくほど、リア充的実感から遠ざかって行く。その情報支配からの虚無的逃れられなさこそが小児自殺やいじめの類発を招聘している。
 いじめは情報送受信クラスターの閉鎖的結社性に依存している。外部の人間、例えば小学校六年A組の生徒の間での送受信は基本的にB組の成員には無関係である。それは大人社会ではイントラネット的な送受信クラスターによっても実現化している。
 しかし事実上B組にも我がA組と等質の情報は受け渡されている。そこには違いがない。しかし自分はA組であるなら、B組の成員へと悩みを仮に告白しても、閉じたA組内での遣り取り自体から解放されるわけではない。それが全て携帯などを使った閉鎖送受信クラスターによって支配されていると、次第に子供社会内ではその逃れられなさを自己内で深刻化していってしまう。
 悩みを外部に打ち明ければ打ち明けるほど四面楚歌状態を招来するのである。
 43歳の航海士による流出映像事件は従って彼本人による孤独な決断であったればこそ実現したが、そのことにより彼は最早組織の成員たることを今後許されまい。つまり外部へと情報を流出する組織、集団謀反行為はその行為によって等質化された情報が外部全体に広まれば広まるほど閉鎖サークルの情報送受信クラスター内部では決定的に非成員としての烙印を押される。
 それは情報自体が一種のサリン的ロールを担ってしまっているということ以外ではない。この情報価値のサリン化の前では我々は既に一個人の情報が齎す結果を常に想定せずにネットを利用することは出来ない。それは閉鎖サークル内であってさえ同様である。そこがリア充的対人関係のクラブロー的性質との最大の違いである。
 子供は大人と違って外部に存在する別のクラスターに自らの意志で参入する機会を作ることが出来ない。その出来なさが自己帰属クラスター内での閉鎖性を人生に於ける全体化してしまう。いじめの本質とは実はこの情報送受信クラスター=閉鎖サークルの成員としての誇り、対外部的差別化の意識が作り出す。
 それは自分自身が公務員であるとか、官僚であるとか、公認会計士であるとか、弁護士であるとかそういう職業意識と等質のものである。人間に帰属意識がないのであれば、一切のいじめも発生しない。いじめとは端的にいじめられぬ様に対自的に配慮し合う成員間で、その自己防御の仕方を心得ぬ者にのみ到来する「仲間外れ」という気分享受以外ではない。
 繰り返すが大人は仮に一つの情報送受信クラスター閉鎖サークルでいじめに遭っても、それ以外のサークルを掛け持ちすることが可能である。子供にはそれが出来ないということを現場の教師全員が疎いということは出来る。つまり子供は既に認知レヴェルでも思考レヴェルでも大人と等質の情報送受信者であり、クラスター内での閉鎖的ヒエラルキーのネットから自由ではいられないということをもっと切実な問題として現場教師並びに学校経営者達は心得ておくべきなのである。

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