Saturday, December 25, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十二章 人生も世界もア・プリオリに規定されているのか、それとも?

 当たり前のことだが、我々は生まれてくる前に何か人生とはこういうものだということを知らされて生まれてくるわけではない。予め筋書きが与えられた役者の様な人生は一つもない。何も知らされずある日突然生まれてきて、ある日突然他者とも出会い、ある日突然異性に惹かれ、ある日突然就職し、大人社会の現実に晒され、ある日突然何の前触れもなく(つまり何も知らされず)死ぬ。
 であるならある意味では全てが皆目分からないというブラックボックスに包まれた未来に対して、暗闇の中を彷徨っている様なものである。しかしやがて向こう側に光が見えてきたりする時は確かにある。従って予め世界とはこういうものだ、という全貌が規定されていて、只我々は絨毯の上に偶然迷い込んだ蟻の如く室内をうろうろと歩き回っていて(尤も蟻はいつまで経っても室内全体の在り方を知ることはないのだけれど)、いつかは世界の全貌が仄見えてくるという経験を持つことだけを期待して生きている様なものかも知れない。
 最近ある学会のシンポジウムに出席した。私が属する哲学の学会の会員の一人(論理学者)が企画に携わった論理学者から言語学者を誘った共同シンポジウムであった。
 私は一応基礎的には哲学も学んだが、そもそも純粋に哲学を系譜学的に哲学史的に学んできたわけではなく、かなり後からそれを追っかけて曲がりなりにもプロ級の人と専門的な対話が出来るくらいに習得してきたに過ぎない。寧ろ最初私はポストモダンが持て囃されていた時節柄、ソシュールその他の言語学、記号学に対する関心からたまたま隣接する言語哲学へも踏み込み、やがて分析哲学全般へも触り程度であるが垣間見ることとなったに過ぎない。それ以前は哲学と言えば実存主義とかメルロ・ポンティなどの現象学との出会いが大半であった。
 当のシンポジウムでは、賞味二十五分から三十分くらいの間で講演を纏める発表者の内容をその時初めて一切のレジュメを見ることなしに聞かされるわけであるが、曲がりなりにも何を研究しようとしているのかをその場だけで理解出来る内容とはある程度限定されてくる。全ての発表内容を隅から隅まで理解出来る参加者など恐らく一人もいない。その時私は当然言語学者の話の方が粗方何をしようとしているかということを理解出来た。一方私が所属する学会の会員の専門の論理学は極めて専門色が強く、既に現代論理学が細分化されているので、コンピューター言語などとのリンケージに於いて考えられてきているので、当然その発表時間内だけで全ての流れを把握することは正直困難だった。しかしかなり興味を惹かれる方向へと学問全体が動いているということだけは感じられたので、帰宅してから早速幾つかの聴きなれなかったテクニカルタームをウィキペディア検索などをして考えてみようとはしてみた。
 その時分かった事は現代論理学は私の様な素人から見れば、一つの重層性と、階層性によって各専門領域が区分されているということである。例えば一つの構文に対して、その構文自体はア・プリオリに我々の眼前に提示されているのだが、構文の構造解析をする時に彼等は恐らく属性毎に異なったアプローチの仕方を取っているのだろうと思う。つまり私自身が発表後幾つかの質問を専門家に対してした返答から察するに、構文を構造解析する時にシンタックス(統語)とか意味とか別箇の属性毎に異なったアプローチの仕方を採用することで避けられるある種の誤謬とか推論の誤り自体が発生する可能性を最初から見越して、論理的に解析処方を構築していくという仕方は、既に一つの科学であり、固有のエンジニアリングテクノロジーである。
 一方言語学では言語自体の規則は寧ろ最初から我々が自然言語として援用されている当の現実自体に示されていて、その規則性の解析を如何に有効な構文モデルを構築するかによって理解しようとする姿勢である。これは寧ろ哲学の言語を使えば素朴実在論であり、反実在論とか様相論理などを駆使する分析哲学のア・プリオリな真理論とは対極のものである。
 そして当然私は以前ソシュールやイェスペルセンなども読んでいたので、各発表者の短い時間内での発表を聴いてその場である程度全貌を曲がりなりにも理解出来たのはこちらの方である。
 そしてこの二つの全く異なった分野の共同シンポジウムに於いて顕著に示されたこととは、ア・プリオリに規定されていると捉える真理論である論理学とは我々の言語的思考全体に渡って、それを根底から支える想像力や認識力を構築していく為の世界把握的な真理の雛形を予め前提しているが、言語学の方はその様な前提そのものは持たず、あくまである部分では現象学的メソッドで現実に我々によって日常生活に於いて既に援用されている規則を、例えば日本語と英語の比較検討の上で考察するという態度である故、論理学の様なア・プリオリな真理論としての重層性はない。ではだからと言って言語学が欠陥を持っているとは必ずしも言い切れない。何故なら言語学とはその素朴なアプローチであるが故に規則の解析に於いてナンセンスとか言語表現上での意味と無意味、意味伝達可能性と不可能性を具に発見することが出来る。それはある意味では論理学の側からすれば新鮮な発見でもあった筈である。つまり論理学者の方から誘いをかけたシンポジウムであることの理由はそこら辺にある。
 とかく論理学者は単純な真理を敢えて難しく捉えてしまう癖がある。つまりカテゴライズされたメソッドを伝統的に踏襲しようとしたり、重層性に於いて理解したりしようとすると、却って現実に於ける単純な真理や彼等にとって専門である筈の論理さえすり抜けていってしまう可能性がある。従って論理学者のアキレス腱とは端的に曖昧性の解消などを論理的構造分析からアプローチする場合に、その当の曖昧性を発生させる要因を掴み損ねるという性質がある。もっと簡単に言えば真理論的に解析する余り、論理的構造分析ではない仕方からのアプローチである方がずっと有効である様な場合さえ、何とか論理、もっと言えば理屈的な脳内思考で解決しようとしてしまうというところがあるのである。それは「私とは何か」などの様な分析哲学的解析でも言えることである。尤もこの問題はそれはそれでかなり厄介な問題を含むので、別の機会に詳述しようと思う。
 言語学の場合は逆に最初から規則という現実をア・プリオリな真理から解析しようという姿勢そのものがないので、却ってある規則の例外などを示す場合に、その例外の発生要因を真理論的に予め脳内で設定された前提からロジカルに証明する必要がないので、言語学外的な例外発生要因の解明可能性を却って容易に示しやすいとさえ言える。この素朴な態度は固有の科学であり固有のエンジニアリングテクノロジーであるよりは、寧ろ最も現実的な経験論であると言える(論理学で前提される真理論はあくまで合理論的な色彩は強い)。
 すると最初に触れた生の不確実性と未来への予測出来なさと、何事かの人生上での出来事に対する告げ知らされなさの問題に戻ると、論理学とはあくまでその告げ知らされなさを克服して、「いや、しかし本当はある筋書きは存在するのだ」という前提の下に思考を進行させていく学問であるとは言えるのではないか?逆に言語学の場合はそもそもその様な前提など設定する様な野心自体を持たないので、人生全体の設計図に対してはブラックボックスのままにしておいて一向に差し支えないという態度である様に私には思われた。最も自然言語研究の分野は意思疎通上での予測不能性や不確実性を蓋然性から解析していこうとするので、同じ言語学でも統語構造モデルを現実に即して考えていくというアプローチとも全く異なっている。そして会に於いて休憩時間内にある研究者から小耳に挟んだことには、同じ言語学でもこの二つのアプローチは反目し合っているということであった。もしそれが本当のことなら(恐らく本当であろうが)、かなり当の問題は錯綜している。
 既に言語学と論理学の接点的領域ではparser(パーサ、或いはパーザ)などの自然言語構造解析プログラムなども使用されているし、理論計算機科学、数理論理学のラムダ計算なども使用されていて、そのメソッドの選択に従って恐らく同じ言語学でも論理学でも全く今後の展開可能性は異なってくるのだろう。そういった意味では仮に異分野の専門家が「そのメソッドを応用するメリットは何ですか」とか「そのメソッドから引き出される推論や解にはどういう意味があるのですか?」と質問しても、講演者本人自身が恐らく哲学者に「世界の真理とは何ですか」とか脳科学者に「意識とクオリアの関係とは何ですか」とダイレクトに質問する様なもので、絶対に客観的に説明を加えて返答すること自体が不可能であるだろう。
 つまり何も筋書きも一切告げ知らされずにある日突然生まれてきて、幾多の出来事と幾多の出会いを持ちながらある日突然死ぬ人間の生涯の様なもので、そもそも自分が疑問に思ったことにアプローチするその仕方、疑問の持ち方から疑問の解消の仕方自体が各自異なり分野、或いは専門領域毎に異なっているが故に、研究メソッドのメリットも立てられる推論や導出される解自体の意味も客観的に他者に説明すること自体が不可能なのである。
 これは世界を世界の外側から俯瞰して、人生全体の時間を予定調和的に筋書きの様に検討すること自体の不可能性と全く同じことである。

