Monday, December 6, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十六章 いじめの精神分析

 「いじめとは端的にいじめられぬ様に対自的に配慮し合う成員間で、その自己防御の仕方を心得ぬ者にのみ到来する「仲間外れ」という気分享受以外ではない」と前章で述べた。それはあくまでいじめられる側がいじめられていると認識していることに就いての記述である。
 いじめとは端的にいじめられている者が、必要以上に「虐められているという被害者意識」を告白(或いは表明)することに於いて、それを表明された者が「虐めている加害者、或いは虐めを黙認している無責任者」としての烙印を押されることへの反発心から「そういう風に思うお前が意識過剰だ」という主張となって、その表明を快く受け入れず、封印しようとする、或いは無視しようとすることに起因する。これが最初のいじめの発生現場である。
 要するに「巧く立ち回れないお前が悪い」という<いじめられている被害者の肩を持つこと>を忌避しようとする普通者の態度がいじめられている側を意気消沈させることから いじめ は顕在化するのである。
 従って虐める側からすれば、虐められていると意識過剰となっている者を排斥したい、擁するに「うざったい」「うざい」気分になっているということ以外ではない。
 皆自分自身が虐められたくはないし、要するに仲間外れになっていく気分だけは味わいたくはないという気持ちから、次第に自ら虐められている(仲間外れにされている)という表明をする者を自分の近くに寄せ付けておきたくはない、遠ざけておきたいという気持ちから、その者に多少邪険な態度を取る。するとそのことを、そうされた者が意識過剰に「俺を置いていかないでくれ」と縋る反応し、そうされた者が益々その者を遠ざけて無関係なことと自己をしておきたいが故に相手に邪険な態度を取るという悪循環こそが いじめ の本質的構造である。
 だから意外といじめとは単純な心理なのである。つまり虐める側にしてみれば、自分自身を他者一般、周囲の人達から虐められる様な立場や状況に陥れたくはないが故に、少しでもそのことに対し とろい奴 を余り自分と親しい間柄だと周囲からは思われたくはないという単純な自己防衛心に根差す。そして虐められる側としてみれば、何故それまでは結構話に乗ってくれていたのに、ある段階から次第に邪険になっていくその様変わり自体の意味を疎いものであるから気がつかなくて、益々両者の距離が心理的には遠ざかっていくことなのだ。
 従って虐める側は虐めているという意識は極めて希薄であるにも関わらず、虐められる側は極めて深刻なのである。
 だからいじめられることを避ける唯一の方法とは、虐められているという気持ちにならなければいいのである。つまりいじめられることを避けたいが為にいじめられているという告白を聞きたくないという普通の人の心理を汲めば、いじめられているという告白など誰にもしなければいいのだ。又仮に相手を買い被ってそういう告白をも聴いてくれるだろうと踏んでそうしたとしても、その者が自分を避けていくようになったとしたら、それは向こうもいじめられている側であると周囲から認識されたくはない、つまり大勢を敵にしたくはないという保身を取る弱虫なのだ、と理解して余り必要以上にその者の行方を追わぬ様にする、ということ以外にはない。
 従っていじめとはいじめられる側が過剰にいじめる側に聖人君子的に期待し過ぎることから、逆にそれが裏切られた時の幻滅によって、相手を冷たい奴だと思う心理に由来する。世の中に神様の様な人など一人もいない。しかし苦悩している時その話を聴いてくれる人とは神様の様に思える。しかしそういった告白を余り重ねて相手にしていくと、相手も次第にうんざりし始める。自分だって悩みがあるのである。それを代わりに聴いてくれるということを常に自分へ悩みを告白する者に期待することはなかなか難しい。それが出来ないからこそ相手はいつも自分に悩みを告白してくるのだ。相手は自分を強い奴だと買い被っている。これがいじめられていることに於ける苦悩を告白される者の立場から見た心理である。
 要するに過剰に存在理由の大きさを勝手に他者から期待されることの鬱陶しさ、しんどさが、端的にその期待してくる者に対して邪険な態度を取らせるということは極めて自然なことである。
