Saturday, December 11, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十七章 世界の中に巣食う短絡した思考と未来予想

 中国人反体制作家、劉暁波氏のノーベル平和賞授賞式が本人不在、そして賞金受け渡しなしという異例の事態によって執り行われた。本質的なことは、中国という巨大なナショナリズムとその中での個という意識の間に大きなずれを顕在化させるのに充分なテクノロジーと情報化社会が既に世界中に到来しているということである。従って北朝鮮も今のままの体制で何時までも続くということはかなり難しいのでは、と容易に未来予想を立てることが出来る。
 未来予想はある意味では形而上的に歴史を解釈していく必要がある場合もある(いつもではない)。とりわけかなり不測の事態が延々と反復させていく様な現代社会では計算的数値にばかり頼っていたらリーマンショックの様な痛烈な竹箆返しを食らうということが大いにあり得る。
 しかし重要なことは世相とか時代の空気が資本主義社会の経済的動向を決定し、各個人の行動を規定しているということはほんの一部であるとだけは言いたい。
 例えばアートは実質的にはビジネス的には画商や美術商(アートディーラー)や批評家(クリティック)、そして学芸員(キュレイター)によって運営されているかに見える。しかしそれは大いなる資本主義社会の幻影であり、実質的には個以外の芸術創造行為以外によって培われてきた試しはない。それは出版ビジネスにしても同じである。出版社という極めて実体のない媒介がさも出版界を動かしている様に見えるのは、あくまで表層的な現象に過ぎず、文学であれ批評であれ専門学問や技術であれ、全てそれぞれの分野に取り組む個の営々たる努力と地道な行為によってのみ営まれてきたのだ。
 政治に目を転じてみると、鹿児島県阿久根市での竹原信一市長リコール成立失職に就いて言えることとは、阿久根市の駅にかつて停車していたJRの特急が新幹線開通により、廃止され、しかも阿久根市には新幹線が停まらないという、あくまで交通機関の経営上での経済効率主義だけが、延々と繰り返されてきた市議会と、市議会への市長による出席拒否、専決処分などの抵抗主義的サボタージュとの不毛な対立の持続を招聘しているとさえ言える。
 否違うのだ、ああいう対立自体が名古屋市議会と河村市長との対立と同じ様に日本政治を地方から変革していく道筋になっていくのだ、という肯定的な見解もあり得よう。つまりその為に阿久根市に特急が停車しなくなったこと自体は逆に禍転じて福となす的事態であったのだ、という考えである。
 しかしそれにしても、それでは余りにもマスメディア自体の報道活性化だけを狙った世界の構図、つまりマスメディアが他人のあれこれ、自分自身の生活実体とは殆ど何の関係もない多くの余分な情報を摂取させることだけでアドレナリンやテストステロンを我々に放出させていく様な、要するに生理的システムとしてマスメディアによって我々の知的好奇心を作り上げているのだ、という妙な現代社会の機能維持論が提出されかねない。
 その一つの顕著な例こそ市川海老蔵が被害を受けたとされる事件の連日の報道である。梨園という特殊社会が抱える苦悩と矛盾は例の大相撲の野球賭博問題とも共通した日本国民の情感を誘うものがあるというマスコミの目論見が露呈している。
 つまりマスコミであれネットインフラであれ情報化社会の情報送受信システムの前で我々はいつしか短絡した未来予想という思考に絡め取られてしまっているとも言えるのだ。
 それはまさに大学機構全体が学問を運営してきたという幻想を大学関係者に植え付けてきたことと同じである。或いは学会自体が学者の思想を構築してきたのだ、という考えである。それは断じて違う。大学は教育機関であり、後進の育成という機能はあるが、学問自体はあくまで大学にも所属する学者や研究者という個人である。又学会はそれらの専門家が利用すべき組織にしか過ぎない。それは極めて便利であるが、それ以上ではない。またそうであるべきである。
