Wednesday, December 15, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十章 日本人の精神構造と戦後社会の精神

 現代社会であるパワーを持った政治家、官僚、知識人など全てのエリート層と、それを支持する母体、或いはそれを支持する大衆という図式から考えると、ある極めて矛盾した歪な構造を日本社会が携えていることは誰しも感じ続けてきたことだろう。
 社会には我々個々人が携える信条とか良心とか良識とは又一種別箇の独特な暗黙の良識が蔓延っている。これはそう容易に全ての個々人に越権させることを許さぬものがある。その一つが学閥であり、その一つが資本主義社会のルールであり、その一つが世論形成システムである。
 勿論他にも沢山あるのだが、その三つの内今回は後者二つに就いて扱おう。
 戦後日本社会はGHQの占領下様々な敗戦処理の中で政策が取られた。その一つが財閥解体であり、その一つが農地改革である。
 とりわけ日本では財閥解体がなされたのにも関わらず、一切手付かずだった組織が幾つかある。それが外務省であり、あらゆるマスコミ報道機関であり、NHKである。この事実が意味するところは極めて重大である。
 現代日本の資本主義ルールは実は極めて固有の情感に彩られている。それは一言で言えばまさに「出る杭は打たれる」であり、それに真っ向から抵抗した政権こそ小泉政権であり、竹中金融路線であり、ホリエモンであり、哲学界では中島義道による対話論である。それ等全てを私は肯定してはいない。しかしそういうトライアルとしてそれらの活動が位置づけられることから日本社会を読み解くことには意味がある。
 現今の世論形成に於いて極めて大きなバロメータになっているものに国会中継がある。これはNHKが取り仕切ってきた。そしてこの番組枠で放映される発言や個々の政治家(与野党問わず)のイメージは決定的な国民自身への記憶の印象となって、世論形成の際の国民自身の意志決定に影響を与えている。
 従って政治家は如何に発言から立ち居振る舞いに至るまで、否ファッションまで気を遣い(恐らくファッションコーディネーターからメイクアップアーティストまで雇っているだろう<少なくとも経済力のある大臣、与野党有力政治家達なら>)如何に巧く国民に自己政治信条から政策的主張を「イメージづけるか」に苦慮する。
 しかしNHKの放送枠で示されるイメージに対して常にそれを批判したり、解釈したりする存在こそ民放である。民放の指針とは常に前後左右に揺れていて、絶対に一貫性はない。それを言うならNHKも然程ない。しかし少なくともNHKは民放ではないので、民間の企業や法人組織に対する利害関係からは一見解放されている様に見える。しかし実際は各自治労、官公労、連合、それ以外の全ての組合組織とは密接に繋がっている。そのことを知らずにNHKを見ている視聴者は恐らくいまい。
 従って日本式資本主義ルールはそういった見えない良識というバリアを張り巡らせていて、個々人間のフェアな競争原理とは一線を分かっている。これこそ竹中平蔵が改革に乗り出そうとしていたことであるが、小泉元総理はその改革にストップをかけた。さしもの竹中如きにその種の改革は優勢民営化の様には絶対に行かないと踏んでいたからである。このことも又誰しもが周知の事実である。
 一方で民放が激烈な与党批判に終始していて、しかしその民放による批判的見解の激烈さに対する融和剤、調整作用をNHKが常に買って出ている、否そういう役割であることを暗黙に我々国民自身が認可してしまっている。
 しかし一時期放送受信料の未払いが多発して、それに対する対処として新会長による政策転換により、民放アナウンサーやタレントを多く起用する様になった(鳥越俊太郎やタモリ、姜尚中など)ことから、一見NHKは改革されたかの如き様相を呈しているが、一般社会の良識を維持し続けるという機能に於いてNHKは厳然と戦後の体質をそのまま引き摺っている。事実NHKはスタッフ職員などに関しては東大、京大、早稲田、慶応四大学からしか中途採用を取らない。それにも増して日本のビジネスパーソンから主婦に至るまで、日頃の情報摂取に於いて、極めて多くの局のニュースを受信することが出来るにも関わらず、大半の情報は日本記者クラブなどによって検閲されていることも又知らぬ者はいまい。そして例えばテレビ朝日は日本テレビよりは左寄りであり、「相棒」などのドラマでは必ず警察組織とか検察組織が組織毎隠蔽体質であることを告発する内容のドラマに仕立て上げていて、その正義的ものの見方の定型自体に視聴者は殆ど疑問を抱かない。それは要するにドラマの世界だからということで、大して気にも留めないままでいるのだ。
 しかし実際に選挙などで蓋を開けてみると、去年の政権交代の時もそうだったし、昨今の地方選挙でも補欠選挙でもそうだったが、極めて民法各局での世論誘導型の方針に影響を受けている。最近では唯一異なっていたのは2005年の優勢解散総選挙の時くらいであった。あの時は郵政民営化に対する反対陣営の意見が喧しく民放で論争されたが、蓋を開ければ自民党の圧勝であった。
 しかしそれ以外では大半が民放の世論誘導に有権者達は踊らされてきた。しかし実際我々有権者達は幾つかの政府へのクーデターを経験してきた。それらの挙の正当性や結果的な善悪を取り敢えず保留にしても、その一つが今述べた郵政解散総選挙に纏わる小泉元総理による参議院法制定否決後決断された衆議院解散という挙であり(これは総理大臣による特例的な解散権乱用である)、もう一つは小渕元総理が倒れた際に密室で次期総理を森氏に決めたこと(青木幹夫、村上正邦、野中広務、亀井静香と森喜朗元総理の五人組による暴挙。2000年)である。これも皆知らぬ者はいない。