 つまり いじめ とはいじめられる側に最初の責任の発端がある場合がかなり多いのである。しかもそのことはなかなかそのいじめられていると意識過剰となっている者へは直接は言い難い。これが益々自分で自分の意識過剰、つまり他者依頼的に他者存在理由を自己にとって期待し過ぎること、そしてその期待に添えない旨を暗に示す相手の態度を邪険と受け取ることから、益々両者の間に溝が開き、その溝の深さが修復不能となった状態を、我々はいじめと呼ぶのである。
 端的に誰しも他者から過剰に期待されたくはないと同時に、他者から遠ざけられたくはない。であるが故に他者とは常に相手が誰であろうとも適度の距離を保とうとするし、又格別に誰かの味方にもなりたくはないし、格別に誰かの敵にもなりたくはないという心理が普通なのである。
 その普通さを必要以上に聖人的に解釈して期待し偶像視することから、次第にその期待する者を鬱陶しく疎ましく思う様になるというその態度への過剰反応こそが、いじめられている者の心理に発生することなのである。
 だから本来ならいじめられている者にその旨を巧く伝える者があれば一番いい。しかしこういうロールとは実に気が重いものであり、適当に全てを受け流して自分自身を自分で守ることの出来る成員達全員はそういうロールを自ら買って出るということは余りないのである。
 だからこそ時々悲劇的な結末を迎える。
 勿論いじめる側が正しいと私は言っているのではない。虐める側も度が過ぎれば立派な罪である。しかし恐らく一人一人の加害者は、自分自身が被害者にはなりたくはないという気持ちだけ一杯であり、そんなに意図的にいじめてやろうという気さえない。勿論中にはそういう悪辣な者もいよう。しかしそういった悪辣者に対しては必ず批判勢力も発生してくる筈だ。しかし当のいじめられてきた者にとっては(とりわけ子供は)そんな冷静に全ての事実を俯瞰することは出来ない。従って子供社会の場合は教師の立場である大人の監督責任であり、現場の指導責任である。
 つまり大人なら、相手が自分から次第に遠ざかっていくことの遠因に、自分が相手を過剰に期待し過ぎて、頼り過ぎて必要以上の告白などをしてしまったから、或いは相手は自分の方の悩みも自分から相手へ告白しなければいけなくなるのではないか、という億劫さと臆病さを持ち出すのだ、つまり相手は真摯に自分に接し過ぎることを嫌がっているのだ、もっとビジネスライクに接して欲しかったのだ、と相手の立場に立って理解することが出来るし、そういった心の余裕を人生経験上持てる。しかし子供にその心の余裕はない。子供は深刻化されてしまった問題に対し、それを別の形でストレス解消するだけの手段も力もないのである。
 従って周囲の大人があざとくそれを気がついてあげなければいけないのだ。
 又極めて重要な真理として次の点は指摘しておいた方がいいだろう。
 悩みとは人に告白して聞いて貰うことによって実は深刻化するのだ。つまり内的な苦悩とはパロール上でも何らかの形で言説化することによって明示されてしまうが故に決定的なものとなってしまう。これはほんのちょっとした思い込みさえ一旦口に出して人に伝えると「本当のこと」になってしまうこともある(デマなどはその最たるものである)ことからも理解されよう。
 従ってかなり深刻で自己の力によって修復可能ではないこと以外なら、余り安易に他者に悩みとは打ち明けるべきではない、と心得ておく必要は、特にビジネス的な意味で生き馬の目を抜く現代社会人にはある、と言うべきであろう。
 勿論子供に同じことを要求することは出来ない。しかし恐らく子供は普段から余り弱過ぎる大人を周囲に、或いは家庭で見ていると、自分自身も強くもなれないし、その必要も感じないし、大人を尊敬して悩みを打ち明けるということもしなくなる。つまり子供の側から大人に見切りをつけてしまうのである。従って自殺することだけが唯一の解決法となってしまうという悲劇も招聘されるのだ。
 大人が容易に配偶者の前で悩みを打ち明け過ぎるのなら、気をつけるべきである。子供のいない場でそうすべきである。子供は大人の態度の逐一を観察している。大人が大人らしく振舞えば、或いは少なくも子供にそう思わせていられれば、必然的に自分で修復不可能な悩みを大人に相談する様にもなろう。まず大人が強くなり、相手に対して過剰期待しない思い遣りを持てずに、誰が子供の苦悩を除去してあげることが出来よう。

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