 しかし実体は違う。対人関係的、組織主義的ヒエラルキーは厳然と聳えている。それはまさに新幹線事業の経営成功の為に阿久根市市民の利便性を四捨五入していった経済効率主義とも全く構造は同じである。個の為の利便性がまさに個を締め付け、寧ろ利便性自体が個を呪縛する様になってしまっている。だからこそ中国国家は共産党一党支配によるヒエラルキーによってあれだけの経済発展を遂げているのにも関わらず国際秩序から、市民の自由と権利までも搾取してしまっているのだ。それは国家という利便性自体がそれを享受する個々の主体を無視し、利便性自体の維持がその享受者全体を呑み込み優先してしまっているのである。
 ある意味ではジュリアン・アサンジ氏別件逮捕問題も極めて重要な問いを孕んでいるが、情報という利便性自体が我々を個による主体的決意以前的に優先してしまっているということ自体に、アサンジ氏も、彼を付け狙う大勢の国家指導者も同様ではないだろうか?
 解剖学者で思想家である養老孟司による言葉を借りれば「ああすればこうなる」式の単純な未来論理予想が色々な事物の間にある現象や微細な機能を無視して無効化させてしまっているという実態が、中国にも阿久根市にもネットインフラにもマスコミにも浸透しきってしまっていると言える(まさにNHKでさえ市川海老蔵関連のニュースをトップニュースに持っていったこと自体にそれが兆候している。あの酒井法子報道の時と全く同じである<今は全く彼女の事など世間もマスコミもどうでもいい態度である>)。ほとぼりが冷めたらこの梨園スターのニュースも次第に影を掠めていくに違いない。その時には又別のニュースが踊るだけである。
 勿論劉氏ノーベル賞受賞やアサンジ氏逮捕ニュースは、その類ではない。或いは阿久根市や名古屋市の市長と議会との対立もその類ではない。一つのニュース報道の中にはその種の世界的規模、国内規模の重要性と、話題性として一時息抜きをする為のゴシップとが入り混じっている。それはそれでよい。問題はそれらの現象全体を短絡的未来予想の下で報じられたことを一々真に受けたり、気分をその都度換えていったりする我々個の生活のリズムが、我々自身の思考力をもっと長期的スパンで物事を推し量ったり、もっと大局的視点から想定して思惟することを妨げてしまう巨大な誘引材料となっているということである。
 否年に何度も有名な祭のある京都、奈良、鎌倉、川越、成田といった古都や城下町の観光と同じ様な祭気分だと思えばよいという意見もあるかも知れない。<地方毎の文化芸能、伝統行事は違うものとも思えるが?なら梨園スターだって伝統芸能だから重要なニュースじゃん、とも言えてしまうのだが>勿論ニュースで毎日学術的な内容、文芸的な内容だけを流せ、などと言っているわけではない。
 しかし大局的視点を全ての個だけでなく政府や国家全体の動向に於いても持たせなくなっている様な状況自体はやはり経済効率主義一辺倒と同じ様に批判されて然るべきではないだろうか?
 一番重要なことは我々自身が未来を作っていくということである。従って「~になれば~になる」式の短絡的未来予想を余り頻繁に日常的に慣れきってしまうことは危機以外ではない。従って我々はやはりかなり意図的に思考自体の利便性に我々自身が絡め取られてしまわぬ様に常に神経を研ぎ澄ましていく必要は現代社会にはある、と言えないだろうか?
 その意味では劉暁波氏ノーベル平和賞受賞関連のことや、ジュリアン・アサンジ氏逮捕関連のことは余り単純に考えるべきではない。勿論梨園スターのスキャンダルもあっていいし、スタータレントの文学賞受賞と、賞金辞退と寄付のニュースがあってもいい。しかし思考の利便性自体が主張し始めて我々自身によって主体的に未来を創出していくという気概を機械的にマスメディアの動向が乗っ取ってしまう事態だけは忌避しなければならない。
 まさに短絡的思考に慣れきって「考えない習慣」をつけることは案外快楽的なことなので、我々による未来創出という想念の前では危機なのである。
 未来は予想すべきものではない。創出するべきものなのである。

 付記 今回の問題提起は大衆とインテリ、エリートという区分けと棲み分けと社会的共存の問題へと移行させていく価値がある様に思われる。(河口ミカル)

No comments:

Post a Comment