5 comments:

  1.  論理学と言語学についてお書きになっておられること、確かに当を得ていると思います。
     現代論理学はまず哲学というよりは数学の一分野だと思いますから、その意味で公理主義的なアプローチ(ア・プリオリな真理論)が取られるのは当然のことで、そのようにして作られた体系が現実の言語なり真理概念なりにどれだけ合致するか、逐一エミュレートしているという感じですね。しかし先行するのは数学的興味で、現実との合致は飽くまで傍論と言えるかも知れません。それに比較すると、言語学は確かに経験主義的で、より自然科学に近い営為だと感じます。言語学の場合、人工言語を扱う場合を除いては、現実と合致させることが主要な目的でしょうから。
     しかし論理学の場合、数学という視点からは確かに予定調和的と言えるかも知れませんが、そもそもそれを世界なり人生なりの記述としては考えていない、少なくともそのままスライドさせて論じることのできるものではない、という点も、充分考慮されるべきですね。論理学を飽くまで世界の記述と捉えるのなら、世界を一番よく記述する体系はどのようなものかということが、経験的に探究されなければならない(つまり、どの体系を真なる体系と見なすか、体系の取捨選択は、予定調和的ではなく、経験的です)。結局、論理学にしろ言語学にしろ、具体的なものから抽象的な法則を取り出そうとする点においては同一で、そこで取り出された抽象的な法則を実験する段階にあっては、一旦はア・プリオリな真理論に立っているふりをして検証しなければならない。しかし、飽くまでそれは「ふり」だということも、やはり意識はされているのではないでしょうかね。