 にも拘らず我々日本人は民主主義の正当なる手続きよりも、その時々で狡猾に一切のルールを無視してことなかれでことを穏便に済ますという手法に慣れきっている。その証拠にこれらの挙に対する法的、手続き的無視への批判は終ぞなされ得ない(あるいはうやむやにされてしまっている)。
 つまりそういった手続き無視の、ある意味では結果させよければどんな手法を使っても許されるという不文律を形成させてきたものこそ、日本人固有の良識である。そしてそれを形成させてきた元凶としてNHKと民法による暗黙の世論形成とその融和、或いは調整という共犯関係である。そしてそれに加えて日本社会では出版企業界や論壇、学閥などが何処かでそれらと歩調を合わせるかの様に(実際の名を挙げれば日本学術会議を頂点とする学会組織全部、それに大学組織、大手出版社各社である)右へ倣えをしてきた。
 それら全体が右に倣えをすると、必然的に電通や博報堂などの大手宣伝媒体はあたかもそこで形成された暗黙の合意を世論であるとして各民放に流すCMを制作し、それを放映して世論として煽る。彼等はアウトソーシングのプロであるので民間下請け機関全ては大手宣伝媒体の命令に付き従う。
 視聴者は次第にかつて自分達自身がクーデターを起こしておきながら、小泉フィーヴァーによる政権運営自体に「劇場型政治である」と批判した野中広務による批判的提言のままに、ビジネスパーソンも主婦も学生も劇場化された社会世相に対し、それが恣意的にNHKと民放とその支持母体である各種組合組織、そして新聞社や日本記者クラブ、それを陰で助長している学閥、大学経営者、大手出版社、宣伝媒体の思惑であることを知ってか知らずが、世論とは「そういうものだ」という諦念によって「相棒」などによるドラマ制作のモティヴェーションや小説、映画、演劇の世界での現実描写と、実際の社会の様相との間の境界を明確に持つことなく、虚構と現実の境目を曖昧化させつつ、一旦失言をしたとされると、その本人の思惑とかモティヴェーションなどは全く顧みられず竹中平蔵の言葉を借りれば「魔女狩り」の如き様相で訴追する様になるのだ。その事実に日本国民は一切抵抗する心の余裕はない。
 この日本社会の固有の世論形成に纏わる連動性が、ソフトバンクであれやフーであれ民間企業の経営戦略にもかなり制約を課してきたことだけは確かである。要するに日本式資本主義社会とは、世論形成に伴う固有の全体的ムードが支配的になり、その受信者である国民の間で実相と虚的な事実との間での見分けがつかなくなり、その「見分けのつかなさ」自体を受け入れる形でしか民間企業も政界も官僚組織も職務を遂行出来なくなってしまう形でしか運営されていない。これは一切の正当なる権力遂行を事実上不可能と化している(そのことを直観的に訴えているのが中島義道の「善人ほど悪い奴はいない_ニーチェの人間学」(角川新書)である)。
 小泉元総理に郵政解散総選挙の暴挙を遂行せしめたのは他ならぬこの「見分けのつかなさ」とそのことへの国民、全ての有権者による諦念である。「現実とはそういうものだ、現実と虚構とは見分けがつかぬものなのだし、それでいい、仕方ない」という諦念である。
 政治も国会中継によるショーであり、官房長官の発言も首相のぶら下がり会見も全て「やらせ」性に彩られている。つまりそういった現実と虚構との間の「見分けのつかなさ」への諦念こそ、中島義道をして当の本で批判せしめている 2ちゃんねる の匿名の書き込みを、ストレス解消として助長しているのである。
 確かに現代でも東浩紀、茂木健一郎、宇野常寛といった時代の寵児達はいる。しかし彼等の活動全般を彩っているのは只単に反映であり、勿論反映行為が悪いことであるわけではないのだが、端的に彼等の活動全般は決して社会を変革はしない。その変革出来なさの実態を時にアイロニカルに、時にアレゴリカルに<動物化するポストモダン>とか<大きな物語の喪失と小さな物語の乱立>とか<クオリア>とかの語彙によって時代を象徴しているだけである。
 それはある意味ではダニエル・デネットが「ダーウィンの危険な思想」でスティーヴン・ジェイ・グールドやナイルズ・エルドリッジといった古生物学者(paleontologists)達が提唱した化石発見から引き出される進化論的考え、つまり断続平衡説への物語性への批判(それはあくまで実際に発見されたものだけに依拠して判断されるが故に、発見されていないもの全般への完全無視に直結するという懸念からなされた哲学的批判だった)に見られた真理論と相同のベクトルを持っている。
 要するに我々は理解しやすい物語(このことに関しても批判論的に中島は例の本でヒトラーの戦略を引用している)に惹き付けられ易い。しかしその陰には必ず恣意的な策謀、つまり作為があるのだ。そして魔女狩り的なenthusiasmが必ず存在するのだ。そのenthusiasmを助長しているものこそ、「そういうものだ」という諦念であり、「現実とはそういうものだ、現実と虚構とは<見分けがつかぬもの>なのだし、それでいい、仕方ない」という諦念である。
 今回の菅総理による法人税の引き下げは民主党与党延命策としてはまあまあだったが、またぞろ我々の眼前にマスコミ全般と各支持母体による思惑からどんな世論形成的良識が発動されるか、我々は少なくも自己防衛的に注視していく必要だけはあろう。

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