    ReplyDelete
  2. 「論理学の場合、数学という視点からは確かに予定調和的と言えるかも知れませんが、そもそもそれを世界なり人生なりの記述としては考えていない、少なくともそのままスライドさせて論じることのできるものではない、という点も、充分考慮されるべきですね。論理学を飽くまで世界の記述と捉えるのなら、世界を一番よく記述する体系はどのようなものかということが、経験的に探究されなければならない(つまり、どの体系を真なる体系と見なすか、体系の取捨選択は、予定調和的ではなく、経験的です)。結局、論理学にしろ言語学にしろ、具体的なものから抽象的な法則を取り出そうとする点においては同一で、そこで取り出された抽象的な法則を実験する段階にあっては、一旦はア・プリオリな真理論に立っているふりをして検証しなければならない。しかし、飽くまでそれは「ふり」だということも、やはり意識はされているのではないでしょうかね。」はまさにその通りだと思います。又案外論理学はシンタックスなどの解析には有効ですが、恐らくかなり意味論的には限定されるでしょう。私が矢田部さんに質問した時何らかの指示を与えてやれば、コンピューターで意味解析もしてくれるだろうと予測していましたが、それはかなり限定的で未だ我々自身の脳が直観的に判断する様にはいかないのではないでしょうか?
     要するに貴方の仰る通り論理学は形式論理の実際の言語解析の為の有効モデル構築論であり、その完成度自体への追求であり、その点では言語学の方が寧ろ言語現象の実体に即していると言えます。
     只最後の貴方のご指摘の通り、「具体的なものから抽象的な法則を取り出そうとする点においては同一で、そこで取り出された抽象的な法則を実験する段階にあっては、一旦はア・プリオリな真理論に立っているふりをして検証しなければならない。しかし、飽くまでそれは「ふり」だということも、やはり意識はされている」と思いますよ。仰る通りです。

    ReplyDelete
  3. 追伸 それから確かに貴方の仰る通り論理学と人生の関係はその通りではあると思います。しかしこのエッセイ風解説の場合、ある程度比喩的にそれを語っているということは言えて、それはそれで全く見当外れでもないとは思います。つまり学術的には貴方の仰る通りで、エッセイとしての文脈としては私の解釈も許されるとは言えるのではないでしょうか?
     

    ReplyDelete
  4. >又案外論理学はシンタックスなどの解析には有効ですが、恐らくかなり意味論的には限定されるでしょう。私が矢田部さんに質問した時何らかの指示を与えてやれば、コンピューターで意味解析もしてくれるだろうと予測していましたが、それはかなり限定的で未だ我々自身の脳が直観的に判断する様にはいかないのではないでしょうか?

     そうだと思いますね。数理論理学の世界では、意味論を扱うものに「モデル理論」という分野があり、統語論を扱うものに「証明論」という分野があるのですが、コンピューターが形式文法を扱う方が得意なせいもあってか、なかなか意味論を発展させるのは難しいようですね。自然言語処理の方面でも、意味論に基くアプローチは苦戦していると聞きます。もっとも、理論上の問題があるというよりかは、扱う辞書が巨大になり過ぎて対応し切れない、という実践上の問題がネックになっているのだと思いますが。

    >つまり学術的には貴方の仰る通りで、エッセイとしての文脈としては私の解釈も許されるとは言えるのではないでしょうか?

     勿論そうですね。その意味では、論理学と言語学のある側面を対比させることで、人生に対する態度の違いを描き出すことに成功しておられると思います。まあ当方のコメントは、補註みたいなものだと思って読み流していただければ。

    ReplyDelete
  5. 意味論に基くアプローチは苦戦していると聞きます。もっとも、理論上の問題があるというよりかは、扱う辞書が巨大になり過ぎて対応し切れない、という実践上の問題がネックになっているのだ とは私の考えではある語彙が示す意味が同語彙異意味語の場合に、そのいずれを選択しているかが、日常自然言語では状況(例えば論理学者が集まる場での「統語」という語の持つ意味とか)に依存しているので、その状況判断自体を機械が語だけからすることが不可能だという問題、つまり機械が主体的に状況を判断して語彙の意味を対話文脈や状況から弁別する機能を確立することがテクノロジー的にも困難ということが言えるのではないでしょうか?

    ReplyDelete